第一章 狐狸の、人に化けて池に落つること
1
脩子は御簾を捲り上げて身を滑らせる
それから、悪びれもなく「こんにちは、宮さま」と挨拶を寄越した。
脩子はじろりとその顔を睨みつけると、不機嫌さを隠さずに言う。
「……ひかる。きみ、また来たの?」
「はい。いけませんか?」
こてんと小首を傾ける少年を前に「迷惑だよ」と返せば、少年は「またまたぁ」と言って笑う。
「だいたい『また来た』なんて人聞きの悪い。僕、ちゃんと事前にお伺いは立てたでしょう? 今日は影武者の日だから、お邪魔していいですか、って」
「そうだね、言ったとも。けれど、了承した覚えはないかな」
「あれ、そうでしたっけ?」
少年はとぼけたように言って笑う。
「でも、宮さまは結局いつも、追い返したりはしないんですよね」
「……追い返したところで、きみ、どうせまた来るだろう」
「まぁ、来ますけど」
だって僕、他に時間を潰せるような場所、知らないですし。
そう言って肩を竦める少年を前に、脩子は諦めたように溜息を吐いた。
光る君との思わぬ
脩子はかねてからの予想通り、『他の姉妹たちの婚活に差し
代わりに
居住するのは、屋敷の女主人となった脩子と、女房らをはじめとする使用人たちだけなので、とても大所帯とはいえない人数である。
使用しない区画は早々に閉鎖するなどして、さっさと生活環境を整えてしまえば、あとは住めば都というもので。父母や兄弟姉妹たちから白い目で見られることもなくなって、脩子は存外に快適な日々を送っていたのだ。
ただ一つ、誤算があるとするならば──それは、初邂逅からすっかり縁遠くなったはずの光る君が、頻繁に屋敷を訪ねて来るようになったことだった。
追い返せど、追い返せど、その無駄に整った顔面で使用人たちを
そうして、一向に
せめてもの救いは、その訪問の理由が『初恋の相手のもとに通い詰める』といった色恋めいた類のものではないことだろうか。
だが、その通ってくる理由というものが、なんとも無碍にしづらいものでもあり、困りものなのだ。
「まさか、こんないたいけな子どもに向かって、暗殺の危険があるような場所にさっさと帰れだなんて、言いませんよね?」
少年はそう言って、上目遣いにこちらを見つめてくる。
耳の辺りでくるんと結った下げみずらも相まって、垂れ耳の子犬のようではあるが、騙されてはいけない。
これは、自分の容姿の使い
その証拠に、少年の目にはからかいの色が濃く浮かんでいて、こちらの反応を明らかに面白がっているのが分かった。小憎たらしい子どもである。
脩子はため息まじりに口を開いた。
「何がとは言わないけれど……相変わらずなの」
「えぇ。困ったことに、相変わらずです。父上はああいう御人ですからね、仕方がありません」
暗殺の危険──光る君を取り巻く事情を初めて聞いた時、脩子はそれほど驚かなかった。むしろ、
というのも、『源氏物語』における桐壺帝とは、なかなかに残念な人物であるから、仕方がない。
たとえば、帝から格別の寵愛を受けていた桐壺の
だが、桐壺帝はそんな彼女をますます愛おしく思って、人々の
その、行き過ぎた寵愛のせいで虐められているにもかかわらず、負のスパイラル、悪手に悪手を重ねていくのである。
桐壺帝はそんな風に、桐壺の更衣を愛するあまり、取るべき対応を間違い続ける。そうして無自覚に、彼女の待遇を悪化させ続けるのだ。
彼女の寿命を縮めたのは、桐壺帝であるといっても過言ではなかった。
さらに桐壺帝は、更衣の産んだ第二皇子、つまり光る君に対しても、その愛ゆえに暴走する。たとえば、光る君が三歳になった年のこと。
幼児から少年少女に成長することを祝う、
当然ながら、世間からの非難も上がるが、桐壺帝はお構いなしだ。
光る君を愛するあまり、世間体というものを全く
となれば、東宮を産んだ弘徽殿の女御や、その実家である右大臣家が危機感を覚えるのも、当然の帰結だろうといえた。
何せ、舞台は
弘徽殿の女御や右大臣方からすれば、光る君は是が非にでも亡き者にしたい存在に違いなかった。
「僕はもう、
光る君はそう言って、おどけたように肩を竦める。
だが、平安時代の前期にはすでに、一度は源氏性を
世相を大いに反映した物語の世界観において「臣籍に降下したから」という理由では、安心材料としては弱すぎる。
それが分かっているからこそなのだろう。光る君は「ほんと、困っちゃいますよね」と苦く笑って見せた。
「時々、僕ってものすごく可哀想なんじゃ、と思うことがあるんです」
「安心していい。きみはまぁまぁ可哀想だよ」
「わぁ、やっぱり。でも、全く喜べないや」
光る君の最も同情すべき点は、帰るべき家が〝後宮〟であるということだろう。
通常、天皇の子どもは母方の実家で養育されるもの。
だがこの少年はといえば、養育してくれていた祖母までもを、六歳の時点で亡くしている。
唯一の後ろ盾を失ってしまった幼な子は、結果として、桐壺帝の手元で養育されることになるのだが──その養育環境はといえば、必然的に後宮ということになる。
つまり、彼は自分の実母を虐め抜いた女たちの園で、生活をする羽目になるのだ。
死してなお、帝の寵愛を独占し続ける桐壺の更衣と、その
他の女御や更衣たちからすれば、忌々しいことこの上ないだろう。
にもかかわらず、桐壺帝は「ほら見てこの子、こんなにも可愛いし聡明なんですよ」と自慢しながら、光る君を連れて後宮を練り歩くのである。
挙句の果てには「こんな麗しい子を、誰も憎んだりは出来ないでしょう。ぜひ可愛がってやって欲しい」などと言って、光る君を
暗殺の好機を積極的に与えんとする、鬼の所業である。
「僕、顔なんて
やたらに
「せめて『殺すのはさすがに可哀想だなぁ』とか、『暗殺に加担するのは、寝覚めが悪いなぁ』とか……。最低限、それくらいは思ってもらえるように、四方八方に
「はいはい、そうそう、可哀想。だから、追い返してはいないでしょう」
「……宮さまは、もうちょっと僕に同情してくれてもいいと思う」
「同情なら、しているわよ」
それこそ「本音では、死んでも関わり合いになりたくない」という思いを曲げて
とはいえ、下手に優しく接することで、初恋フラグを再建してしまうのは避けたいところだ。だからこそ、これくらいの雑な距離感でちょうど良かった。
すでに、妙な懐かれ方をしてしまったというのなら。
もういっそ、
そういうわけで、かれこれ二年ほどだろうか。光る君との奇妙な関係は、未だにずるずると継続しているのだった。
「そういえば、今日はなにを読んでいらっしゃるんですか?」
ひょっこりと手元を覗き込んでくる頭に、脩子は「
「面白いですか?」
「まぁ、哲学の話だからね。面白いかな」
「じゃあ、読み終わったら貸してください」
顔を上げた少年は、一旦は興味を失ったのか、あっさりと立ち上がった。
それから「僕も、今日はなにを読もうかな」と呟きながら、書棚の間に消えていく。
庇の間から、さらに御簾によって区切られた内側の空間は、本来であれば
客人を招いて、宴を開く時にも使用するような、広々としたその空間。
母屋に壁は存在せず、壁に代わって空間を仕切っている御簾を全て上げてしまえば、柱が等間隔に渡してあるだけの、開放的な広間のようなその区画は。
こと脩子の屋敷においては、その大半が背の高い書棚の列によって占領され、小さな図書館のような様相を呈していた。
端っこの方に、申し訳程度に組まれた
脩子は畳の上に寝転がると、読みさしの冊子の頁をめくった。
「……
ぽつりと呟けば、書棚の間から声だけが返ってくる。
「そりゃあ勿論、あるんでしょうけど……。ここに来れば、大体の書物が揃っていることが分かっていて、わざわざ持参したりしませんって。宮中を抜け出すのに、荷物になるだけじゃないですか」
「そういうものかしらね」
「そういうものですよ。手荷物なく、時間も潰せて、時々お茶やお菓子までいただけて。ここって本当に、一石二鳥の隠れ家なんですよね」
「ここは漫画喫茶じゃないのだけどな。……初対面の時に、漢文の話を持ち出しちゃったのが、運の尽きだったのよね」
「え、なにか言いました?」
「いいえ、こちらの話」
光る君は、桐壺帝と行動をともに出来ない時などに、決まって脩子の屋敷へと転がり込んでくる。
護衛や付き人の目も多い帝の近くにいれば、比較的安全であるらしいのだが、どうしても父親のそばに居られない日や時間帯もあるのだろう。
そういう時には「勉学に励むために、部屋に籠もっている」という
少年はいつも、
殿上童というのは、
だが、覆面の方は、さすがに人目を引くだろう。
そう思いきや、案外そうでもないらしかった。
平安時代は、
むしろ、そんな相手をじろじろと注視する方が無作法であるからして、人々は率先して見て見ぬふりをする程なのだとか。上手いこと立ち回っているものである。
書架の間を、小葵紋の童
「……そういえば。きみ、幾つになったのだっけ」
「数えで十三ですけど……それがどうかしたんですか?」
書棚の陰からひょこっと顔を覗かせた光る君が、
この数年で、光る君はだいぶ背が伸びた。出会った頃は見下ろせるほどに小さかったのに、今では脩子の背丈と変わらない。
少年から、青年へ。
その過渡期特有の危うげな色香は、日に日に増していくばかりである。
そんな、着々と物語の光源氏へと近づいていく少年に対し、脩子が思うことといえば。どうしてこの子、まだ元服していないんだろうな、ということだった。
光源氏の元服──つまり成人は、数えで十二歳の頃であったはずだ。物語の通りであれば、今頃は葵の上と、ギスギス新婚生活を送っているはずの頃合いである。
だというのに、どうしたことか、光る君の元服は未だに
「きみ、元服の話は出てないの?」
「はい。今のところは、まだ」
「それは、桐壺帝の意向?」
「……まぁ、はい」
苦笑まじりのその声に、脩子は何となく事情を察して「そう」とだけ返した。
おそらく、桐壺帝が手放したがらないのだろうなと、当たりをつける。
今でこそ、光る君の住む場所は後宮だが、成人すれば後宮を出なくてはならない。
ジェネリック桐壺の更衣の不在──つまり、脩子が藤壺の女御として入内しなかったことにより、光る君への執着がさらに増しているのかもしれなかった。
多少の罪悪感から「南無三……」と書棚の方角を拝めば、「宮さまがまた変なことしてる」と笑われる。おまけに言葉の使い方も間違っている気がするが、まぁいいかと脩子は開き直った。
光る君は書棚を物色し終えたのか、いくつかの冊子と巻物を手に取り戻ってくる。
それから、寝転がる脩子を見下ろすと、小さく肩を竦めた。
「まぁ僕も、早く元服したいってわけでもないし、別にいいんですけどね」
「そうなの? 針の
「だって、元服したら、宮さまは御簾の内に入れてくれなくなるでしょう?」
「まぁ、それはそうだろうけれど」
御簾をフリーパス出来るのは、まだ元服や
それがこの時代の通念である以上は、いずれはそういうことになるのだろうが。
光る君は、御簾の内側にある書棚の列をぐるりと仰ぎ見て、うーんと
「だったら、元服はまだ良いかなーと。正直、あと二年くらいあれば、ここの蔵書もぜんぶ読み切れると思うんですよね」
光る君はそう言うが、ここの蔵書を読むためだけに、元服を遅らせるというのは如何なものだろうか。
「きみが望むのなら、別に書庫は、御簾の外側に出してもいいのだけどね。あ、屋敷の隅にでも、土蔵を作ってあげようか」
弟分のような存在の生活環境には、一応、本気で同情しているのだ。
元服すれば、自動的に後宮から出られるのだから、ここの蔵書が気残りだというのであれば、それぐらいはしてやっても良い。
しかし、当の光る君はといえば。脩子の老婆心に対し、とても残念なものを見るような目を向けてくる。
「それって、元服してからもここに通っていいよ、って言ってます?」
「あー、なるほど……うん、間違えた。断じてそういう意味ではないから、今のは忘れて欲しいかな」
脩子が慌てて否定すれば、少年は心底呆れたといった様子でため息をつく。
「まったく……。宮さまがただの考えなしで、本当に他意はないんだってこと、僕は分かっているからいいんですけど……。そういう思わせぶりなこと、他の人には言っちゃ駄目ですよ」
「ぐっ、正論が五寸釘みたく突き刺さる……」
中学生くらいの子どもに
とはいえ、光る君の言うことはもっともだった。
平安時代の結婚スタイルは、
『元服後も、通って来てもいい』という発言は、そういう意図として捉えられかねない、
幸いなことに、光る君の反応は、出来の悪い姉に呆れる弟そのものだ。特に含むところもなさそうなのが救いである。
(本当に、姉弟のような関係になっておいて良かった……)
そう安堵しつつ、脩子は再び書物の方へと意識を戻したのだった。
***
次話「ねえ宮さま……狐狸が人に化けて、誰かを殺すだなんてこと、あり得ると思います?」
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