第10話 失いたくないもの

 顔をあげると、今にも泣きそうな表情だった。でもすぐに無理やりな笑顔を浮かべるのだ。胸が締め付けられるみたいに苦しい。


 本当は付き合ってもいいよって笑ってあげたい。


 でも、どうしても無理だった。


「ありがとう。誤魔化さないでくれて」

「……うん」


 苦しそうな笑みで抱きしめてくれた。私も優しく抱擁する。


 今日は誕生日で幸せな時間のはずなのに、それからのことはぼんやりとしか覚えていない。ケーキにろうそくを立てて、誕生日の歌を歌ってもらって火を吹き消した。


 葉月のプレゼントは小説だった。一番大切にしている物語らしい。あらすじには女の子二人の絆の物語だと書かれていた。


 十二時を回るころ、私たちは同じベッドで眠りについた。


 すすり泣く声が隣から響いてきたけれど、聞こえないふりをした。


「ただの友達」でしかない私が葉月のためにできることなんて、何もなかった。



 目覚めたとき、葉月はベッドにはいなかった。慌ててリビングに降りるともう帰り支度をしていた。目が合った瞬間、気まずそうにうつむいて笑う。


「今日はもう帰らせてもらうわね」

「……うん」


 昨日、私は無理強いしたのだ。葉月は帰りたがっていた。でも今帰せばもう二度と友情が戻ってこないような気がして、怖かった。


 だから強引に同じベッドで寝るように頼んだ。


 今思えば残酷なことをしてしまったと思う。でも私の葉月への思いは変わらない。世界で一番大切だって思っている。それを知って欲しかった。


 玄関まで見送りに向かう。葉月は暗い笑顔を浮かべて手を振った。


「それじゃあね。涼香」


 相変わらず目も合わせてくれない。告白を断ったからって友情を否定したわけじゃない。気まずくなるのは分かるけど、私と距離を取らないで欲しい。


 帰ろうとする葉月の手を引いて、ぎゅっと抱き寄せる。


「葉月のこと世界で一番大切に思ってるよ」


 全身を触れ合わせて耳元でささやく。


 いつもならすぐに抱きしめ返してくれるはずなのに、立ち尽くしたままだった。体は近いのに心はどこまでも遠く感じる。錯覚であってほしかった。


「……こういうのはもう、やめて欲しいわ」


 肩を押された。葉月の体温が遠くなる。


 今にも泣いてしまいそうな顔が、目の前で笑う。


「私は今も涼香のことが好き。恋愛対象として好きなのよ。あなたとただの友達でいるために、また気持ちが暴走してしまわないために、もう軽々しく触れないで欲しい。きっとあなたに嫌われるようなことをしてしまうから」

「嫌いになんてならないよ」


 もう一度、葉月を抱きしめた。どれだけ強く肩を押されてもくっついて離れない。


 私は葉月と恋人にはなれない。


 でも恋人なんてものよりもずっと強く思っているのだ。


「私、葉月と死ぬまで友達でいたいんだ。葉月が大人になって私よりもずっと凄い人を好きになって、恋人とか作って結婚とかして、それでも私は……」

「こんなことをされても嫌いにならないの?」


 不意に肩を押されて体が傾く。踏ん張ることもできず廊下に倒れ込んでいた。天井を見上げる私の上に、暗い影が覆いかぶさる。突然のことに状況を掴めない。


 困惑していると、透明な生温いしずくが頬に落ちてきた。


 目を見開く。呆然としていると葉月は静かに体を引いた。


「ごめんなさい。……嫌いになったわよね」


 無理やりな笑顔だった。何も言えずにいると玄関の扉が開かれる。ばたりと音を立てて締まり、室内には凍えるような静寂だけが残った。天井をぼんやりと見つめる。


 葉月の悲痛な笑みが脳裏に浮かんだ。嫌いになったわけではないのだ。でも「嫌いじゃないよ」なんて伝えても、きっと傷つけるだけだったのだろう。押し倒されるなんて普通は恐怖を感じることで、友達にしてはいけないこと。


 葉月だってそれは理解していたはず。肯定したって同情や憐みだとしか捉えてくれない。取り繕ったような言葉を伝えれば、私たちはもう二度と以前のような関係には戻れなくなる。


 でも何も言わないのも正解ではない。目を閉じて考えるけれど分からない。本当なら嘘をついてでも恋人になってあげるべきなのだろう。でも私は葉月の思いには答えられない。恋人なんて有限の関係でしかない。


 葉月とはずっと一緒にいたい。でもどうすればいいのか分からない。


 答えの分からない難問に重いため息をついて、よろよろと立ち上がる。


 胸が苦しくて気を抜けば泣いてしまいそうだった。ずっと一緒にいたいと思っていた人なのだ。この二か月間、毎日が幸せだったのだ。なのに突然崩れてしまった。お母さんの浮気が明らかになった、あの日みたいに。


 リビングの机の上には昨日葉月がプレゼントしてくれた小説があった。


 視界に入るだけで胸が締め付けられる。二人の女の子の絆の物語なのだから、今の私が読むには残酷すぎる。それでも葉月のことを思い出すと自然と手が伸びた。


 ページをめくっていく。


 最初は仲のいい友達な二人だけれど、主人公がヒロインに恋をしたことで何もかも全てが変わってしまう。そんな話だった。主人公たちは色々な葛藤を乗り越えて最後には結ばれるのだ。


 私だって葉月の思いを受け入れられるのなら、そうしたかった。でも小説の続きはどこにもない。ハッピーエンドの先には不幸が待っているのかもしれない。付き合わなければよかったと思うような、最悪のバッドエンドなのかもしれない。


 うなだれたまま最後のページをめくると、薄紫の便せんが床に落ちた。


 屈みこんで拾う。葉月の達筆な文字が綴られていた。私の誕生日を祝うものなのだろう。とても読む気にはなれなくて、そっと机の上に置いた。うなだれながらも考える。葉月に何を伝えればいいのだろう。どうすればまた仲良くできるのだろう。


 何にも分からないまま時間は過ぎていく。


 日が沈んでもスマホに連絡は届かない。気付けば時間は二十二時を回っていた。考えても考えても、仲直りする方法が思い浮かばない。起きていても辛いだけだ。いつもよりも早く階段をのぼって自室のベッドに向かう。


 また一人ぼっちの毎日が始まるのだろうか。もう二度と葉月とは笑い合えないのだろうか。悪夢のような想像が途切れてくれなくて、眠ることもできない。寝返りを繰り返していると、いつの間にかカーテンの隙間から日の光がさしていた。


 深いため息をつく。酷い眠気だけれど眠るのは諦めて、ベッドを出た。新聞配達のバイクが騒々しく住宅街を走っていくのが聞こえる。葉月は今、どうしているのだろう。眠っているのか、それとも私と同じようにまともに眠れていないのか。


 頭痛に頭を押さえながらリビングに降りる。テーブルの上の薄紫の便せんが目に入る。葉月がプレゼントしてくれた小説に挟まっていたものだった。


 葉月が恋しかった。それを手に取ったのは葉月の存在を少しでも感じたいからだった。便箋には私への温かな感謝の言葉が連ねられていた。最高の誕生日だって思ってた。でも私のせいで最低の誕生日になってしまった。


 もしも葉月の気持ちを受け入れられたのなら、全てがうまくいったに違いないのだ。でも散々後悔をした今だって受け入れようとは思えない。


 恋愛なんて、消えてしまえばいいとさえ思っている。お母さんに、これまで共に過ごしてきた家族を捨てさせた。かけがえのない幸せを投げ捨てさせた。


 私たちを捨てたお母さんは浮気相手にも捨てられて、今は一人で生きていると聞いた。本当に馬鹿げてる。せめてお母さんだけは幸せになって欲しかった。


 それならまだ最悪ではなかったのだ。でも恋は誰も幸せにしなかった。


 手紙をみつめていると涙が溢れ出してくる。もう私と葉月はこれまでの関係ではいられないのだろう。


 良くてただの友達、最悪、言葉も交わさない仲になってもおかしくない。恋なんてものがなければ、私たちはいつまでも最高の友達でいられたはずなのに。


『涼香。誕生日おめでとう』


 葉月の温かな笑顔が、文章を読むだけで浮かび上がって来るみたいだった。


 だけどもう私には向けられないだろう笑顔だった。


 読むのをやめてしまおうかと思った。心が痛くなるだけだ。それでもせめて葉月が思ってくれたことは、全て知りたかった。


 涙をぬぐいながら文字を追う。やがて誕生日を祝う言葉は終わった。


 でも数行の空行を挟んで続きの文章が連なっていた。

 

 ――私は涼香とならいつまでも仲良くいられると思っている。友達じゃなくなって、恋人になっても。お互いに年老いておばあちゃんになってしまったとしても。重すぎると思うかもしれない。でもこれが私の本心。誇張なんてないわ。


 ――もしも思いを受け入れてくれるのなら、キスをして欲しい。なんて流石に冗談よ。付き合ったばかりでキスをするなんて早すぎるものね。でも私はいつだってあなたに口付けをしたいと思っているのよ。永遠にあなたと笑い合っていたい、と。


 ――私はあなたの全てを手に入れたいと思っている。あなたが誰かと恋人になるのを黙ってみていられる気はしないし、結婚なんてもってのほかよ。返事はいらない。今はただこれだけ知っておいて欲しい。私があなたのことを世界で一番大好きなんだって。


 ――今は、それだけでいいわ。


 そこで手紙は終わっていた。


「……葉月」


 震える声が静寂に響く。葉月の言葉は綺麗ごとだとしか思えなかった。


 恋人の関係で永遠に笑い合えるなんて、私は信じない。これから先も、一生信じられないと思う。でも葉月は私が信じていない恋を信じていた。私たちが恋人になった先の未来に永遠をみていた。根元で願うものは同じだった。


 涙は止まらないのに、口元が自然と緩んでしまう。辛いのに死んでしまってもいいほど嬉しい。ずっと一緒にいたいなんて、言葉だけでは信じられない。でも葉月は行動で示してくれた。「恋人」が葉月にとっての永遠の象徴だった。


 永遠を掴むために、私に告白をしてくれた。


 でも私は「友達」であることに固執して葉月の願いの全てを否定した。


 好きな人と同じベッドで寝て「ずっと友達いてね」なんて言われて、いったい葉月はどんな気持ちだっただろう。ひたすらに自分に都合のいい考えを押し付けるのは、もはや友達ですらない。


 そんなことにすら、気付けなかった。


 便箋を掴む手が震える。今も恋は怖い。それでもできることはあると思う。もう一度、涙を拭って前を向く。私たちの関係を修復するために、伝えないといけないことがある。多少形は変わってしまうかもしれない。それでも諦めたくなんてない。


 リビングを出て玄関で靴を履く。着の身着のまま私は家を飛び出した。

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