「それじゃあ、大の男でも飛び石から落ちてしまうことに納得できたのなら……狐狸が化けた、なんて話を信じる人間もいないわけね?」



      ◇◆◇


「私はひとつ、気になっていることがあったのよ。だって、事件が発覚したのは昨日の夕方でしょう。それなのに、翌日には容疑者の特定が済んでいるという。随分と展開が早いな、と思ったんだ」


 それも、容疑者たちと辻占売つじうらうりの間には、面識がないにもかかわらず、である。

 だからきっと、印象に残るような特徴があったのだろうなと考えたのだ。

 それこそ〝左足を引きずって歩く男〟と同じくらい、一目で分かるような外見的特徴が。


「そうね。元武官の男にも、分かりやすい目印があったのではない? ──たとえば、片目を怪我して、包帯や眼帯をしていた、だとか」


「!」


 光る君の目が、驚いたように見開かれる。

 その反応に、脩子は小さく「ビンゴかな」と呟いた。


「じゃあ、やっぱりその元武官が犯人だと私は思うな」


 脩子の断定する口調に、光る君は困ったような顔をして言う。


「確かに元武官は、一昨日に右目を怪我して、包帯を巻いていたそうですけど……。でも、それだけですよ? 両腕も両足も、問題なく動かせるのに、どうして池なんかに落ちるんです?」


 そう言って、光る君は納得がいかないとでも言いたげに首をひねる。

 だが、脩子はその問いには答えずに、代わりにこう問いかけた。

「ねぇ。人の目は、どうして二つあるのだと思う?」と。


 おかわり、と湯呑みを差し出せば、命婦が呆れ顔でお茶を注ぐ。

「そんなもの。神や御仏にほとけが、人をそのようにお作りになったからでございましょうよ。というよりも、そんなことを考えたところで、人の目は一つにも三つにもなりませんのに。妙なことを考える宮さまですよ」


 命婦は大仰にため息を吐いて、そんなことを言う。

 だが光る君はといえば、脩子の意図することを正しく汲み取ったのだろう。

 思案げに眉を寄せて、「でも、本当だ……」と小さく呟いた。


「……どうして人の目って、二つもあるんだろう。だって、片目をつむっても、両目で見ても、。だったら、目は一つでも良いはずなのに……」


 あぁ、つくづくさといなと、脩子は満足げに笑う。

 それから丸い頭をぽんと撫でて言った。


「ひかる。二十秒間、目を瞑ってごらん」

「え、どうしてですか?」

「いいから、目を閉じる。二十秒経ったら、片目だけ開けていいよ」


 不思議そうに目を瞬かせながら、それでも光る君は大人しくまぶたを下ろす。

 二十を数えるまでの間に、脩子は光る君の両腕を取り、身体の左右にピンと伸ばさせた。それから、両手の人差し指も伸ばすように指示を出す。


「片目だけ開けたら、そのまま、目の前で指先同士をくっつけるの。腕は真っすぐ伸ばしたままね」

「こうですか?」


 光る君は、首を傾げながらも、言われた通りにする。

 近付く指先は、やがて光る君の真正面で、わずかにかするような形で交わった。


「……あれ?」

「指の先端どうしを合わせようとしたのに、合いにくいでしょう。両の目で見ながらだったら、簡単なのにね」


 ぱちぱちと目を瞬く光る君に、脩子はくすりと笑みを零す。

 手近なところに放ってあった和綴わとじの冊子を手に取って、鼻の前に立ててかざしてみれば。右目を閉じると表紙が、左目を閉じると背表紙が、それぞれに映る。


「右目で見る景色と、左目で見る景色……。厳密にいえば、二つは全く同じものではないのよね。右目と左目、両方で見た景色を合わせることで、人は物との距離を掴んでいる」


 脩子は行儀悪くも文机ふづくえを引き寄せて、蒔絵まきえ硯箱すずりばこをぱかりと開けた。

 何か書き付けるものは──と辺りを見回して、無いので文箱から一番上の文を手に取った。薄様うすよう(恋文の定番、繊細で薄い紙だ)には、何やらさらさらと和歌が書いてあるが、むしろその余白くらいで丁度いい。

 筆を手に取り、脩子は丸を四つ、和歌の余白に描いていく。

 命婦が視界の隅で「あぁ、素晴らしいお文に、なんと勿体ない……」と嘆いているが、聞こえないふりだ。


(天)   ◯  ○ ◯○   (地)


 脩子は大きさも間隔もまちまちの丸を、適当に四つ、余白に落とす。

「なんです? これ」


 光る君は、文机の反対側から身を乗り出して、興味津々といった様子で手元を覗き込んできた。脩子は料紙を滑らせ、それを光る君の方へと押しやって言う。


「ほら、この丸を飛び石だと思って、文机の上で飛んでみなさいな。もちろん、片目は閉じたままだよ」


 目線が文机の高さとほぼ同じになるように、光る君の背後に回って、その肩を押してやる。光る君は「え、え?」と戸惑いながらも、大人しく文机と同じ高さに身体を伏せた。

 脩子はそれから、片目を瞑った少年に筆を握らせる。


「筆を自分に見立ててね。はい、飛んでみる」

「……こんな感じでいいんですか?」

 光る君の握る筆は、紙の手前から、トン、トン、と丸の上を跳ねていき──、

「あ……」

 やがて、ぴたりとその筆の動きが止まる。

 筆の穂先が落とす点は、丸の外側へと着地していた。

「ね、上手く行かないでしょう」


 光る君の肩を叩きながら、脩子は笑う。

 脩子自身、小学生の時分に体感したから知っているのだ。

 その昔、ものもらいのせいで、眼帯を付ける機会があったのだが。

 そういう時に『けんけんぱ』をすると、何故だかまるで上手くいかない。どうしてなのか気になって、夏休みの自由課題として調べたくらいだ。


「片目だと、遠近感が狂ってしまうのよね。ほら、池の飛び石なんて、大きさも間隔もまちまちなものでしょう。どれだけ一つ一つの石が大きくとも、その間隔が広くなくとも、関係ないのだわ」


 たかだか伸ばした腕の先ほどの距離でさえ、狂いが生じてしまうのだ。

 大柄な男性の目線から見下ろした、少し先の石。それを、急いで踏み越えて行こうというのである。足を踏み外しても、何ら不思議はなかった。

 それに、と脩子は言葉を続ける。


「撲殺というからには、ある程度、両足に踏ん張りが利く人間でないと難しいはずだしね。やっぱり、元武官の男が犯人なんだと思うな」


 もう一人の容疑者の足が不自由であることを、どこかで聞きつけたのか。

 或いは、取り調べに熱が入り出したことが、恐ろしくなったのか。

 元武官は、何とか容疑者から外れたい一心で、『狐狸が化けた』などと、突拍子もない言い逃れを始めたのだろう。


「ほら、分かったら、さっさと検非違使けびいしたちに伝えておいでなさいな」


 脩子はそう言って、光る君の背中を軽く押した。

 だが、振り返った光る君は、何とも物言いたげな表情でこちらを見る。


「……ねぇ、宮さま。宮さまのお名前を出して、検非違使たちに伝えるのは、やっぱり駄目ですか?」

「なんでさ。きみが聞いてきた話だろうに」


 今さら何を言い出すのかと、思わず呆れ顔を向ける。

 すると、光る君は何とも不本意そうに、こう続けるのだ。


「宮さまの考えを聞くのは楽しいけれど、これじゃあ僕、宮さまの手柄を横取りするみたいで嫌です」


 むすっと顔を歪める光る君に、脩子は小さく吹き出した。


「だったら話は簡単だ。きみが、自分で思いつくようになったらいい」

「……簡単に言ってくれるなぁ」

「だって、私しか知らないことなんて、世の中にそう幾つもないわ」


 事実、脩子は別に、とりわけ現象や物理法則に詳しい理系のともがらではないのだ。

 謙遜でも何でもなく、知っていることなんて、随分と限られている。


 けれどもしも、いて言うのであれば。

 それは『分からないこと』に出会ってしまった時。

 『分からないならば、それは物の怪の類の仕業なのだ』と納得することに慣れすぎている、この時代の人間よりは、ほんの少しだけ。

 『それは、本当に理解できない事象なのだろうか』と、もう一段深く考えることに慣れている。たったそれだけのことなのだ。


 脩子だって、考えることを諦めてしまえば〝物の怪〟にとらわれてしまうのだろう。けれど、思考を放棄しなければ、分かることは思いのほか多いのである。

 理屈や根拠によって、思考を構成すること。

 それは、この少年にも教えてきたつもりだった。


「きみは、私なんかよりずっと、おつむの出来がいいのだから。私に思いつけることくらい、きみにだって思い至れるはずなのよ。考えることを辞めなければ、ね」

「……分かってます。僕だって、甥っ子の文章生もんじょうせいより元武官の方が怪しいと思っていたんだから、片目を隠して飛び石を飛んでみればよかったんだ。そうでしょう?」

「ま、段階を踏めば、そのうち分かったでしょうね」


 悔しそうな顔をする少年に、可愛いところもあるものだと脩子は笑う。

 色気を感じさせない雑な仕草で、丸い頭をうりうりわしゃわしゃと撫で回せば、「ちょっと、やめてくださいってば」と、光る君は脩子の手から逃げ出していく。


「……その、小さな子どもにするみたいな扱い、やめてくれません?」


 不服そうに顔をしかめる少年に、「きみが一人前になったのなら、やめてあげよう」と、脩子は笑ってあしらう。

 光る君はといえば、不貞腐れた様子でため息をついた。


「……あなたのそういうところ、嫌いです」

「だって、きみのそういうところが、子どもっぽいのだもの。好き嫌いでしか物事をはかれないの?」

「あなたみたいな人を、大人げないって言うのかもしれないですね。人の上げ足ばかり取らないでください」

「でも、私のところに解答を聞きに来るようじゃあ、まだまだ半人前でしょう。悔しかったら、早く一人前になることだね」


 すると、光る君はますます面白くなさそうな顔になって、拗ねたように言う。

「……その言葉、忘れないでくださいね?」

「はいはい。分かった、分かった」

「それから、その、さっきからずっと気になっていたんですけど」

「ん?」


 光る君は、文机の上をちょいちょいと指差す。

「これ、恋文ですよね?」


 指の先にあるのは、つい今しがた、余白に丸を書き付けたばかりの薄様だ。

 流れるような筆致で書かれた恋の和歌は、書き足された不恰好な丸のせいで、何とも滑稽な見映えに成り果てているが。確かにそれは、恋文だった。

 少年は、視線を文に落としながら、気まずそうに言う。


「……もらった恋文に落書きなんかして、良かったんですか?」


 おおかた、手紙の送り主に同情でもしているのだろう。なんとも形容しがたい表情をする少年に対し、脩子はことも無げに肩を竦めた。


「あぁ、どうせ断るのだから、いいのよ別に」

「えっ、断るんですか!?」


 光る君は、光る君は信じられないと言いたげな顔で、あんぐりと口を開ける。


「……だってこのお手蹟、左大臣家の嫡男のものですよね?」

「あ、そうなんだ?」


 それは正直、初耳だった。

 左大臣家の嫡男といえば、のちの頭中将とうのちゅうじょうである。

 いずれ桜か橘か。光源氏と並び立つ双璧にして、光源氏の親友であり、恋の好敵手ライバルであり、政敵でもある。属性てんこ盛りの重要人物だった。


 そんな人物の存在を、どうして忘れていたんだ、などとは言う勿れ。

 この時代、名前は親や配偶者など、一部の親しい人間しか呼ぶことの出来ない特別なもの。個人を表す呼び方は基本的に、官位や役職、稀に住所情報などだ。

 つまり、そんな流動的なものをいちいち覚えていられるか、という話である。

 そういうわけで、未来の頭中将の動向など、把握していなかったのだが──。


「まぁ、どのみち断るのだから、やっぱり問題はないかな」

「……正気ですか?」


 光る君が、信じられないとばかりにこちらを見上げる。


「左大臣家の嫡男といえば、家柄だって申し分ない、今をときめく貴公子ですよ? おまけに、容姿だって整っている風流人だし。……ものすごい良縁じゃないですか、もったいない」


 そう言いつつ、光る君は片手を胸に当て、しきりと首を傾げている。

 よほど理解に苦しむのか、狐につままれたような表情を浮かべている少年に、脩子は小さく苦笑した。

 この時代の価値観から言えば、光る君の言い分は実に真っ当なことだろう。

 けれど、脩子の価値観は、現代の世で育まれたものだ。

 身に染みついた価値観や尺度というものは、そう簡単には変えられない。


「私はさ、誰かと結婚するつもりはないのよね」


 脩子はこの時代で恋愛をすることも、結婚することも、最初から諦めていた。

 そもそも平安時代の恋愛事情というものが、現代人の感覚とは致命的に相容れないのだから、もうどうしようもないのだ。


 だって、和歌のやり取りをするだけで、どうやって相手の性格や人となりを知れというのだろう。

 おまけに、いざ一線を越えるまでは、互いの容姿だって分からないのである。

 『あなたが恋しい、あなたに逢いたい』という和歌を送られたところで、相手は顔も名前も知らない、言葉を交わしたこともない人間なのだ。

 そんな相手から熱烈な恋文ラブレターをもらったところで「いやそれ『性別が可愛い』と言っているのと同義じゃん」と思ってしまう時点で、お察しである。

 恋愛も結婚も、始まる前から終わっていると言う他ない。


「宮さまの身分なら、正妻の座を望める立場でしょう? それなのに、誰とも結婚しないって言うんですか?」

「えぇ、そう。しない。たとえ正妻になれたとしてもね」


 確かに一夫多妻制の平安時代では、数多あまたいる妻の中で、最も身分の高い女性が正妻として扱われる。

 先帝の皇女である脩子は、基本的には正妻になれる立場だろうが。


「正妻であろうと、側室だろうと、辿る末路は同じだもの。だから、私は結婚しない。誰ともね」


 女側の身分が高ければ、確かに正妻の座には収まれるのだろう。

 けれど、夫は他所よそに女を作るのが当たり前の時代だ。

 正妻になったところで、いつ帰ってくるとも知れない夫を待ち続ける羽目になるのは目に見えている。

 そうなれば、いつ訪れてくれるかも分からない男を待ち続ける側室の立場と、一体なにが違うと言うのだろう。どっちにしろ、やはり女が辿る末路は同じなのだ。


 だからこそ、和歌集などは『いつ帰って/訪ねてくるか分からない男を待つ歌』で溢れかえっているし、『蜻蛉かげろう日記』を涙なしには読めないのである。


 郷に入っては郷に従え。

 ゆえにこそ、一夫多妻制そのものを批判するつもりは、脩子にはない。

 ただ、その理不尽を自分が受容できるかといえば、話は別だというだけのことだ。

 もし仮に、一夫一妻をとする男がいるのなら、一考の余地くらいはあるかもしれないが、それも期待するだけ無駄というものだろう。


「だから私は、適度な時期に出家して、生涯独身を貫くつもりなの。肉も魚も食べる、生臭なまぐさの尼になってやるのよ」


 そう毅然きぜんと宣言すれば、光る君は苦笑して「やっぱり変なひと」と呟いた。


「じゃあ、この恋文、適当にお断りしちゃいますよ?」

「あ、それは助かるな。ちゃんと、君の筆跡だとは分からないようにしてね」

「分かってますって。和歌も適当でいいですか?」

「うん、任せた」

「はーい」


 気軽な調子でけ負って、光る君は文机に向かい、文をしたためていく。

 ものの数秒で完成した返歌は、まぁ見事な出来だった。これならば、袖にする内容だとしても文句は出るまい。さすがは、のちの光源氏である。


「ありがとう」

「これくらい、お安い御用ですよ。僕も、お邪魔させて頂いてるわけだし」


 光る君はそう言って、軽く肩を竦めてみせた。

 折しも、遠くで時をしらせる鐘鼓しょうこの音が聞こえる。

 気付けば、御簾の隙間から入る光は色付き始めていて、もう半刻もすれば空が茜色に染まるような頃合いだった。


「検非違使庁にも寄らないといけないし、僕、そろそろお暇しますね」


 少年は慌ただしく覆面を身につけると、俊敏に立ち上がった。

 するりと御簾の隙間に身を滑らせる身のこなしは、まるで猫のようだ。


「じゃあ、また来ます。藤の宮さま」


 来ていいとも悪いとも、答えてはいないのだが。

 一方的にそう告げて帰って行く少年に、脩子はため息を吐いた。


「藤の宮、ねぇ……」


 御簾越しに、さわさわと揺れる藤の花影を眺めながら、誰に言うでもなく呟く。

 古代の日本において、名前は限られた人間しか呼ぶことの出来ない、特別なもの。

 大河ドラマなどで『道長どの』『清盛どの』などと呼ぶのは、現代人に分かりやすく伝えるための方便だ。

 個人を表す呼び方は基本的に、官位や役職、稀に住所情報(の御息所、式部卿の宮など)である。


 脩子に宛てがわれた旧邸は、藤棚の綺麗なことで知られる屋敷だった。そこに移り住んだ女四の宮だから、脩子の通称は〝藤の宮〟だ。

 入内して、藤壺に住まうことにはならなかったというのに、藤の名を冠するようになったのは、何とも皮肉な話である。

 おまけに、入内は回避したにもかかわらず、光る君との縁が続いているというのも、因果な巡り合わせだった。


 とはいえ、この奇妙な関係も、少年が元服してしまえばいずれ終わる。

 それまでは、弟分の探偵ごっこに付き合ってやるのも悪くはない。そんなことを思いながら、脩子は脇息に肘をつくのだった。



***

『第二章 ぬえくびり殺された姫君のこと』

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