第12話 今はまだ届かない言葉
「……んっ」
キスをした瞬間、艶っぽい声が漏れ聞こえてきた。
敏感な部分が触れ合ってぴりぴりする。葉月のは柔らかくて温かくて、私のとは全然違う。隙間がないくらいくっつけてみたり、上唇を軽く挟んでみたり。
その度、気持ち良さが体の芯まで響くのだ。
やめ時が分からなくて、いつまでも触れ合わせてしまう。うっすらと目を開けると、色っぽく細められた目が苦しそうに私をみつめていた。マラソンの後みたいに息が荒いのだ。
長くキスをし過ぎていたことに気付いて、私は大慌てで唇を離した。
「ご、ごめんなさい……」
葉月に背中を向けて、小さく縮こまる。気付けば物足りなさを感じる唇を、自分の指先で誤魔化していた。胸がうるさい。これでは本当にいやらしい人みたいだ。
静かに羞恥に悶えていると、荒い息のまま葉月はつぶやいた。
「……涼香は、私に好意なんてないのよね?」
「ごめんね。でもキスは好きかも」
肩をすくめて振り返ると葉月にジト目でみつめられた。
「私の気持ちも少しは考えて欲しいものだけれどね……」
「葉月を我慢させたくないんだよ。これからはキス、好きな時にしてくれていいから」
恋人になれるのならなってあげたい。でもやっぱり無理なのだ。だからせめて葉月の願いは何でも叶えてあげたい。
微笑んでいると葉月はため息をついて、ベンチから立ち上がった。
「……するわけないじゃないの。変なこと言ってないで帰るわよ」
「私がして欲しいって言ってもしてくれないの?」
葉月を追いかけて遊歩道を歩いていく。
「しないわ。絶対にね。私は涼香みたいにふしだらではないのよ」
「私だってふしだらじゃないよ。勘違いしないで。キスが好きだっていうのは、相手が葉月だからだよ。葉月以外の人となんて絶対にキスしたくない」
「あ、あなたね……」
隣まで向かいぎゅっと手を握る。上目遣いで見つめると、葉月は顔を真っ赤にしていた。目が合った途端に慌ててそらしている。
「分かったでしょ? 私の気持ち。恋人にはなれないけどキスならいいんだよ」
葉月は目を細めて、呆れたみたいに深くため息をついた。
「よく分かったわ。私のことを本当に大切に思ってくれているのだとね。でもそれだけで十分なのよ」
手のひらが頭に伸びる。優しく髪を撫でてくれるのだ。これまでの私なら信じたと思う。でも今は信じられない。葉月は私への好意を隠していた。
押し倒して泣いてしまうくらい好きなのだ。キスをしているときの恍惚とした表情を思い出せば、なおさら信用できない。今も本心では何を思っているのか。
「あなたはいつも通りのあなたでいてくれればそれでいい。変に気は回さなくてもいいわ。私が望むのは涼香が隣にいてくれることだけなのだからね」
夏の終わりに鳴る風鈴みたいな声だった。
眉をひそめて横顔をみつめていると、不意にからかうみたいな微笑みが現れた。
「……でもそうね。一つだけ望みがあったわ。くれぐれも期末テストでは赤点を取らないでね。五月の中間テストはなかなかに悲惨だったでしょう?」
急に痛い所をついてくるものだから眉をひそめる。
平気でテストの話題を出してくるのは、勉強に対する恐れがないからだ。私のような鈍物からすると極力避けたい話題だというのに。
「やっぱり葉月は凄いよね……。勉強するだけ身につくんでしょ?」
「重要なのは覚えようとする意志よ。これさえあれば授業中に全て記憶できるわ」
「葉月が凄いからそういう風にできるんじゃないの?」
「先天的、後天的な要因で能力の差は生まれる。それは否定しない。でも一番重要なのは意志よ。前向きな意志がなければ、世界一の天才でも何も成し遂げられないわ」
清々しいまでの正論だ。けれどほとんどの人はそんなに強くない。
上手く行かないことばかりだとモチベーションはごりごり削られていくわけで……。力強い動機がなければ苦手なことは頑張れないのだ。
というわけで、私は上目遣いであざとくおねだりした。
「葉月が教えてくれるのなら、頑張ってみようかな」
目を見開いている。顔が真っ赤なのだ。それでもやがては快く頷いてくれた。
「いいわよ。赤点を取れば夏休みは補習を受けることになる。あなたとの時間が減るのは私も嫌なのよ。行きたい場所はお互いにたくさんあるでしょう?」
「うん! 海とか水族館とか、あと花火大会とか」
脳裏には無数の幸せな未来が現れては消えていく。
やっぱり葉月が好きだ。素直に自分の思いを伝えてくれる。嘘偽りのないありのままの姿が愛おしいのだ。だからこそ、隠そうとしている本音だって教えて欲しい。葉月が望んでくれるのなら、恋愛以外なら何だってする覚悟が私にはあるのだから。
「私からも一つお願いがあるんだけどいい?」
「何でもいいわよ。聞かせなさい」
顔を熱くしながら、鳶色の瞳をまっすぐに見つめる。こんなことを伝えるのは正直言って、死んでしまいそうなほど恥ずかしいのだ。それでも言葉にしなければこの人はずっと我慢してしまうのだろう。大きく深呼吸をしてから喉を震わせた。
「葉月と毎日キスがしたい」
遊歩道に覆いかぶさる木陰の下、長い髪が風になびく。
葉月はまん丸に目を見開いていた。耳まで真っ赤になっていて可愛い。けれど動揺もすぐに治まったようで、やれやれとでも言わんばかりに肩をすくめる。
「変に気を回さなくてもいいって言ったわよね?」
「気なんて回してないよ。ただ、葉月とのキスが気持ち良かったから……」
声に出すと思ったよりも恥ずかしい。顔が熱すぎてうつむいてしまう。葉月もまた耳まで赤く染め上げていた。なんだか急にいたたまれない気持ちになってくるのだ。恥ずかしい空気を誤魔化したくて、大げさに身振り手振りしてみせる。
「美味しいものがあれば食べたいって思う。手の届くところにあるのならなおさらだよ。キスだって同じことじゃないかな。葉月のためとかじゃない。私がしたいんだよ」
「……やっぱり涼香ってふしだらよね」
蔑むみたいなジト目でみつめてくるのだ。
でも当然だ。葉月は好意から私とキスをすることを望むのに、今の発言はまるで体だけの関係みたいな物言い。最低な発言だと思う。
でも私にも利があると示さなければ、葉月はきっとキスを受け入れてくれない。
「私のこと、嫌いになっちゃった?」
「そんなわけないわ。涼香が涼香であるというだけで、なんでも許せてしまうのよ。私もあなたのことは、……本当に大好きだから」
力なく笑った。思いの届かない相手にキスをするのは辛いのだろう。でも一人で抱えるのも辛いはずだ。同じ辛さなら、気持ちをいくらでも私にぶつけて欲しい。恋愛のレの字も知らない私だから、正しいのかなんて分からない。
でもどんな苦しみだって一人で抱えて欲しくない。
私が言えたことじゃないって分かってる。能動的に苦しめるか、受動的に苦しめるかの違いでしかないのだ。
唯一胸を張って伝えられることがあるとするなら、それはたった一つだけ。
「葉月とたくさんキスして、お互いに一生忘れられないほど気持ち良くなりたいんだ」
「……言い方がいやらしいのだけれど」
「でも大切な人と同じ感覚を共有するって、凄く幸せなことだと思う」
転校を繰り返してきた私は誰にも愛着をもてなくなっていた。
何一つとして共有できるわけがなかった。葉月に出会ってから本当に全てが変わったのだ。一緒にいるだけで苦しみすらも幸福の色に塗り替えられてしまう。
キスの気持ち良さだって分かち合いたいのだ。
両手で葉月の手をぎゅっと握り締める。
「お願い。葉月」
目をそらさずにいるとしぶしぶと言った風に頷いてくれた。
「分かったわ。でも条件がある。期末テストで十位以内に入りなさい」
「……えっ」
かぐや姫並みの難題に思考が停止する。万年平均以下の私なのだ。
でも葉月には無理難題を押し付けたつもりはないらしい。真剣な顔をしている。
「私も協力するわ。あなたに意志さえあれば成し遂げられるはずよ。快楽のために人の純情を汚そうとしているのだから、相応の覚悟はあるのよね?」
「……うん。葉月とキスできるようにたくさん頑張るね」
胸元で小さく拳を作って気合を入れる。期末テストまではあと一か月弱あるのだ。葉月の手を借りれば不可能ではない、はず……、だと思いたい。
「……その好意がほんの少しでも、私と同じ方へ向いてくれればいいのだけれどね」
風に乗って届いたささやきは、聞こえないふりをした。
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