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「それで? 今日はどんな事件の話を持ってきたのかしらね、
◇◆◇
『源氏物語』の通りであれば、本来は
父親である桐壺帝には、やはり
理由としては、単純明快。
左衛門府には、警察組織である
こればかりは、脩子が影響を与えてしまったのだろうと苦笑するしかない。
とはいえ、左衛門督という官職も、近衛中将という官職も、ともに
いずれも同じ序列の官職なのだから、誤差の範囲だろうと脩子は開き直った。
脩子が桐壺帝の後宮へ入内しなかったように、光る君も自分の興味がある分野を進路に選んだというだけの話だろう。
そう思えば、それほど違和感も湧かなかった。
「毎度、事件の話を持ってくる僕が言うのもなんですけど……。宮さまも、本当に物好きですよね」
すっかり見通しの良くなった眼前で、
脩子の方も、身に纏っているのは略服である
脩子は
「まぁ、物好きと言われると、否定は出来ないけれど……。暇つぶしと実益を兼ねているんだもの。別に、事件の話を聞くのは
「実益ですか?」
「そう、実益」
脩子は
何せこの時代、あまりにも未解決事件が──言い換えるならば〝物の怪の仕業〟とされる事件が多すぎるのだから、仕方がない。
近代以前において、物の怪や妖怪の仕業と
たとえば、かまいたちという現象がある。
寒くて風の強い日に、気づけば体の表面に切り傷が出来ている、という現象だ。
現代であれば、『それは急激な気圧の変化によるものだ』だとか、『皮膚表面が気化熱によって急激に冷やされるために、組織が変性して裂ける生理学的現象だ』などと説明がなされることだろう。
けれど近代以前には、そんな科学的説明をすることは叶わなかったのだ。
当時の人間にとっては、ただただ不可思議で、不可解な現象でしかないのだから。
だからこそ彼らは、分からないなりに、納得するための理由づけをしようとした。
寒く空気が乾燥する日には、
叶うことなら、そんな日には、家で暖かくしている方がいいのだ、と。
脩子は別に、それを否定するつもりはない。ある種、合理的だとさえ思うからだ。
積み重ねた経験則と、それを解釈するための物語。
それらを物の怪という存在に集約して、そうして折り合いをつけて、彼らは生活してきたのだろう。それ自体は、決して悪いことではないと、脩子は思う。
問題があるとすれば、ただ一つ。『よく分からないこと=物の怪のせい』と等号で結ぶことが、人々の間で当たり前になっていることだった。
彼らはあまりにも、思考を放棄することに慣れすぎているのだ。
その時代の、科学や医学で理解できない現象に対してならまだしも、殺人事件にまで『手法がよく分からないのなら、それは物の怪の仕業なのだ』という慣例を適用してしまうのは、どうにもいただけない。
結局のところ、脩子のエゴと言ってしまえば、それまでだろう。
けれど、脩子は自分が殺されたくないからこそ、犯人にはしっかりと捕まって欲しいと思ってしまう。
『物の怪のせい』だと真相を
この時代の人々に、思考を放棄する癖がついているのなら、それはもう仕方がない。ならば、せめて自分くらいは、最後まで人間の仕業を疑ってかかろうと思うだけだ。
その結果、正しく犯人が捕まるのであれば、万々歳。
ひいては自分の身を守ることにも繋がり、実益にもなるという寸法である。
そんな考えのもと、脩子は光る君の持ち込む事件の話に対しては、耳を貸すことにしているのだった。
光る君は、そんな脩子の思考回路をある程度理解しているのか、苦笑まじりに口を開く。
「じゃあ、その暇つぶしと実益を兼ねて、話を聞いてもらってもいいですか? 何せ今回は、僕も遺体発見の場に居合わせた事件なんですよね」
これが、なかなか興味深い状況というか──。
そう言って、光る君は意味深に笑う。
それから、どこか掴みどころのない表情で姿勢を正すと、淡々とした口調であらましを語り始めるのだった。
◇◆◇
光る君が言うには。
事件はちょうど昨夜、
「ほら。最近の僕って、あちらこちらのお屋敷で、
光る君はそう言って、小首を傾げてみせる。
確かに光る君は、ここ最近、頻繁に宴席に呼ばれているというけれど。
脩子はつい、
「それもこれも、きみが正妻を迎えずに、独り身でふらふらしているからでしょうに」
「まぁ、それは否定しませんけどね。でも、だからといって、左大臣家の姫君と結婚するのだけは、どうしても遠慮したかったし」
だって僕、これ以上、
光る君はすんと
左大臣家の姫君──彼女は『源氏物語』でいうところの葵の上だった。
作中において、光源氏の最初の正妻となった姫君である。
だがその一方で、葵の上は、弘徽殿の女御から『第一皇子の
にもかかわらず、桐壺帝は葵の上を、元服した光る君の正妻に宛てがおうとするのだ。当然ながら、
端的に言って、龍の
もしくは、地雷原の上でタップダンスを踊るようだとでもいうべきか。
「父上は、本当は僕のことを嫌っていらっしゃるんじゃないか、って。時々、本気でそう思うことがあるんですよね……」
光る君は乾いた笑みを浮かべて、疲れたように嘆息する。
桐壺帝からすれば、東宮を擁する右大臣家に匹敵しうる後ろ盾を、光る君に与えたかったのだろうが。つくづく行動が裏目に出てしまう帝である。
脩子は
「まぁ、その……左大臣家の姫君と結婚せずに済んで、よかったわね」
「…………そうですね、本当に」
何やら恨みがましい視線に、ちくりと刺されたような気もしたが。
すぐに気を取り直したのか、光る君は小さく咳払いすると、話を元に戻した。
「まぁそんなわけで、昨夜もお招きされた宴席に、顔を出してたんですけどね。……どうやらその宴の裏で、大納言殿の六の君が殺害されていたようなんです」
「六の君が?」
「ええ。大納言殿の末の娘御で、今年十七になられた姫君だそうですよ。その日の宴は、彼女の婿がね探しも兼ねていたみたいで」
光る君の説明によると、宴は表向き、紅葉と月を愛でる名目のものだったという。
だが、招かれた客は比較的、若手の貴族や官吏が多かったらしい。
「僕も、けっこう露骨に薦められちゃいました」
そう言って、光る君は肩を竦めてみせる。
だが、脩子はだろうな、と独りごちた。
光る君を婿として獲得できれば、桐壺帝の覚えもめでたくなる。
弘徽殿や右大臣方に睨まれるリスクを
それに、光る君の食いつきが悪ければ、他の若手貴族に売り込めばいいだけの話だ。そんな大納言の思惑が透けて見えるようだった。
とはいえ、若手の多い宴会だということもあったのだろう。主催者の思惑をよそに、宴自体はそれなりに盛り上がったらしい。
けれど、宴も終盤に差し掛かり、客もそれぞれ興が乗った頃のこと。西の
「尋常ではない声色だったから、すぐに皆、声のした方へと向かったんです。もちろん、この僕も」
そうして、彼らが西の
六の君の首には、紐か、あるいは細長い布のようなもので絞められた痕が、くっきりと残っていたらしい。
空気を吸おうと開いた口はわななくような形のまま、大きく見開かれた瞳は、瞬きを止めたまま光を喪っていたのだと、光る君は語った。
「本当に苦しかったんでしょうね。六の君はもがきながら、強く首を掻きむしったみたいで。彼女の指先は、血塗れだったな」
光る君は自身の首元をそっと撫でながら、痛ましそうに目を伏せる。
けれど、次の瞬間にはすっと表情を引き締めると、改めて脩子に向き直った。
「と、まあ、そういうわけで。誰がどう見ても他殺の状況でしょう? だから、
「きみね、
「そうは言っても、検非違使庁が置かれているのは、左衛門府なわけですから。全くの部外者ってわけでもないでしょう?」
光る君は軽い調子でそう言って、小さく肩を竦めてみせた。
だが、左衛門督といえば、左衛門府の長官である。左衛門府に属する検非違使たちからすれば、雲の上のお偉いさんであることには違いない。
おまけにいえば、生まれが全てのこの時代。
現場の下級役人たちから見れば、左衛門督など、身分に恵まれた者が座るお飾り職のようなものだろう。
実際、光る君は十七、八の若造である。
そんな人間が現場を仕切るなど、検非違使たちにとっては、あまり気分の良いものではないはずだった。
「心配しないでくださいって」
光る君は、脩子の顔色を見て取ったのか、
それから、
「元・覆面の
それもこれも、宮さまのおかげですよね。そう冗談めかした口調で語る光る君に、脩子は大きくため息をついた。
「はいはい。つまりきみは、検非違使が到着するまで、現場の現状維持に努めた、と」
「えぇ。西の
「あぁ、そう……」
「あ、それから、簡易的な事情聴取の真似事も」
「さすがに越権行為が過ぎない?」
「あいにくと、後から到着した検非違使たちには感謝されました」
「……あぁ、そう」
脩子は顔を覆って
彼は軽く居住まいを正すと、話を続けた。
「ええと、それで……。宴の最中に、六の君の元を訪れた人間は、三人いました」
光る君は指折り数えながら、名前を挙げていく。
「一人目は、六の君の
平安時代の貴族女性は、子どもを産んでも自分の母乳では育てず、乳母を雇う。
乳姉妹というのは、同じ乳を飲んで一緒に育った、乳母の子どものことを指す言葉だった。
彼ら彼女らは、幼馴染のように共に育てられるが、その関係性はどこまでいっても主従の域を出ない。
「この女房は、宴が始まってしばらく経った頃合いに、西の対屋に
乳姉妹の女房いわく、この時の六の君に、特に変わった点はなかったのだという。
「次に西の対屋を訪れたのは、宴席の招待客でもある、
光る君はそう言って、二本目の指を折り畳む。
「彼は前々から、六の君にしつこく言い寄っていたみたいで……。六の君は、彼のことをかなり
それは、宴の中盤のこと。
目的は、六の君と直接言葉を交わすためだ。
彼は六の君と、御簾越しに和歌の贈答をしたらしい。だが、六の君にはすげなく追い返されてしまったのだそうだ。
「これに関しては、偶然にも、僕が目撃してるんですよね」
光る君は苦笑しながら、眉尻を下げてそう言った。
「ほら、僕って
光る君のその言葉に、脩子も苦く笑うばかりだった。
何せ彼は、弘徽殿の女御や右大臣方に、未だに命を狙われているらしいのだ。
そのため、他所で出される食べ物には、なかなか手をつけられないのだという。
複数人で消費する、
個別に盛られた膳の食事は、毒見を通さない限り、とても口には出来ないとのことである。相も変わらず、闇が深い。
だがそんな風に、空の胃に酒ばかり入れていては、酔いが回るのも早くなる。
そのため光る君は、昨夜も宴の席から一度抜け、母屋の外で夜風に当たっていたのだという。
「母屋と西の対屋を結ぶのは、
光る君はちらりと脩子に目を遣ると、小さく肩を竦めた。
透渡殿というのは、壁のない渡り廊下だから、確かに見通しは良いだろう。
「右馬頭どのが、御簾越しに和歌を詠み掛けていらっしゃって。しばらくして、御簾の下から返歌の文を返されるのも見えました。それを見て、右馬頭どのが落胆している様子だったので、あぁ、振られちゃったんだなぁ、と」
「それで?」
「袖にされているところを目撃したっていうのも気まずいし、何も見ていない振りをして、宴の席に戻りましたよ。右馬頭どのも、僕について来るような形で戻って来ていたので、その時に殺害は出来なかったと思います」
少なくとも、その時点では。光る君は、そう付け加える。
脩子はふうんと小さく相槌を打った。
「そして、最後に訪れたというのが、
「えぇ。六の君の遺体を見つけて、悲鳴を上げた人物ですね」
光る君は真剣な面持ちで、こくりと頷いた。
曰く、権少将と六の君は、秘密の恋仲にあったらしい。
権少将は、今回の宴に招待されてはいなかった。けれど、宴に乗じて屋敷に忍び込み、ひっそりと逢瀬を重ねる約束を交わしていたのだとか。
しかし、首尾良く西の対屋に忍び込んだ権少将が目にしたものは、すでに事切れた六の君の姿だったというわけである。
権少将は腰を抜かし、思わず叫び声を上げた。その声を聞きつけて、光る君を含む招待客らが西の対屋に向かった、というのが一連の流れであるらしい。
一通り話を聞き終えた脩子は、ふむ、と顎に手を当てる。
「普通に考えて、一番怪しいのは権少将よね」
「まあ、そうなりますよね」
光る君は同意を示すように首肯すると、緩く肩を竦めてみせた。
何せ、光る君自身も、右馬頭と六の君の和歌の贈答を目撃しているのだ。その時点では生きていたとすれば、その後に殺されたと見るのが妥当である。
「だけど、彼が犯人だとするならば、そこにあるべきものがなかったんです」
そう言って、光る君は人差し指をピンと立てた。
「あるべきもの?」
「えぇ。六の君の首には、紐か、あるいは細長い布のようなもので絞められた痕が、くっきりと残っていました。だけど、凶器と思しき紐や布は、現場に残されてはいなかった」
光る君いわく、権少将の所持品や衣服に、それらしいものは見当たらなかったというのである。
おまけに、現場をくまなく捜索しても、それらしき紐や布はとんと見つからなかったらしい。
「六の君は自分の首を掻きむしって、流血していたわけですから。権少将どのが犯人なら、現場に血のついた凶器が残ってないと、不自然でしょう?」
光る君は小さく首を傾けて、自論を述べる。
脩子は「なるほどね」と首肯してから、光る君をちらりと見遣った。
「では、権少将が凶器をどこか別の場所に隠した後、現場に舞い戻ってから悲鳴を上げた、という線はないかしら」
「うーん、それも難しいと思います」
光る君はきっぱり首を横に振ると、言葉を続けた。
「というのも、僕が酔い醒ましがてら、
曰く、宴の中盤までに中座したのは、光る君と右馬頭くらいのものだったが。
宴も終盤となれば、いくつかの集団ごとに、酔い醒ましに夜風に当たろうとする者も多かったというのである。
頭中将たち数人も、そのうちの一組だったらしい。
とはいえ、元から壁の少ない、開放的なつくりの
彼らも母屋の外の簀子に腰掛けて、談笑していたところ、権少将が西の対屋に忍び込むところを見かけたとのことだった。
「それでなくとも、宴の終盤ともなれば、簀子には酔客が、入れ替わり立ち替わり出入りしていましたしね。その隙を縫って、権少将どのが西の対屋を出たり入ったり、というのは難しいんじゃないかなぁ、と」
光る君はそう言って、お手上げだとばかりに肩を竦めてみせた。
確かに、まず侵入して殺害し、次に凶器を隠すために退出した上で、さらに再度侵入して悲鳴を上げる──これを、一度も目撃されすに成し遂げるのは困難だろう。
脩子は立てた片膝に
「……権少将が犯人だと仮定するならば、凶器はどこに消えたのか。あるいは──」
脩子の呟きに、光る君は小さく笑みを返すばかりだ。
その笑みには、どこか含みがあるようで。脩子はじと目で光る君を見遣る。
そして、小さくため息をつくと、ゆっくりと口を開いたのだった。
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