幕間 早朝の独白

 窓から差し込む朝の日差しの中、制服を着て椅子に座る。


 机に立てた鏡の奥にはまだ眠そうな顔が映っていた。美人であると自覚しても、罰は当たらないくらいに整った顔だと思う。


 そのことは中学の時に嫌というほど教え込まれた。


 友人が私を裏切ったのは、色恋沙汰のせいだった。


 友人が思いを寄せていた男子が私に告白した。好意なんてなかったから振った。それがきっかけで友人は私のいないところで、こそこそと陰口を叩くようになった。


 ただそれだけの、どこにでもあるようなありふれた話。


 でも私を人間不信にするには、十分だった。明るい性格ではないのに優れた容姿をしているから、小さなころから妬まれることが多かった。これまでの人生で膨れ上がった不信が、友人の裏切りによって一気に爆発してしまったのだ。


 だから最初こそ涼香にも裏があるのではないかと疑っていた。けれど顔を合わせるたびに人懐っこく詰め寄られたら、固い心の障壁もすぐに崩れてしまった。裏を感じさせない笑顔で、毎日のように私のことを「可愛い」と褒めてくれたのだ。


 涼香に出会うまで、私はこの容姿が大嫌いだった。贅沢な悩みなのかもしれない。でもこれさえなければ辛い思いをすることはなかった。裏切られた日のことを思い出してしまうから、鏡を見ることにすら抵抗感があったのだ。


 でも今は違う。


 涼香が私の容姿を好きだと笑ってくれる。ただそれだけで救われる。


 涼香のことを思っていると、鏡に映る自分の唇に意識が向いた。


 思い出すだけで顔が真っ赤になる。焼けてしまいそうなほど熱いのだ。あの人に会うまではいつだって無感情だったのに。


「そばにいなくても、あなたは私を苛むのね」


 うつむいてため息をつく。丘の上でしたキスは凄かった。


 唇に指先で触れると、あの時の熱が蘇る。感じたことのない幸福と痺れるような快感は大きく波打つようだった。でも同時に途方もない疲労感も体を満たしていた。


 キスをしてくれるのなら、してみたい。けれど涼香とのキスは精神的に疲れる。


 だから私は現実的ではない条件を出した。


『期末テストで十位以内に入りなさい』


 常識的に考えて、赤点すれすれの涼香には不可能だ。


 勉強は積み重ね。貯金があればあるほど有利になる。怠けたことのない私だって、それなりに勉強しないと十位以内になんて入れない。


 それでも、涼香なら成し遂げてしまいそうな気がする。


 恋愛的には好きでもないのにキスをしてしまう。酷いことをした私を許して、それどころか寄り添ってくれる。あの人は、私のためなら本当に何だってしてくれるのだろう。だからこそ、胸が苦しい。


 痛みをこらえながら髪を丁寧に梳いていく。涼香に褒めてもらいたい。ただそれだけのために。容姿なんて整えるだけ馬鹿らしいと思っていたのに、今ではもっと綺麗になりたいなんて考えてしまう。


 涼香を恋に落とせるくらい、美しく。


 そんなのあり得ないと分かっているのに。


 私たちは友達でしかない。それ以上になることはない。


 涼香はきっといつか恋人を作るのだろう。結婚だってするのだろう。その時、私は幸せそうにする涼香を、笑顔で見送れるのだろうか。それとも、玄関で押し倒したあの時みたいに全てを壊してしまうのだろうか。


 もしも涼香が優しくなかったら、私たちの関係はあそこで終わっていたのだ。


 未だに涼香以外の人は誰も信じられない。表向きは友好的でも裏では何を思っているか分からない。でもいつか涼香を苦しめてしまうかもしれないのなら、今の依存のようなつながりは薄めた方がいいのではないか。


 けれど今はまだ涼香以外の人と時間を共にするなんて、考えたくなかった。私は涼香が好きだ。いつだって涼香のそばにいたい。涼香の横顔をみつめていたい。温もりを感じていたい。涼香と笑い合っていたい。


 いつまでも、ずっと一緒がいい。


 子供じみたわがままだって分かっている。


 けれどいつか大人にならないといけないことも理解している。だからせめて今だけは子供のままでいさせてほしい。叶わない夢に焦がれていたい。


 口元を緩めて鏡をみつめる。寝起きの私はもういない。「今日も可愛いね」と褒めてくれる涼香の笑顔が頭に浮かんでくる。


「……さて。そろそろ時間ね」


 もう一度鏡の向こうの私をみつめてから、家を出る。


 時間が時間だから通学路の途中の大通りは、通勤や通学をする人たちでにぎわっていた。早く通り抜けてしまいたくて、自然と早足になる。人ごみを抜けて静かな小路の前までやってくると、小さく安堵の息をつく。


「あ、おはよう! 葉月!」


 明るくて元気な声が正面から聞こえてきた。満面の笑みで手をぶんぶん振る度に、ふわふわしたミディアムヘアが揺れている。


 背は私よりもほんの少し低い程度だけれど、くりんとした黒い瞳と人懐っこい笑顔が子犬みたいで可愛らしい。よしよしと頭を撫でてしまいたくなる。


 近くまで歩いてくると涼香はニコニコした。


「葉月は今日も可愛いね!」


 土日のことは忘れてしまったのだろうか。そんな疑念を抱くくらいに変わらない声だった。嬉しいような、寂しいような。言葉では言い表せない感情を胸に抱く。


「今日もあなたはナンパみたいなことを言うのね」


 肩をすくめてつぶやくと、涼香は申し訳なさそうに眉をひそめた。


「ごめんね。葉月の顔すっごく大好きなんだ。黙りたくてもついつい言葉にしちゃうくらい。でも嫌なら我慢するよ?」


 雨に濡れた子犬みたいにしゅんとしてしまうのだ。私は大慌てで首を横に振った。


「嫌じゃないわ。嬉しい。これからもたくさん褒めて欲しいわ」


 涼香はほっとしたみたいに息をついた。


 私は感情を表情や仕草で出すのが得意じゃない。涼香のように全力で表現できるのが一番なのだけれど、生憎そんな人生は送ってこなかった。


 せめて言葉では、思っていることを全て伝えたい。


「葉月は世界で一番可愛いもん。褒めないほうがもったいないもんね」


 私は涼香の素直さに惹かれたわけだけれど、どんな良薬だって摂りすぎれば毒になるのと同じ。ためらいのない笑顔でそんなことをつぶやくものだから、悶えてしまいそうになる。


 世界で一番は流石に言い過ぎだ。でも涼香のことだから本当にそんな風に思ってくれているのだろう。恋愛的な好意がないと分かっていても、やっぱり嬉しくなってしまう。死ぬまで一緒にいたいくらい涼香が大好きなのだ。


 ごくごく自然に手を繋いで小路に入る。


 今日から忙しくなる。十位以内を取りたいのなら生半可な努力ではだめだ。


 この一か月は、放課後も休日もずっと一緒に過ごすことになるのだろう。そしてもしも全てがうまくいけば、私たちは毎日のようにキスをすることになる。


 心はぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまうのかもしれない。でも私だって涼香と唇を重ねることを望んでいる。一生忘れられないくらいに、呪われてしまいたいのだ。

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