第4話 好きなもの
傘を閉じて玄関の扉を開く。薄暗い室内には雨音だけが響いていた。
スイッチを押して明かりをつけると、殺風景な廊下が伸びていく。
ため息をついてフローリングにあがった。
今日もこの家は私の帰るべき場所にはなってくれない。きっと一年経っても寒々しさは変わらないのだろう。引っ越しを繰り返すうちに、場所にも人にも愛着を持たないのが当たり前になっていた。
冷たい空気の中、廊下を進んで一番奥の扉を開く。
家族の思い出なんてないリビングで椅子に腰かけた。眠るときは自分の部屋で眠る。けれど勉強をするだけならわざわざ二階まで上がらなくていい。お父さんが帰ってくるのは夜遅く。帰ってこないことだってよくあるのだ。
黙々と課題に取り組んでいると、気付けば時計の短針が六時を指していた。
そろそろご飯を作ろう。冷蔵庫の中には何があったかな、なんて考えながら立ち上がると、スマホが震えた。手に取って画面をみると、なにやら葉月からメッセージが来ている。
『今、大丈夫かしら?』
本当に、ただそれだけだった。なのに自然と口角があがる。
私の人生が乾ききった大地だとするのなら、葉月は雨雲だ。
楽しいとか嬉しいとかだけじゃない。時には辛いとか苦しいとか、暗い感情だって私にもたらす。けれどその全てが宝物なのだ。
『課題してたところ。どうしたの?』
料理の予定も先延ばしにして、返信が来るのをじっと待つ。
雨が屋根に落ちてぱらぱらと響いてくる。内と外を区切られて、自分が一人であることをなおさら自覚させられる。
でもスマホの画面の先では今、葉月がメッセージを打ち込んでいる所なのだ。
『涼香と話したくなったのよ』
画面に現れた言葉は相変わらずストレートだ。恥ずかしいけど嬉しい。目の前に葉月がいるわけでもないのに、髪が乱れていないかとっさに確かめてしまうのだ。
少し考えてから、言葉を打ち込んだ。
『学校で別れて二時間くらいしか経ってないのに? 葉月は寂しがり屋だなぁ』
ありのままの孤独や不安を伝えるなんてできない。葉月なら受け止めようとしてくれるのだろう。けれど一度溢れれば止まらないような気がする。間違ったことをして嫌われたくない。
かちかちと時計が時間を刻む。もどかしい沈黙が過ぎて、葉月の言葉がスマホに現れる。
『梅雨が好きだと思っていたわ。でもどうやらそれは勘違いだったみたい』
首をかしげていると、すぐに次のメッセージが送られてくる。
『薄暗い雨の中ではみんな等しく孤独を纏うのよ。私はその空気感が好きだった』
『私は一人だけど、でも一人なのは私だけじゃない。そんな風に感じられていたから』
『でも今は、疎ましいわ』
葉月はたまによく分からないことを言う。抽象的というか、遠回しというか。教養の差なのか、感性の差なのか。こういう時はどう返せばいいのか分からない。
でも言いたいことはなんとなくわかる。梅雨の時期は孤独であることを許されているような感覚になるのだ。凍えるように冷たい優しさは、私に縁遠いものじゃない。
だけどそれが『疎ましい』となると意味が分からない。
一人でいることを否定しているってこと?
もしかしてだけど「涼香に会いたいわ」みたいな意味なのかな?
でもこんなのは妄想の域を出ない。賢い葉月のことだから、もっと深いことを考えているのだろう。私の安直な願望はきっと外れている。私が願っていることを葉月も願っている。それが一番の理想だけど、そこまでこの世界が優しいとは思えない。
『どういう意味?』
問いかけるもなかなか返信が来ない。お腹がうるさく音を立てているし、そろそろ夕ご飯を作りたい。遅くに食べたら太りやすくなるらしい。葉月には一番綺麗な私を見て欲しい。相応しくない私だけど、少しでも相応しくありたい。
キッチンに向かおうとしたその時、またスマホが震えた。
そこに現れたメッセージをみて、私は目を見開いた。
『今すぐあなたに、会いたいわ』
たった一言に私は沸騰させられた。顔どころじゃない。全身が熱いのだ。
幻覚を疑って目をこするけれど、メッセージは変わらない。
『今すぐあなたに、会いたいわ』
送る相手を間違えた、とかでもないと思う。そもそも葉月がまともに交流しているのは私だけなのだ。つまりはこの言葉のあて先は間違いなく私。弾丸みたいに真っすぐな言葉は恥ずかしい。でも疑いの余地が消えると、ニヤニヤが止まらなくなる。
指揮者がタクトを振るみたいに調子よく指先を動かす。あくまで冷静に、なんとも思ってませんよ、みたいな感じで短く簡潔に事実だけを伝えた。
『明日会えるでしょ』
葉月の表情がみえない以上、下手な発言は厳禁だ。言葉の上では平気そうでも、実際にはドン引きされてる。そんな可能性は考えたくもない。
でも葉月は私とは正反対でどこまでも素直だった。
『願望を話しただけよ。明日会えるというのは分かっているわ。それでも今、あなたに会いたいのよ』
「……やばい」
頬に手を当てるとカイロみたいに熱かった。見せられない顔になっているはずだ。目の前に葉月がいなくてよかったと心から思う。本当に嬉しいんだけど、流石に恥ずかしすぎて死んでしまいそうなのだ。
『葉月こそナンパみたいなこと言ってるよね』
ジト目の猫のスタンプも一緒に送った。今朝の私の発言なんて可愛いものだ。「今日も可愛いね」なんてナンパ偏差値に換算して40くらいしかない。葉月のは偏差値70オーバーは堅い。
だめだ。恥ずかしすぎてちょっとおかしくなってる。なんだよナンパ偏差値って。
『ここまで強く誰かに焦がれるのは初めてかもしれないわ。この気持ちはいったい何なのかしらね』
「そんなの私に聞かれても分からないよ……」
いや、本当に。恋人ができたことのない人に、恋愛のコツを聞くくらい的外れだ。どうして葉月の言葉にここまで揺さぶられてしまうのか、私こそ知りたい。
流石にもうそろそろ心臓が耐えられそうにないから、話題をそらすことにする。
『ところでプレゼントは買い終わったの?』
『あなたが喜んでくれるかは分からないけれど』
『喜ぶよ。葉月のプレゼントならなんでも』
ぽんぽんと会話が続く。なんとか軌道修正できたみたいだ。
安堵の息をついていた矢先のことだった。
『そう言ってくれて安心したわ。早く涼香の顔を見たいわ』
「葉月って羞恥心とかないの!?」
屈みこんで悶えながらもなんとかメッセージを送信する。
『それじゃ私は晩御飯作らないとだからそろそろ』
『それなら私も課題に取り組むことにするわ。また明日。涼香』
それを最後に、怒涛の辱め攻撃は止んだ。いや、攻撃だと捉えているのは私だけなのだろう。葉月はただ思ったままのことを言葉にしただけなのだから。
葉月は私のことが結構大好きみたいだ。安心したし嬉しい。嬉しいんだけど、でも恥ずかしすぎる! 床をごろごろしたい衝動に襲われるのだ。理性で何とか押しとどめるけれど、心臓が未だにうるさい。スマホを胸元にぎゅっと抱えた。
こんなの、葉月に出会うまでは知らない感覚だった。
最近はもう分からないことばかりだ。私が乾いた大地だとするのなら、葉月はただの雨雲ではなくハリケーンだったのかもしれない。大地を引っぺがして、知らない感情を次々に露わにしていくのだ。
ぶんぶんと首を横に振ってから、私は今度こそキッチンに向かった。具材を切っていると熱は遠ざかり、孤独も戻って来る。
けれど葉月のことを思えば辛くはなかった。
「少しくらいは私も気持ちを伝えていいのかな……?」
葉月は私にたくさん思いを伝えてくれる。私だって伝えてみたいと思う。受け入れてくれるのか分からない。でも我慢するのは素直な葉月に対して失礼だ。
「……うん。そうだよね。明日伝えよう。私がどれだけ葉月を大切に思ってるのか」
よし、と私は胸元で拳を作った。不安にならないわけがない。でもワクワクの方が大きい。私には好きなものなんてないんだって、何にも好きになれないんだってずっと思ってた。でも今、ようやく一つだけみつけられたのだ。
私は葉月と一緒に過ごす時間が好きだ。
葉月の声も顔も性格も、全部大好きなのだ。
料理を終えた私はリビングに向かった。一人で夕食を食べることには慣れている。辛いと感じることもなかった。でも今は寂しい。苦しいほどに明日が恋しい。
気を紛らわせるために明日のことを考える。せっかくだから今年はごちそうを作ろう。葉月に喜んでもらいたいのだ。そうと決まれば明日の放課後はスーパーに寄らないとだ。作ったことはないけれど、ローストチキンなんかが良いかもしれない。
葉月のことを思うだけで心が弾む。温かい気持ちでお味噌汁をすすった。
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