「私が〝藤壺の宮〟だということに、なってしまうじゃないか……」




      ◇◆◇


 藤壺の宮。

 彼女は光る君の初恋の女性にして、物語の最重要人物である。

 むしろ、光源氏のただれた女性遍歴の、諸悪の根源と言ってもいいかもしれない人物でもあった。


 それは、藤壺の宮が桐壺帝の後宮に入内じゅだいした後のこと。

 桐壺帝は、桐壺の更衣によく似た藤壺の宮と光る君を、まるで実の母子おやこのように扱っては、積極的に交流を持たせた。

 結果として、光る君は五歳年上の彼女によくなつき、やがては彼女に恋心を抱くようになる。

 けれど初恋の人は、出会った最初の瞬間から、父親の嫁という立場だ。

 スタートラインからすでに、絶望的な恋である。

 そりゃあもう、こじらせもする。


 やがて元服げんぷくした光源氏は、藤壺の宮への恋心を忘れられないまま、彼女の面影を求めて様々な女性のもとを渡り歩くようになる。

 おまけに藤壺の宮によく似た姪っ子(十歳)を見つけて来ては、理想の女性になるように養育した上で、めとってしまう。

 ちなみに光源氏は、一度だけ藤壺の宮とも寝る。挙句、のちの冷泉帝という不義の子まで、ちゃっかりこさえるのだ。

 とまぁ、源氏物語の根底にはいつだって、光源氏から藤壺の宮への執着があるのである。そういう意味では、こんがらがった相関図の元凶と称しても、過言ではないといえた。


(まぁ、元凶といえば、目の前の御仁も当てまるのだろうけれど)


 脩子は御簾みす越しの人影をジト目で見遣り、それからバレないようにため息を吐いた。

 鳥黐トリモチ帝、もとい桐壺帝はといえば、こちらの心境などいざ知らず。

 御簾越しにも分かるほどに上機嫌な様子である。

 聞かれてもいないのに、いかに若宮の容貌ようぼうが優れているか、どれほど聡明であるかということを、嬉々として懇々と語り続けていた。


 当然ながら、ここでいう若宮とは、亡き桐壺の更衣が産んだ第二皇子──光る君のことである。

 これでは弘徽殿こきでん女御にょうごが産んだ第一皇子も、他の女御や更衣たちが産んだ皇子や姫宮たちも浮かばれない。

 そういうことをするから、桐壺の更衣は壮絶なイジメに遭ったのだろうに。ちっとも学習しない男である。


「母親も、養育していた祖母も、すでに亡くしてしまった御子なので、どうにも可哀想に思えてしまって……。つい、どこに行くにも連れ歩いてしまうのですよ」


 桐壺帝は、そう言ってほけほけと笑う。

 挙句の果てには「あなたは亡き更衣に瓜二つであると聞くから、入内した暁には、是非とも若宮を可愛がってやって欲しいものです」などとのたまう始末である。

 この男、すでに脩子が入内することを、疑っていないらしい。

 まさか、脩子が本気で断りたいと思っているとは、夢にも思っていないのだろう。


 確かに和歌というものは、初めはつれない対応を見せるのも、駆け引きのうち。

 女房が代筆した、やんわりと断ろうとする返歌の数々も、その一環として捉えられているのだろう。脩子はぼそりと呟いた。


「……やっぱり、私が直接、筆を取るべきだったよね。そうすれば、解釈の余地なんかないほどに、断れたのに」

「おや、何かおっしゃいましたか?」

「いえ、何も?」


 うっかり漏れ出た心の声を、しれっと誤魔化しながら、脩子は目をつむる。

 さて、どうしたものだろうか。

 自分が藤壺の宮の立場であることを自覚した以上は、脩子が入内しなければ、物語は進展しないだろう。それは百も承知のことだった。

 けれど、だからといって、物語の展開のために自分の人生を棒に振れるかと問われれば、答えは否である。


 いっそ、物語に無関係の立場であれば、喜んで傍観者を気取れたのだろう。

 だが、重要人物のポジションにいるからには、そうも言ってはいられない。

〝ジェネリック桐壺の更衣〟扱いされるのは真っ平御免であるし、誰だって我が身は可愛いもの。藤壺の宮と同じ末路を辿るのだって、普通に嫌だ。

 光源氏と不義の子をこさえるのも、その罪の意識にさいなまれながら生きるのも、どちらも願い下げである。


 それに、よくよく考えれば、そもそも藤壺の宮の中身が脩子である時点で、物語の通りに話が進むはずもないのだ。

 確かに脩子の容姿は整っているけれど、作中で言われるような、才色兼備の完璧な女性であるかといえば、決してそんなことはないのだから。

 いっそ、初めからパラレルワールド、パロディのようなものだと考えてしまえば、自由に生きても問題はないだろう。脩子はまたしても、あっさりと開き直った。

 そうと決まれば、話は早い。

 脩子は居住まいを正し、御簾越しに桐壺帝へと向き直った。


「私の容姿が、亡き桐壺の更衣に似ているということ。それを主上おかみのお耳に入れたのは、典侍ないしのすけであると、聞き及んでおりますわ」


 桐壺帝に仕える典侍ないしのすけは、先帝にも仕えた人間である。そのため母后の所にもよく出入りしており、脩子も幼い頃に面識があった。


「けれど、典侍と最後にお会いしたのは、もう随分と昔のこと。人とは成長するにつれ、顔つきも変わるものでございます。私の現在の顔立ちは、果たして本当に、桐壺の更衣と似ているものでしょうか」


 そう問えば、桐壺帝はわずかにたじろいだ。

 その隙を逃さず、脩子は畳み掛ける。


「ちなみに、今の私の顔は、面長で垂れ目がち、鼻は低く、唇は薄めでございます」


 適当に自分とは正反対の特徴をあげていけば、桐壺帝は瞬く間に、分かりやすく動揺し始める。

 そりゃあそうだ。彼にとって価値があるのは、桐壺の更衣によく似た容姿だけ。

 それを真っ向から否定されたのだから、彼が慌てふためくのも無理はなかった。

 ここで「じゃあ御簾を上げて、顔を確かめさせてくれ」とはならないのが、平安時代らしいところである。

 平安時代において、目合めあうはめあう。相手の素顔を見るとは即ち、結婚が成立するのと同義だ。つまり桐壺帝は、脩子の自己申告を信じる他ない。


「そ、れは……どうやら少々、行き違いがあったようだ」

「誤解があったのなら、解消されてよかったですわ。私としても、入内した後に、話が違うなどと思われるのは、本意ではありませんもの」


 ──入内のお話は、なかったことにするのが双方のためかと存じますわ。

 そう言ってにっこり微笑んで見せれば、桐壺帝はほっとしたような気配を見せた。入内を求めた手前、自分から破談にしたいとは言い出しにくかったのだろう。


「すまない。気を悪くさせてしまっただろうか」

「いいえ。お気になさらないでくださいな」


 そうは言っても、多少は気まずいのだろう。桐壺帝はそそくさと退散していく。

 その後ろ姿を見送りながら、脩子はぺろりと舌を出した。

 これで、入内話は完全に立ち消えたと思って良いだろう。完全勝利である。


 桐壺帝は案内の女房たちを引き連れて、母屋の方へと戻っていった。必然的に、脩子の対屋たいのやは人がすっかりと出払ったので、その開放感も大きい。

 口うるさいお目付け役である王の命婦も、今はいないことである。脩子はぞろ引くうちぎの裾をたくし上げると、衝動のままに壺庭へと降り立った。


「よっし! 耐えた〜」


 誰も見ていないのを良いことに、両腕を空に突き上げ伸びをする。

 清々しい達成感に、脩子の気分は晴れやかだった。やはり自分の人生は、自分の意思で選択してこそである。小躍りでもしたい気分だった。


「あー、久しぶりの太陽光!」


 飛び飛びに配置された敷石を、脩子は軽やかに踏み越えていく。

 心のおもむくままに、時折くるくると回ったりしていると、ふと、視界の端に何かが映った。

 何だろうと視線を遣れば、そこにいたのは、みずら髪を結った少年である。


「あなたが、女四の宮さま……?」


 まだ声変わりもしていない、高く透き通った声だ。

 だがその簡単な問いに、脩子は咄嗟とっさに答えることが出来なかった。その少年の容姿に、思わず唖然あぜんとしてしまったからだ。


「うわぁ……。これは紛うことなき、傾国のかんばせ


 ここまで『美』が前面に押し出されている人間を、脩子は初めて見た。

 年齢的には、どう見積もっても九つか十あたりだろう。だが、その幼さに見合わぬ、圧倒的な存在感がそこにはあった。

 そりゃあ、脩子の今世の顔だって、場が華やぐような美形ではある。だがこの少年の容姿は、幼いながらにも、その一段階上を行くものだった。

 一瞬にして、その場を支配するレベルの美貌とでもいうのだろうか。


 長い睫毛まつげに縁取られた大きな瞳に、すっと通った鼻筋。小さな顔にはパーツがバランス良く収まっており、その全ての配置が完璧に美しい。

 もしも黄金律とやらが人間の形をしているのなら、きっとこんな感じなのだろう。

 確かにそう思わせるほどの美少年を前に、脩子は「抜かったな、」と唇を噛んだ。


 あぁ、名乗られずとも、嫌でも理解してしまう。

 この少年こそが『光る君』なのだ、と。

 脩子は片手で顔を覆いながら、ため息混じりにうめいた。


「入内さえしなければ、きみとのエンカウントだって、避けられると思っていたんだけど……参ったな」


 確かに桐壺帝は『つい、どこに行くにも連れ歩いてしまう』と言っていたが、まさか、今日の御幸みゆきにも同行させているとは。完全に、油断していたと反省する。

 しかし、光る君はといえば、そんな脩子の動揺など知る由もなく。その大きな黒目がちの瞳を瞬かせながら、こてんと首を傾げた。


「えっと、その、珍妙な舞、ですね……?」

「珍妙」

「はい」


 幼いながらにも、なかなかに歯に衣着せぬ物言いである。

 脩子は壺庭の敷石の上、半端に浮いたままになっていた片足をそっと下ろした。

 そりゃあ、壺庭で一人くるくると回っているなど、はたから見れば奇行だろうが。

 そもそも御簾の内から出て来ないのが、奥ゆかしい姫君というものである。脩子の振る舞いはこの時代において、はしたないことこの上ないのだろう。


 と、そこまで考えて、はたと気付く。

 これはこれで、いい機会なのではなかろうか、と。


 ここで光る君の初恋フラグを、完膚なきまでに叩き折ってしまえば、どうなるか。

 光源氏が妙に初恋をこじらせることもなければ、このさき藤壺の面影に執着し続けることも、きっとなくなるはずなのだ。


 今ここで初恋フラグをへし折ったところで、いずれ光る君が成長すれば、その容姿に相応の浮き名を流すようになるのかもしれない。

 けれど、現時点で恋愛対象から外れておけば〝藤壺の宮〟が彼の恋愛相関図に絡むことも、恐らくないに違いないのだ。


 脩子は晴れて、パロディ版『源氏物語』の傍観者となり、ひいては自分自身の人生を謳歌おうかできるというわけである。


 なればこそ、ここで会ったが百年目だ。脩子は早速、意識を切り替えた。

 厄介な初恋の芽は、今ここで摘み取ってしまうに限る。

 それはもう、根っこも残さないほど、徹底的に。


「あらどうも。珍妙な舞で悪かったわね」


 脩子は腰に手を当て、にっこりと満面の笑みを浮かべて少年を見下ろした。


「嬉しいことがあったから〝欣喜雀躍きんきじゃくやく〟を身体で表現していたの。欣喜雀躍、分かる? 欣喜の出典は『春秋左氏伝』から、雀躍の出典は『荘子』から。『欣』『喜』はともに喜ぶ意で、『雀躍』は雀がぴょんぴょんと跳ね行くように喜ぶことね」


 平安時代において、女性が漢字を読めること、ひいてはその知識をひけらかすことは、完全に御法度ごはっとである。

 どのくらい嫌厭けんえんされる行いかというと、あの紫式部をして『漢字の一という文字すら、読めないふりをしておいた方が無難』と言わしめるほど。

 ましてや、漢文の知識をひけらかすなど、もっての外のことである。


 それに、嬉しいことがあったからといって小躍りするというのも、普通に奇行と言って差し支えない。おまけにそれを、誰の目に触れるかも分からない屋外でやってのけるというのも、平安時代の感覚で言えば痴女同然である。

 恋愛対象になる女性として、さすがに論外のトリプルコンボだろう。


「もともと知っていたなら、ごめんなさいな。あら、知らなかった? ではきっと、二度と忘れないでしょう。良かったわね」


 畳み掛けるように言葉を重ねれば、美少年の顔には次第に「うわぁ……」とでも言いたげな表情が浮かんでいく。期待通りの反応に、脩子はしたり顔で頷いた。

 その調子で、幻滅してくれればいいのである。少年のドン引いた表情を見下ろしながら、脩子はにっこりと笑みを深めた。


「あぁ、それからね──」


 脩子は己の胸元ほどの背丈の少年に、ずいっと顔を寄せる。


「私、きみの亡くなったお母上には、似ても似つかないらしいよ。帰ったら、お父上に確かめて見ることだね」


 脩子はそう言って、不敵に笑ってみせた。

 きっと桐壺帝は、脩子のでたらめな容貌の自己申告を真に受けて「似ていなかった」と答えることだろう。

 一方で、光る君が桐壺の更衣と死別したのは、彼が二、三歳の頃だったとされる。写真も存在しない時代において、光る君本人が母親の顔を覚えているはずもない。

 つまり、眼前の少年もまた、脩子と父親の言葉を鵜呑みにせざるを得ないのだ。

 そうなれば、『母親に似ているらしいから』といった方向性で執着されることも、おそらくない。フラグは完璧に封殺である。


 果たして、少年はというと。脩子の言葉に大きな目をぱちぱちと瞬かせた後、形の良い口を綻ばせて「おかしな人」と笑い始めた。


「えっと、その……それは、よかったです」

「良かった?」

「はい。だって、どうせ覚えていない人なら、適当に美化しておいた方が心証もいいですし。母があなたみたいな風変わりな人だったと言われると、ちょっと困るなと思って。だから、似ていなくてよかったです」


 そう言って、少年は再びくすくすと笑った。


「……なんだか、思ってた以上にれてるというか。可愛げがないね、きみ」

「それは、どうも?」


 この少年、物腰こそ柔らかいが、なかなかにイイ性格をしているのかもしれない。

 光る君はきょとりと目を瞬かせると、またすぐに愉快そうに笑い出した。

 とはいえ、『おかしな人』も、『風変わりな人』も、恋愛対象として論外なのは間違いない。入内だって回避したのだから、これ以上関わる必要もないのである。

 脩子は明後日の方角を向いて「目的は達成したのだから、まぁ良いか」と、そっとため息を吐いた。



 まさかこの少年との縁が、思わぬ形で続く事になろうとは。

 この時の脩子には、まだ知る由もなかったのだ。




***

『第一章 狐狸こりの、人に化けて池に落つること』



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