第9話 唇に触れる

 食卓に料理をもっていく。葉月は背筋を伸ばしてお行儀よくテーブルについていた。余所行きの服装が殺風景なリビングからあからさまに浮いていて、ちょっとだけ笑ってしまいそうになる。


「お待たせ。できたよ」


 ローストチキンの乗った大皿を机にのせる。我ながらなかなか見栄え良くできたと思う。黄金色に輝いているのだ。葉月も満足してくれるだろうか。


「ご飯とサラダも持ってくるから待っててね」

「私も運ぶわ」


 ごくごく自然に立ち上がってキッチンに向かってくれた。葉月は当たり前だって思ってるのかもしれないけど、こういう些細なことが嬉しい。


 キッチンでお椀を手にしてから、一緒にリビングの机の上に並べていく。


「ありがとう葉月」

「当然のことよ。むしろお礼を伝えるべきは私の方。もてなしてもらってばかりで申し訳ないくらいよ。本当にありがとう。私にあなたの誕生日を祝わせてくれて」


 自分の思いをそのまま伝えるって、すごく難しいことだ。


 心を明け透けにするのは誰だって怖い。葉月ならなおさらだろう。友達に裏切られてから私に出会うまで、みんなに心を閉ざしていたのだから。


 でも今は真っすぐ思いを伝えてくれている。


 私はぎゅっとこぶしを握り締めた。真正面から葉月をみつめる。


「ねぇ葉月! その、私ね……」


 声にしようとする。なのに喉が詰まったみたいになって言葉が続かないのだ。


 ずっと私の一番の友達でいて欲しい。来年転校しても私のことを忘れないで欲しい。私は葉月ほど賢くないけど、せめて大学は近くのところにしたい。一緒の部屋で暮らしたい。いつか葉月が誰かと結婚した日には、一番の親友として祝わせて欲しい。


 重いってことは分かってる。きっと誰にも負けないくらい葉月のことが好きなのに、伝えてしまったせいで今の幸せが壊れてしまうかもしれないのが怖い。不安に後ろ髪を引かれて、前に進めない。


「……ごめんね。なんでもない、から」


 作り笑いを浮かべて椅子に座る。


 肩をすくめていると、葉月は後ろから優しく頭を撫でてくれた。


「たまに夢でも見ているんじゃないかって思うことがあるのよ」


 優しい声だった。目を伏せて葉月の声に耳を傾ける。


「ふとした瞬間目覚めたらそこはベッドの上で、涼香と過ごした時間は全て嘘だった。非合理的だけれど現実でないことを疑ってしまうくらいに、あなたとの毎日は幸せ。だからね、あなたが何を思っていたとしても忘れないで欲しいわ」


 鎖骨の辺りに腕が回った。後ろから抱きしめられているのだと少し遅れて気付く。葉月のさらさらの髪が首に触れてくすぐったい。耳元でささやかれる声は甘くて溶けてしまいそうなのだ。本当に、全部夢みたいだった。


「私はこれまでの人生で、誰かをあなたほど好きになったことがない。もしも涼香を失えばベッドから起き上がることもできなくなるわ。食事も喉を通らず、もやしみたいにやせ細っていくでしょうね」

「それは流石に言いすぎだよ」


 微笑むと葉月はなおさら抱きしめる力を強めてきた。


「私の言葉に嘘偽りはないわ。誇張に思えたとしてもその全てが本心よ」

「……そっか」


 心強い言葉だった。葉月の体温がじんわりと染みてくる。包み込まれているとまるで「全部話しても大丈夫よ」とでもささやかれているみたいだった。不安は消え去り自然と言葉がこぼれていく。


「私ね、ずっと転校ばかりだったんだ。友達も作ったそばから消えて、辛さから逃げるために誰にも愛着なんて持たなくなった。最初は葉月にも乾いた感情しか持ってなかったんだ。でも葉月ってすっごく素直だから、すぐに好きになっちゃったんだよ」


 振り向いて微笑む。葉月の顔をみるだけで涙が込みあがってくる。


「私、葉月のこと世界の誰よりも大好きだよ」

「……死んでもいいくらい嬉しいわ」


 誇張なんかじゃないのだろう。葉月だって感極まったみたいな笑顔を浮かべているのだ。嬉しさのあまり興奮しているのか、私の頭を両手でなでなでしている。


 未来のことなんて分からない。


 でもこれから先転校しても、大学生になっても、葉月が誰かと結婚しても、いつか死が私たちを分かつまでずっと親友でいるのだ。私には無縁だと思っていたものが目の前にある。そう思うと涙腺が緩んでしまった。


 目を閉じる。


 泣きながら笑っていると、突然ふわりとしたものが唇に触れて離れた。


 体が強張る。キッチンで触れた葉月の唇に似た感触だった。でも違うと思う。だって私たちは友達だ。友達はキスなんてしない。でももしも本当にキスだったら? 


 目を開けるのが怖い。それでもいつまでも閉じているわけにはいかない。


 意を決してまぶたを開く。葉月の顔はやけに赤かった。


「早く食べないと冷めてしまうわ」

「……うん」 


 葉月は静かに椅子に座った。二人でローストチキンを切り分けていく。


 さっきの感触は何だったんだろう。


 横目でみても、いつも通りの凛とした綺麗な横顔だ。もしかすると幻覚だったのかもしれない。でもさっきの葉月は顔が真っ赤だった。


「ん。美味しいわね! 涼香は料理も上手なのね」


 ぼうっとしていると葉月の明るい声が聞こえてきた。


「良かった。実は不安だったんだ。喜んでもらえて良かったよ」


 いつの間にか、私は作り笑いを浮かべていた。


 葉月と出会ってからは、無理やりに笑うことなんてほとんどなかったのに。


「涼香も早く食べなさい。あなたの誕生日なのよ?」

「……うん」


 一口サイズに切り分けられたローストチキンを口に運ぶ。確かに美味しい。皮はぱりぱりだし、中も肉汁が溢れ出してくるのだ。でも食事に集中できない。横目で葉月をみてしまう。


 可愛いって思う。唇にだってリップを塗ってくれている。葉月にはまるで縁遠い。なのに頑張ってくれた。私のためにおしゃれまでしてくれた。この人は健気なくらいに私を大切に思ってくれている。


 喜んでもいいはずなのだ。


 でも夜の海に沈んでしまったみたいに、息が苦しい。


「……変なこと聞いてもいい?」

「良いわよ。何でも答えるわ」

「葉月は、これまでに誰かを好きになったこととかあるの? その……、恋愛的な意味で」


 惚れっぽい人であることを期待して返事を待つ。


 葉月はナイフとフォークをお皿に置いて、私をみつめる。瞳は羞恥に悶えるように潤んでいた。頬だって真っ赤になっている。耳まで赤いのだ。それでも視線はそらさなかった。


「これまでの人生で一人しかないわ」

「……そう、なんだ」

 

 頭を鈍器で殴られたみたいだった。葉月は重いのだ。私に似ているからこそ、たったの一言で理解してしまう。その鳶色の瞳の奥に眠る強い思いを。


「その、ごめん。お行儀悪いけど、お手洗いに行ってくるね」


 逃げるようにリビングを出た。狭いトイレの中で立ち尽くす。外からは雨音しか聞こえてこない。嫌にうるさい心臓が、痛いほど私の心を苛んでいた。


 いつ私を好きになったのだろう。どれだけ私のことが好きなのだろう。同じ「好き」だって思ってた。でも本当は違ったのだ。どうして私なんかを好きになってしまったんだろう。どうすればいいのか何もわからない。


 深いため息をついて壁に寄りかかる。いつまでもトイレに隠れていたかった。


 でも戻るのが遅くなればなるほど、葉月を不安にさせてしまうのだろう。意を決して扉を開く。洗面所で手を洗ってからリビングに戻ると、葉月は強張った表情で深く頭を下げてきた。


「……キスなんてして本当にごめんなさい」

「大丈夫だよ。友達でも仲いいならするかもしれないし」


 作り笑いを浮かべて私は席に着いた。フォークをローストチキンに突き刺して口に運ぶ。このまま有耶無耶にしてくれるのなら、それが一番いい。仲のいい友達としてずっと一緒にいたい。


 でも葉月は真っすぐに私をみつめて言い放った。


「友達としてじゃないわ」


 葉月なりの誠意なのだと思う。嘘をつくなんて良くない。何でも正直に伝えたい。それは間違いなく葉月の美点だった。でも今は聞きたくなんてなかった。


「私はあなたに友情よりもずっと強い感情を抱いている。少しでもいいから意識してくれると嬉しいわ。もっと進んだ関係になりたいって思っているのよ」


 恋人が友達よりも進んだ関係だなんて私は思わない。でも常識的には葉月の言う通りなのだろう。仲良くなれば相手に恋愛感情を抱くことだってある。どうにかして相手の全てを自分のものにしたいと思う。


 でもその後は? いつまでお互いを好きでいられるの?


 恋愛は友情よりも脆い。私が求めるのは一生の関係なのだ。受け入れるわけにはいかない。深く息を吸い込んでから頭を下げる。


「ごめんなさい。私、葉月とは付き合えない」

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