第二章 空蝉の身をかへてける木のもとに なほ人がらのなつかしきかな



 それは、月の明るい晩のこと。

 青白い月明かりに照らされて、足元には紅葉の刺々しい影が揺れている。

 雲間にはさやかな月が浮かんでいて、秋の虫たちの騒めきと、風が木々を揺らす音ばかりが辺りに響いていた。


 宮中警固の滝口の武士たる男に、雅なことは分からない。それでも、こんな晩の夜警は悪くないものだと思いながら、男は浅く息を吐く。


 昼間は公達きんだちたちが闊歩かっぽする宮城も、さすがに夜ともなれば、一部を除いて闇に沈む。

 男の持ち場の付近に篝火かがりびはなく、光源は男の手にある松明たいまつの火と月明かりのみだ。

 その松明の炎が、突風に煽られてぐらりと揺れる。


 あ、と思った時にはすでに遅く。染み込ませた油脂も残り少なかったのだろう。松明の炎はあっけなく掻き消え、辺りは闇に包まれてしまう。

 月の明るい夜だとはいえ、男の目は手元の松明の炎に慣れてしまっていたのだ。

 一時的に、一寸先も見通せなくなってしまい、男はいささか動揺した。


 とはいえ、夜目が利くようになるまでの辛抱だろう。

 男は闇に目を慣らすため、一度瞳を閉ざすことにしたのだ。

 すると、どうしたことだろうか。

 鈴虫の声も、木々の葉擦れの音も、いつの間にかぴたりと止んでいるのだ。

 不気味なほどの静寂と、じっとりと身に纏わりつくような無風の空気に、男は思わず薄ら寒さを覚えてしまう。


 生きているものの気配というものを、まるで感じられなかった。

 暗闇が次第に密度を増していくように感じられて、空気も重苦しくこごるような心地さえする。たまらず、男は声を張り上げていた。


「……誰か、誰かおられぬか」


 静寂の中に、男の声だけが虚しく響く。

 もしかすると自分は今、異界にでも迷い込んでいるのではなかろうか。

 そんな恐ろしい考えに、俄かに首筋が粟立つ。そんな時だった。


 ヒィィ……ヒィィィ…………


 遠くとも、近くとも分からない暗闇の中から聞こえるその声は、この世のものとは思えないほどに陰鬱いんうつで、物哀しい響きを持っていた。


 ……ヒィィィ……ヒィィ……


 全身の毛穴という毛穴から、ぶわりと嫌な汗が吹き出る。どくどくと心の臓が早鐘はやがねを打ち、呼吸さえままならない。指先が奇妙に痙攣する。


「ぬ、ぬえだ……鵺が出た……!」


 がたがたと震える膝をもつれさせながら、男は闇雲に走り出す。

 その様を嘲笑あざわらうかのように、男の背後では陰鬱なき声が響き続けるのだった。




      ◇◆◇


「──と、そんなことがあったそうですよ」


 御簾みす越しの人影は、そう言ってくすくすと笑う。

 それから、断りもなく円座わろうだに腰を下ろすと、悪びれることなく宣った。


「こんにちは、宮さま。来ちゃいました」


 まるで、近所を通りかかったから寄ってみた、みたいな気軽さである。

 相変わらずの来訪者に、脩子は隠すことなくため息を吐いた。


「頼んだ物だけ送り返してくれたら、わざわざ来なくていい。そう伝えたはずだけれど」

「えぇ、だから言ってるじゃないですか。来ちゃいましたって」

「……会話が成立していないの、分かってるかな」

「わざと成立させてないんですよ。意図的です」


 いけしゃあしゃあと言ってのけるその人物に、もはやため息を吐く気力すら湧かず、脩子は額に手を押し当てた。

 御簾越しに坐す声の主は、烏帽子えぼしの分を差し引いても、すっかり脩子の背丈を追い抜いている。即ちそれは、それだけの歳月が経過しているのと同義だった。

 光る君が元服してしまえば、この奇妙な関係も終わるだろう。

 そう踏んでいたというのに、現実はこの有様である。脩子はげんなりと肩を落とした。

 それもこれも、うっかり和歌の代筆を任せてしまった脩子の迂闊うかつさと、光る君の和歌の出来の良さが原因といえる。

 なぜベストを尽くしてしまったのか。後の祭りとは、このことだった。



 そもそも事の発端ほったんは、いつぞやの恋文だった。

 光る君が代筆した返歌の文に、のちの頭中将とうのちゅうじょうはいたく感激してしまったらしい。

 そして、あろうことか「なんと見事なお手蹟だろう! それに、こんなにも素晴らしい和歌は見たことがない!」と、ありとあらゆる人間に自慢して回ったというのである。私信を見せびらかすな。そう声を大にして言いたいところだ。


 結果として、脩子の噂は瞬く間に都中に広まった。

 おかげで〝藤の宮〟は『見事な筆跡の、和歌の名手』であるとして、都中に名をせてしまったというわけだ。

 そうなると、『そんな貴婦人と、自分も文のやり取りをしてみたい』と、脩子の手元には大量の恋文が届くようになってしまう。これが、実に厄介だった。

 もはや誰も、脩子自身が書いた文字や和歌を、脩子の手によるのものだと信じてくれなくなってしまったのである。


 ひっきりなしに届く恋文に、脩子は最初こそ、自分自身の筆跡で断ったり、王の命婦の代筆で断っていたのだ。

 だが、彼らは『女房たちの代筆ではなく、せめて本人直筆の文を受け取るまでは!』と、しつこく食い下がるのでらちがあかない。

 かえって長期戦になりそうな気配を察した脩子は、仕方なく書いた張本人に対応を丸投げするようになってしまったというわけだ。


 そんなこんなで、二人の奇妙な関係は、ずるずると今日にまで至っていた。

 光る君はとっくの昔に元服したし、脩子はもう二十二歳になる。

 時が経つのがお早いことで、と脩子はため息を吐いた。




「で、今回は、事前に届けてくれた五通の返歌を書けばいいんですか?」


 光る君はそう言って、先日脩子が送りつけたばかりの文箱を取り出してみせる。

 脩子は苦々しい面持ちで首を横に振った。


「……いや、追加でもう三通」

「ほら。やっぱり宮さまのお屋敷で書いた方が、二度手間が少ないや」


 御簾で隔てられているために表情は分かりにくいが、どうせ、したり顔で笑っているに違いない。だが、そう言われると反論もしづらかった。

 『今をときめく光源氏が、うちに通って来ていると思われるのは嫌だ』と答えるには、あまりにも対策が万全すぎるのだ。

 彼がこの屋敷に立ち寄る時には、とても帝の寵児が乗っているとは思えないほどに粗末な網代車あじろぐるまでやって来るのである。

 それも、自邸から直接乗って来るようなことはせず、中継点を経由する徹底ぶりだ。一応、噂にならないための配慮はなされているらしい。

 おかげで藤の宮と光る君の仲を邪推するような噂は、全くと言っていい程に立ってはいなかった。



 じゃあ、さっさと取りかかっちゃいますね、と光る君は軽く袖を捲って言う。

「宮さま、文机ふづくえ硯箱すずりばこを貸してください。あ、それから──」


 、お願いしますね。

 そう言って、光る君は御簾の向こうで悪戯いたずらっぽく笑う。

 半ば予想通りのその言葉に、脩子は口の端をひくりと引きつらせた。


「……対価? さぁ、何のことかしらね」


 脩子は反射的に、すっとぼけてみる。

 無駄な抵抗と言われれば、それまでだが。


「ほら、勝負事でも言うでしょう。負けを認めなければ、負けではないと。ゆえに、借りを作ったと思わなければ、借りなど存在しないのよ」

「わぁ、ものすごい暴論」

「屁理屈だって、立派な理屈だ、と言いたいところだけれど……で、何が欲しいの」


 半ば自棄やけっぱちでそう尋ねれば、光る君は待ってましたとばかりにくすりと笑う。


「だから、いつものですよ。宮さま直筆の和歌です」


 やはりか、と脩子は舌打ちをする。

 すっかりお馴染みになってしまったその要求に、脩子はめちゃくちゃ嫌そうな顔をして、口許をひん曲げるばかりだった。

 けれども「まさか僕に、無償の労働をしろだなんて、言わないですよね?」と笑顔で凄まれてしまえば、もはや要求を呑む以外の選択肢はない。

 光る君の元服前と、元服後では、事情が異なるのだから仕方がなかった。


 たとえば、光る君がまだ元服していなかった時分において。

 返歌の代筆は、脩子の屋敷を隠れ家セーフハウスとして利用することに対する、お礼という扱いだった。

 ところが、元服を済ませた現在において。

 光る君は、針のむしろだった後宮をすでに出ており、二条に自分の屋敷を構えているのだ。

 つまり彼にとって、脩子の屋敷はもはや隠れ家としての価値を失ってしまっているのが現状だった。

 だというのに、代筆の依頼だけが、未だに継続しているのである。

 それを思えば、光る君が相応の対価を要求するのは、至極真っ当な主張ではあるのだが──。


(これで、欲しがるのが和歌でなければ、こんなにゴネないんだけどな……)


 脩子は一応、連綿体の崩し字を読むことは出来る。

 和歌の大まかな意味も、理解することは出来るのだ。だが、それはそれとして。


 オリジナルの和歌をんだり、それを上手く書きつけることが出来るかといえば、それはまったく別の話だった。

 歌謡曲のメロディは分かるし、歌詞の意味を理解できたとしても、いざ作詞作曲をしろと言われると困るのと一緒である。

 そんなわけで、脩子作の和歌と筆文字の出来栄えは、それはお粗末なものだった。

 だというのに、それを『娯楽』として要求してくるあたり、光る君も性格が悪い。


「……この愉快犯め」

「だって、和歌の対価なんだから、和歌が妥当じゃないですか。たかだか和歌の代筆くらいで、高価なものをねだるだなんて、そんな図々しいこと出来ませんって。ね?」

「……本当に白々しいこと」


 しかしまぁ、代筆をさせるだけさせておいて、お礼の一つもなしというわけにはいかないだろう。脩子は渋々と、本当に渋々と王の命婦みょうぶを呼び寄せた。


「……そういうわけで、命婦」

「はいはい。相変わらず、ばぁや遣いの荒いことですよ」


 側に控えていた命婦は、そうぼやきつつも、心得ているとばかりに御簾を上げていく。全て上げ切ることはせずに、御簾の裾が床から三、四十センチほど浮いたあたりで、御簾は固定された。

 脩子は脩子で、細長い文机を御簾の近くにまで引き寄せると、それを御簾の外へ半分だけ押し出してやる。

 すると、ちょうど御簾と文机が十字に交わるような形になる。

 薄い御簾を挟んで隣り合えば、光る君と同時進行で文机を使えるという寸歩だった。悲しきかな。一連の準備の流れも、すっかりお馴染みになってしまっている。


「はい。じゃあ宮さまは、こちらの料紙に書いてくださいね」


 御簾の下からスッと差し出されたのは、透けるように繊細な薄様の紙ではなく、もっと厚めの真白の紙だ。

 陸奥紙みちのくがみ──お香などが浸透しやすく、長期の保存に適したその紙は、陸奥国むつのくにでしか生産されない高級和紙である。


「予備ならたくさん持って来ているので、好きなだけ書き損じてくれて大丈夫ですからね」

「……ああ、そう」


 脩子が何枚も書き損じる前提の物言いに、つい半眼になってしまうのは仕方がない。

 よろしい、ならばどれだけ筆文字がれてしまっても、絶対に書き直してはやるまい。意地でも一枚きりで終わらせてやるのだと、心に決める。

 そんな情けない決意を胸に、脩子は硯箱から筆を取り、そっと墨を含ませるのだった。


「…………」


 とはいえ、何を書いたものだろうか。

 御簾越しの人影にちらりと目を遣れば、彼は既に書き始めているらしい。

 すらすらと動く筆先からは、よどみなく文字が生み出されているのが分かる。

 瞬く間に一枚目を書き終えた光る君は、流れるような所作で二枚目へと取りかかった。その筆捌ふでさばきには、一切の迷いがない。

 よくもまあ、そう次々と和歌を思い付けるものである。あまつさえ、手を動かしながら喋る余裕まであるらしい。小憎たらしいことである。


「そんなに構えなくてもいいのに。宮さまの心に移りゆくよしなし事を、お心のままに綴ってくだされば、それで十分ですよ。天気のことでも、日常の何気ないことでも、なんでも」

「それが無理難題なのよ」

「んー……じゃあ、最近感動したこと、とか」

「……それなら、まぁ」


 つれづれとした、日常の何でもないことよりは、何かしら感動したことの方がまだ書けるかもしれない。脩子はそう呟くと、のろのろと筆を動かし始めるのだった。



   醤酢ひしおすをそへてたうぶる松茸まつたけ

       満ち盛りたる秋の香のよさ


「どう?」

 先に、傍らに控える命婦の方へ、書き上げたものを差し出してみる。

 だが、彼女の視線は何よりも雄弁だった。

 まるで、後は塩をかけられてお陀仏だぶつするだけのなめくじを見下ろすような目なのである。おまけに、言葉にだって容赦がない。


「なんとまあ……。歌仙かせんを百回ぐらい殴った上でたるに詰めて、坂道を転がした後に詠ませたような和歌ですこと」 

「ぐっ、空也上人くうやしょうにんが仏像を吐く勢いで罵倒ばとうするじゃない……。私、先端恐怖症なのよ。あんまり尖った酷評はやめてちょうだい」


 脩子は憮然ぶぜんとして、命婦の手から陸奥紙みちのくがみを引ったくった。

 三十六歌仙に数えられる猿丸大夫さるまるだゆうだって『奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき』というどストレートな和歌を残しているではないか。

 それと何が違うというのだろう。そう反論したかったが、脩子は何とか飲み込んだ。そういう次元の話ではない、と余計にこき下ろされそうな気がしたからである。


 御簾を隔てたすぐ隣からは、衣擦れの音が聞こえてくる。

 何かと御簾や几帳きちょうで隔てられている平安時代において、衣擦れの音は、相手の所作や仕草の想像を掻き立てる、恋のスパイスだ。

 だが、隣から聞こえてくる細かな衣擦れの音は、間違いなく笑いをこらえてのバイブレーションによるものだろう。

 その証拠に「それは、とても楽しみです」という声の語尾は、ものの見事に震えてしまっている。腹立たしいことこの上なかった。


「……ねぇ、笑わないでくれるかしら」 

「そんな、笑ってなんかないですって。まだ」

「ふうん、そう。じゃあこれを見た後でも、笑わないんでしょうね」

「それは、ごめんなさい。僕、守れない約束はしない主義なんです」

「あぁそう。じゃあ絶対にこれは渡さないから、って、あ、こら!」


 御簾の下から伸びた手は、問答無用とばかりに脩子の手から陸奥紙をかすめ取っていく。そうして彼は、一瞬でその文面に目を走らせたらしい。

「っふ、あははは!」

 案の定である。光る君は堪えきれないとばかりに声を上げて笑い出した。


「いや、これは……っふふ!  無理ですって……!」

「……なにさ。馬鹿にするのなら、返してもらえる?」

「いやですよ。せっかくの対価なのに、返しません。せっかくだし、松茸の香りでもめてみようかなぁ」

「さらに美味しそうな演出をしないでくれるかな!? こら、返しなさい」


 脩子は陸奥紙を取り返そうと手を伸ばす。

 しかし、光る君はそれを巧みに避けながら笑い続けるばかりだ。


「まあまあ、そう不貞腐れずに。個性的で、すごくいいと思いますよ……ふっ、松茸って、あはははは!」

「だから嫌だったんだ! あぁもう、やっぱり書くんじゃなかった! 返しなさい!」


 半端に上がった御簾越しに、押し合いへし合いの攻防を繰り広げる。

 すると、ふとした拍子に、御簾はばさっと大きく捲れ上がっていた。

 あ、と思った時にはもう遅い。二人の間を隔てていた物はすでになく。至近距離で、顔を見合わせてしまう羽目になる。


 脩子の目と鼻の先には、からす濡羽色ぬればいろの瞳が印象的な、白皙はくせきの美少年が──いや、そろそろ十七、八になるというのだから、少年扱いはそろそろ卒業だろうか。

 ともかく、その美しさから、性別を問わず人々を惑わすと評判のかんばせが、そこにはあった。

 御簾が跳ね上がったのは一瞬のことだったが、二人はぱちくりと目を瞬いて、それからどちらともなく笑い出していた。


「あぁもう、何をやっているんだろう」

「まったくです」


 源氏物語といえば、猫が御簾を上げてしまうことで、相手の姿を垣間見かいまみて恋に落ちる、といった劇的なシーンが多々あるが。それに比べて、なんと色気のないことか。

 もはや、完全に姉弟同士のじゃれ合いである。

 ひとしきり笑ったあとに、脩子はおもむろに口を開いた。


「ねぇ。もうこの御簾、全部あげてしまおうか。何だかもう、今更ではない?」


 脩子からすれば、相手は十歳かそこらの頃から見知っている、弟のようなものだ。

 そんな相手に今更かしこまるというのも、馬鹿馬鹿しく思えてしまうのである。

 だが、そうですね、とあっさり同意を得られるかと思いきや。

 光る君は「うーん」と曖昧に笑いながら、ぼそりと呟いた。


「……心を許されていると喜ぶべきなのか、未だに子ども扱いされているのだと悲しむべきなのかな。何の含みもなく無頓着に振る舞われると、ちょっと複雑というか」


「? いや、子ども扱いとかではなく、私の性分の話だよ。私が、世間一般の姫君と同じ感性を、獲得できていないってだけの話なんだから」


 脩子は『姿を見られるなんて、恥ずかしくて消え入りたくなる』といったような、高位の姫君らしい羞恥心を持ち合わせてはいないのだ。

 知識として、そうあるべきだと理解はしていても「いや、別に服を着ていないわけでもあるまいし、恥ずかしいも何もなぁ……」というのが、脩子の本音である。

 そういうわけで、別に相手を子ども扱いする意図の発言ではなかったのだが。

 光る君は「そういう意味で言ったんじゃないんですけどね」とぼやくように呟いた。

 だが、御簾越しで小さく呟かれると、どうにも聞き取りづらいのだ。


「え?」

「……かくとだに、えやはいぶきのさしも草──なんて言っても、どうせはぐらかされるんだろうし……」

「ごめん、本当に聞き取りづらいのだけれど。何て?」

「いーえ、何も? ただの独りごとです」


 光る君はそう言って、わざとらしく大きなため息を吐いた。

 だが、御簾越しの会話だと、口の動きといった視覚情報もないのだ。

 小さくごにょごにょ話されると、本当に聞き取りづらいのだから仕方がない。


「……宮さま、もうお年なんじゃないですか?」

「お黙り。ハキハキと明瞭に喋らない方が悪いのよ。でも、うん、やっぱり御簾は上げてしまおう。意思疎通のためにも、その方がいいわ」

「はいはい、もう宮さまの仰せのままに、ご随意にどうぞ」


 光る君は投げやりにそう言って、肩を竦めてみせた。

 何だか気乗りしない様子ではあるが、とはいえ相手の了承は得られたことである。

 脩子は王の命婦を振り仰いで、半端に上がった御簾を指差した。


「そういうわけだから命婦。全部あげてくれるかしら」

「……あぁ、うちの宮さまときたら、本当につつしみのないことで」


 王の命婦は、頭痛が痛いと言わんばかりの表情で、額を押さえてそううめく。

 それからぶつくさと文句を言いながら、命婦は渋々と御簾を巻き上げていった。


 ひさしの間にす光る君と、母屋もやに坐す脩子。

 二人を隔てるものは、今や何もなくなった。脩子は真っ向から光る君を見据えると、口を開く。



「それで? 今日はどんな事件の話を持ってきたのかしらね、左衛門督さえもんのかみどのは」

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