第8話 心地よくて気まずい時間
フライパンでローストチキンを焼いていると葉月がやって来た。
「もしもさっきの発言が嫌だったのなら、遠慮せずに指摘してくれていいわ」
目を伏せて暗い声でつげるのだ。
私が逃げてしまったから不安になったのだろうか。
「嬉しかったよ。可愛いって言ってもらえて」
微笑むと葉月は、ほっとしたような穏やかな笑みを浮かべた。
「勇気を出した甲斐があったわ。そんなに嬉しいのなら、これからも頑張って『可愛い』ってことあるごとに伝えてみようかしらね」
「それはやめて欲しいかな……。恥ずかしすぎて耐えられないよ」
「あなたが普段からしていることよ」
くすくすと笑った。反論なんてできない。もしかして葉月もずっとこの恥ずかしさを感じてたのかな? 申し訳ない。でも可愛いって伝えないのは無理だ。
「葉月は私とは可愛さの次元が違う。キスだってできそうなくらい可愛いからね」
「また妙なことを……。いくらなんでも友達とキスは嫌じゃない?」
「全然。だって葉月のこと大好きだもん」
現実的に考えてキスはしないだろうけど「キスしないと出られない部屋」みたいなのに閉じ込められたら、ノータイムで口づけできると思う。それくらいには葉月が大好きなのだ。
ローストチキンを裏返しながら、ちらりと横目で伺う。
葉月はまじまじと私の唇をみつめていた。
「……そうね。私も涼香とならキスできるわ」
「でも実際にするような機会は来ないんだろうね」
葉月の唇が誰かに奪われることを思うと、ちょっとだけ胸がざわめく。心なしか葉月もしゅんと肩をすくめているようにみえた。同じこと考えてくれてるのかな。
もしも私たちが異性だったら付き合う可能性もあったのかな、なんてぼんやりと考えてみる。でもやっぱりあり得ないんだろう。友達であるからこそ理想的なのだ。恋人は決して上位互換じゃない。
「まぁでもファーストキスは葉月がいいなって思うよ」
「奇遇ね。私も涼香がいいわ」
冗談なのか本気なのか。よく分からない顔と声で葉月はささやいた。自分自身の気持ちすらもよく分からないのだから、葉月の気持ちを見抜くことだってできない。もっともお互いに言葉が本心だとしても、キスはしないだろうけれど。
キスができるのと実際にキスをするのは全くの別物。キスをした後も私たちは友達として生きていかなければならないのだ。絶対に気まずくなる。だから一生葉月とはキスなんてしないし、ファーストキスなんてものを経験することもないと思う。
にしても、このしっとりとした空気はどうしたものか。ローストチキンの焼ける音と雨音、そして葉月の息遣いだけが聞こえてくる。一言でいうのなら気まずい。
私は葉月のことが好きだけど、別に恋愛感情を抱いているわけじゃない。
葉月だって同じだろう。私たちはあくまで友達。冷静に考えなくても友達同士でキスをするしない、なんて話をするのは間違ってる。
ましてや「ファーストキスは葉月がいい」なんて。
気持ち悪いって思われちゃったかもしれない。
フライパンの前で脳内反省会を開いていると、不意に葉月の手が髪に伸びてきた。
毛髪に分け入った指先が春風のように優しく抜けていく。なかなか撫でる手は止まらなくて、なんだか身体がふわふわしてくる。
心地いいけれど、でもやっぱり気まずい。うつむいてつぶやく。
「葉月には勝てないよね。手触りとか、見た目もすっごく綺麗だし」
「そんなことないわ。涼香の髪の方が私は好きよ」
不意に葉月が一歩、歩み寄ってきた。肩の触れ合うような距離で体温が伝わってくる。撫でられているだけなのに、抱きしめられているみたいに錯覚するのだ。
「……でも私のなんて撫でても退屈じゃないかな」
フライパンの上のローストチキンをみつめる。油の跳ねる音に混じって吐息が耳元で聞こえた。振り向くと、鳶色の瞳がすぐ近くにあった。
形の整った薄桃色の唇が、蛍光灯の明かりを反射して艶っぽく光っている。気付かなかったけど、リップも付けてくれてるんだ。葉月の唇に人差し指を伸ばす。ほとんど無意識だった。血色のいいそこはぷるんとしていて、ずっと触っていたくなる。
「今日はリップ塗ってるんだね。葉月の唇、すっごく可愛いよ」
微笑むと真っ赤になった顔のまま、上目遣いでこんなことをつぶやくのだ。
「涼香の唇も可愛いわよ……?」
耳まで熱くなるのが分かった。
私が褒めたからって別にオウム返しなんてしなくていい。葉月を褒めたのはらしくないリップを塗ってくれてることに感動したからで、私の唇はいつも通りなのだ。
それでも嬉しいって感じてしまう。葉月が褒めてくれるのなら、全部嬉しいのだ。でもそれはそれとして、顔から火を吹いてしまいそうなほどに恥ずかしい。
「無理して褒めなくてもいいから……。葉月はリビングに戻ってて」
「どうしてよ。料理ができるまで涼香のそばにいたいわ」
「とにかく椅子に座ってテレビでも見てて!」
ぐいぐいと葉月の背中を押す。不服そうに眉をひそめているけれど、大人しくキッチンから出ていってくれた。申し訳ないとは思うけど、葉月が隣にいることに耐えられそうになかったのだ。
無心でローストチキンを裏返す。
そう。今の私はローストチキンを裏返すだけの機械なのだ。無駄な思考は不要。葉月の唇ぷるぷるで凄かったな、とか考えるべきじゃないのだ。もう少し触れていたかったな、なんて、そこはかとない後悔を残すべきではないのだ。
それにしても、どうして私はあんなことをしてしまったのだろう。葉月だってどうしてあんな距離まで近づいてきたのだろう。分からないことばかりだった。
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