「そこからまた、どうして『狐狸こりが人に化けて殺した』だなんて話が出てくるのかしらね……」




      ◇◆◇


 一応、補足していうのなら。

 光る君もとい、覆面の殿上童てんじょうわらわの言葉が信用されなかった、というわけではないらしい。

 むしろ、検非違使けびいしたちは「一理ある」とさえ考えて、甥っ子の文章生もんじょうせいから元武官の男へと疑いの比重を大きく傾けたのだという。


 そうなれば、取り調べる検非違使にも、自然と熱が入るもの。

 すると、元武官の男は、突然こんなことを言い出したのだという。


『ずっと恐ろしくて言い出せなかったが、本当は昨日、あの屋敷には行っていない』

『最後に自分があの屋敷を訪れたのは、もう二年も前のことだ。返済を迫られると分かっていたから、昨日の呼び出しには応じなかった』

『もしも、自分の姿を見たという者がいるのなら。それは狐狸のような化生けしょうたぐいが、自分の姿に化けていたのに違いない』と。


 これには命婦みょうぶが「まぁ、なんと恐ろしい……」と震え上がる。

 脩子のまぶたはぐぐっと下がって、しまいには半眼になった。


「……あー、念の為に聞くけど、それを証明できる人は、いたのかな」

「いいえ。自宅に一人でいたというので、証明できる人はいないそうですよ」


 その上、男はこうも主張したという。


『あの池の飛び石の間隔は、広くも何ともないだろう。普通に飛べば、大の大人が足を踏み外す理由はない。きっと狐狸が化けていたから、人の身体での目算を見誤って、池に落ちたに違いない』と。


 全くもって、無茶苦茶な言い分である。

 脩子は痛むこめかみを揉みほぐしながら、「さすがは平安時代というか、何というか……」と、小さく呟いた。


 古来より人は、鬼や物の怪、妖怪や怨霊といった存在を、当たり前のように信じ、そして心の底から畏れていた。

 平安時代というのは、鬼や物の怪、妖怪に怨霊といった存在たちが、日常的に跳梁跋扈ちょうりょうばっこしていた時代なのだ。

 それらは決して、現代のようなエンタメの中の存在ではなく、本当の意味で生活を脅かす存在である。

 たとえば雷鳴。電気というものに理解がなかった時代であれば、それはさぞ不可解で、恐ろしい現象に見えたことだろう。

 たとえば、かまいたち、陽炎、逃げ水だって、原理原則を知らなければ、当然奇っ怪な現象として映るに違いない。


 原理が分からないからこそ、分からないなりに、正体不明のものに理由を求めた。

 それが鬼であり、物の怪であり、妖怪で、怨霊といった存在なのだ。


(それを、前時代的とあなどることは出来ないけれど……)


 たとえば令和の初頭に、コロナウイルスが猛威を振るったことがある。

 得体の知れないウイルスに、錯綜さくそうする情報。

 世間に広がる漠然とした不安に、恐怖感。

 きっとあの感覚こそが、鬼で、物の怪で、妖怪で、怨霊の正体だったのだ。

 その時代の科学や医学が敗北してしまえば、現象や病は、あっという間に物の怪の類へと成り下がる。その程度の話だ。


 入郷而従郷、入俗而随俗。郷に入っては郷に従え。

 この時代において、異質なのは脩子の方なのである。感性をチューニングしなければならないのは、脩子の方だと分かってはいるのだが──。

 こと殺人事件なんかにおいても、そういったモノのせいにされるのはたまらない。

 そう思ってしまうのは、もうどうしようもなかった。


「あー、つまり、目撃された男は、狐狸が自分に化けた姿だった、と……。検非違使たちは、それを信じたっていうのかしら」

「うーん、どうだろう。今のところ、全員が信じたわけではないとは思うんですけど。実際にその飛び石を見た人たちは皆『それも一理あるな』とは、思ったみたいで」


 湯呑みをくるりくるりと弄びながら、光る君は続ける。


「現場に行った検非違使たちは皆、『確かに、あの飛び石を落ちるか?』と首を傾げるんです。だから僕、つい気になって、実際にその池を見に行って来たんですよね」

「え、きみ、わざわざ見に行ったの?」


 目を丸くする脩子に対し、光る君はじとっとした目でこちらを見遣る。


「だって、しょうがないじゃないですか。僕の説明で足りない情報があると、宮さまは一人で確かめに行こうとするんだから」

 光る君の恨みがましい視線に、脩子は「そりゃあ、気になってしまったら、確かめたくもなるでしょう」と反論する。


「一応、僕が持って来たお話なんですし。せめて、僕もいる時に行きましょうって、いつも言っているのに」

 そうぼやく顔には、『確かめに行くのを止めることは、もう諦めた』と書いてある。だが、脩子からすれば、不完全な情報を持って来る方が悪いのだ。


「だって、思い立ったが吉日でしょう。たまたまその時きみがいれば、ちゃんと連れて行ってあげているじゃない。たまたま居ればね」

「……宮さまがそんな風だから、気になることは先に確かめておかなきゃ、って。僕が躍起になる羽目になるんですからね」


 光る君が、じとーっと恨みがましい視線を送ってくる。

 脩子はそれに苦笑で応じつつ「それで?」と話の先を急かした。


「その池、ちゃんと見て来たんでしょう。どうだった?」

「……はい。下級貴族の屋敷だし、池そのものは、中島があるほど大きな規模ではなくて。ゆるい瓢箪ひょうたん型の池が、庭の大半を占めているような形でした。飛び石の数は四つで、対岸まで渡されていたんですけど……」

「けど?」

「飛び石同士の間隔は、確かに広くはないんです。むしろ狭いくらいというか……。大人なら、大またでまたげるくらいの間隔なんですよね」


 光る君は、手で幅を表現しながら言葉を続ける。


「それに、一つ一つの飛び石も、結構大きな物だったんです。それこそ、大人でも、二人同時に乗ることが出来そうなくらいには。こけが生えているわけでもなかったし、滑ることも、小さな足場だから体勢を崩した、なんてことも考えづらくて」


 光る君は、そこで一旦言葉を切ると、うーんと考え込みながら言う。


「いくら急いでいるからといって、大の大人がうっかり落ちるほどかな、というのは確かにその通りかな、と。ちょっと釈然しゃくぜんとしない気持ちも、分かるというか……」

「ふうん。小男ならともかく、元とはいえ武官なら、それなりに体格もいいんだろうしね。それも、疑問に拍車をかけている、と……」

「そういうことです。だから、現場を見た検非違使の中には、本当に狐狸が殺したんじゃないか……なんて言い出す者も、現れてしまって」


 光る君の説明に、ふむ……と、脩子は顎に手を当て考える。

 それから湯呑みを啜って喉を潤し、脩子は薄く笑った。


「それじゃあ、大の男でも飛び石から落ちてしまうことに納得できたのなら……狐狸が化けた、なんて話を信じる人間もいないわけね?」


 すると、光る君はハッと顔を上げ、期待に満ちた眼差しでこちらを見る。

 そんな分かりやすい反応に苦笑しながら、脩子は再び口を開いた。



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