第10話:奇跡巡り③

 一滴二滴、血の落ちる音が鳴り響く。

 もう動かなくなった成人男性の首筋に噛み付き、赤錆ベガは溢れる血をゆっくり飲み干していた。


 零れ落ちた血は背後に流れ、即座に消え果てる。衣服を穢した流血さえ、次の瞬間には吸い取られて染み一つ残さない。


 自分自身が吸血をしているこの瞬間だけ、あの地獄のような苦しみから解放される。

 全身から生じる激痛は血という甘美な快楽で打ち消してくれる。

 自分自身が人間ではなく、吸血鬼である事を自覚する。

 これなら、まだ十全に活動出来る。思っていた以上に限界は遠い。これなら復讐を完遂させる事が出来るだろう。


 ――血を吸い切り、既に事切れた男を突き飛ばす。

 死体は黒い影に沈み、跡形も無く葬り去られる。

 ずきり、と一瞬だけ実体化しただけで生じた激痛に目に涙を滲ませる。


(……まだ頑張れる。諫山龍二君の仇を、この手で取れる――)


 憎き怨敵を脳裏に思い描き、憎悪が激痛を凌駕する。

 どうやって殺してやろうか。絶対に楽には殺さない。殺してと懇願するまで壊して、思い知らせてやる。


(……龍二君が殺されてもう二年、貴方の顔を思い出す事さえ困難になっている――)


 ふとした拍子に正気に立ち戻ってしまう。

 生命力補給の為に幾人もの人間を犠牲にしてしまった。何の罪もない、赤の他人を。

 友達である桐藤なのはに瀕死の重傷を負わしてしまった。黒野喫茶が救出したので、無事だと思うが――。


(……駄目。迷っては、いけない。認めたら、もう立てなくなる――)


 脳裏に過ぎった感慨を振り払い、立ち上がる。

 既に日は落ちつつある。これからは自分達の時間だ。今日で何もかも終わらせる。

 殺して殺して殺し尽くして、赤錆ベガは復讐を遂げる。最期まで狂気を途切れさせずにやり遂げなければならない。


 ――さぁ、狩りの時間だ。夜の支配者である吸血鬼の、一方的な惨殺劇の始まりである。


 そうなる筈だった。物語通りの性能を誇る吸血鬼に敵などいない。

 全てが出鱈目で滅茶苦茶な強さ、理不尽の頂点に位置するのが吸血鬼という怪物なのだから。


 ――ただ、ここで同じ事を言えるかと問われれば、否である。


 明かりさえない廃ビルに紙吹雪のように本のページが舞い、その悉くに釘が刺され、貼り付けられて次々と固定化される。


「な、何っ!? 大悪霊!」


 異常な光景を目の当たりにし、赤錆ベガは即座に大悪霊を実体化させ、襲撃及び奇襲に備える。

 けれども、奇襲に備える必要など欠片も無かった。そもそも廃ビルという空間に隔離し、完全に閉じ込めた今、この襲撃者は奇襲する必要性すら無かった。


 ――かつん、かつん、と、甲高い靴音が等間隔に鳴り響いてく。


 それはまるで死神の足音のように、鼓膜の奥を反芻する。

 何一つ恐れず、一方的に恐怖を撒き散らす暴君だった筈の彼女は、この未知の存在に本能的な恐怖を抱いた。


 そして現れたのは一人の初老に差し掛かった眼鏡の神父だった。

 巨大なハルバードを片手に軽々持った絶対の処刑人が、吸血鬼を前に悪鬼の如く笑っていた。


「お誂え向きの場所だな、吸血鬼」


 ――これは一体、何の悪夢だ?


 今のこの光景が現実であるのかと赤錆ベガは疑う。

 彼女の背後には人型ですらない怒涛の如き大悪霊が控えている。狩るのは自分達で狩られるのはその他全員だ。それなのにあの神父は何故笑っていられる……?


「――貴方、何者……!?」

「我等は神の代理人、神罰の地上代行者。教会の神父だ」


 眼鏡を片手でくいっと上げ、不気味な光を宿した『神父』は変わらぬ速度で前進する。


「我等が使命は我が神に逆らう愚者を、その肉の最後の一片までも絶滅する事」

「っ、行け!! 大悪霊!!」


 恐怖に駆られ、赤錆ベガは自らの大悪霊に戦闘を命じる。

 黒い影は馬鹿げた速度で押し寄せ、『神父』の下に殺到する。巨大な大波が飛沫を打ち消すようなものであり、たかが人に過ぎない『神父』は何一つ抵抗出来ず――。



「え――?」


 黒い大波が真っ二つに割れた。それはモーゼの如く、否、四つに八つに十六つ三十二つに――身体を幾重に引き裂かれて舞い散る血飛沫さえ両断される。


 吸血鬼としての動体視力を持ってしても、あの巨大な戦斧が振るわれた瞬間を捉える事が出来なかった。


「――化、物……」

「化物は貴様だ、女吸血鬼(ドラキュリーナ)」


 目の前にいる『神父』が自分と同類、吸血鬼であるならば動揺などしなかった。

 人間の形すら取らない異端な吸血鬼の大悪霊を従わせているのだ、それぐらいでは驚きもしないだろう。だが、これを人間と呼ぶ訳にはいかない。認める訳にはいかない。こんな化け物より化け物らしい人間など――!


 ――大波は引き裂かれ、それでも自身の太陽のは構わず進撃する。


 全身に走る激痛だけが現実味あって――あそこまで切り刻まれて死なない自身の大悪霊は正真正銘の化物であり、目の前の『神父』と比べても劣ってないと悟る。


 再び戦斧を一閃し、『神父』は一方的に大悪霊を解体していく。


「面倒なことだ、悪霊というのはいつも!」


 その悪鬼が如く笑みには狂気の色しかなく、『神父』は全身全霊を以って戦斧を縦横無尽に振るう。

 対する黒い不定形だった影は今度は明確な形を取っていく。それは幾百の蝙蝠であり、幾百の百足であり、幾百の人間らしき腕へと次々に変化していく。


「人を殺し、人を喰らい、人を騙り、人を奪う。その存在が不愉快極まるッ!!」


 切り刻み、押し潰し、突き殺し、何もかも粉砕し、風圧だけで幾百の個体を吹き飛ばし、地獄のような只中で『神父』は狂ったように笑う。

 長年待ち侘びた宿敵に出遭ったかのような、狂おしいほどの情動をもって、唯一人の『神父』は正面から堂々と挑む。


「我等の神罰の味をッ、噛みしめろ!!」

「がはぁっ、くぁ……大悪霊……!」


 あの『神父』が戦斧を地面に叩きつける度に激震が走り、ビル全体が揺れる。

 一体何方が理性無き狂戦士なのかは、傍目から見たら判別出来ないだろう。


「だ、め……これ、以上は、耐え切れない……!」


 ――大悪霊は赤錆ベガから無尽蔵に魔力を摂取して、更なる暴力暴虐を振るい、『神父』は真正面から互角以上に渡り合っていた。


 あの馬鹿げた重量の戦斧を、羽の如く軽さで扱っている。

 怒涛の如く押し寄せる大悪霊の猛攻を、それを上回る攻勢をもって殲滅して行っている――!?


(ま、ずい。このままじゃ――)


 まさかの事態だ。唯一人を相手にして此方の魔力枯渇による自滅の方が早い。


 あの『神父』も無傷という訳にはいかず、処々に負傷して血を流しているが、動きが鈍る処か、更に増すばかりだ。


 鬼神の如き猛攻は更に鋭く、更に力強く、一閃毎に加速し苛烈していく。


(……駄目、あれとこれ以上戦っちゃ、目的を果たせずに死に果てる……! 逃げないと……!)



 此処は廃ビルの三階だが、今の自分なら飛び降りても多少の負傷程度で済む。

 大悪霊は呼び戻せば良い。気付かれないように背後に下がりながら、窓辺に手を掛けて――弾かれる。火傷じみた痛みが掌に生じ、貼り付けられた本のページは風圧に当てられてバサバサと揺らめく。


「外に出れない」


 心の底から絶望が鎌首を上げる。

 大悪霊ではあの『神父』は殺せない。


 『神父』では大悪霊を殺し切れないが、マスターである月村すずかは『神父』が力尽きるより遥かに先に枯渇死する。


 数順先に逃れられぬ死が見え隠れする。一体どうすれば、どうすれば――その時、すぐ隣に大悪霊が刎ね飛ばされ、元々丈夫じゃなかったビルが丸ごと倒壊した。


 赤錆ベガは幾多の破片と共に墜落していき、大悪霊は彼女を守護せんと殺到する。

 その光景を『神父』は冷めた眼で、ビルの上から見下していた。

 


「――っ、ぁ……あぁっ、がっ……」



 ――血が、足りない。

 魔力が足りない。身体の感覚が徐々に無くなって来ている。


 ぼろぼろの身体では歩く事すらままならず、その歩みを牛歩の如く遅める。痛覚に異常を来たしたのか、自分の存在が不明瞭なまでに浮いている。


 ――大悪霊は健在なれども、マスターの自分は唯の一回の戦闘で壊れようとしている。


 


 まだ倒れる訳にはいかない。


 此処で立ち止まれば、怨敵まで届かない。歩く。ひたすら進んでいく。


 辿り着いてしまえば大丈夫だ。後は残りの生命を燃やし尽くすのみ。


 それで赤錆ベガの復讐は果たされる。


 


(白羽逆刃に、感謝しないと――)



 もし、自分が彼女の助言を聞かずに『奇跡』を求めていれば、自分は復讐を果たせずに自滅しただろう。


 分不相応、自分には一つの事を成すので精一杯だ。


 二つを追って二つとも成せる道理は無い。


 片方さえ満足に熟せないでいるのだ。


 最初から一つに絞って、正解だっただろう。


 


 もうじき、自分から諫山龍二を奪った者の居場所に辿り着く――。

 ――月夜の下、その黒尽くめの青年はまるで待ち侘びていたかのように立っていた。


 太刀を堂々と帯刀し、銀色の鋼鉄を纏った武者静かに待機している。


 今まで出遭った中で最も濃厚な血の香りを漂わせた悪鬼羅刹は無表情に佇んでいた。

 遂に辿り着いた。この武者こそは彼女から彼を奪った者の組織の長、彼女の求める答えを知る者である。


「――諫山龍二君を殺した人は誰?」


 大悪霊を実体化させ、溢れんばかりの憎悪を籠めて問い掛けた。

 長年の疑問に解答を得て、私は遂に復讐相手の下に辿り着く――。


「諫山龍二を殺害した者は既に自刃している」

「……え?」


 返って来た言葉は余りにも予想外であり、思わず思考を停止させてしまった。


「我等の掟は『善悪相殺』――悪を殺せば善も殺す。敵を一人殺せば味方も一人殺さねばならぬ。怨敵を殺して復讐を成就すれば、返る刃は己を貫くのみ」


 彼は変わらず、淡々と喋った。


 ――『善悪相殺』? 敵を一人殺せば味方も一人殺す? 一体何を……?


「――意味が、解らない」

「我らの掟は『独善』を許さない。仇敵には当然の如く報いがあり、復讐者にも当然の如く報いがある。『正義』も『悪』も撲滅し、争いが無意味である事を世に知らしめなければならない」


 遠い彼方を見据えるように、彼は語らい続ける。

 まるで異世界の未知の法則を説明されている気分であり、何一つ納得出来ないし、理解したくもない。

 諫山龍二を殺害し、返す刃で自刃した? もし、それが真実ならば――。


 


「――狂っている」

「皮肉な巡り合わせだ。強大無比な『能力者』への唯一の復讐手段である我々が、無力な『一般人』の復讐の刃に喉仏を掻っ切られようとしている。因果応報とはこの事だな。ツルギ抜刀」



 独特の音を立てて装甲し、銀色の武者は本来の姿を現した。

 あの黒い武者と似通った出で立ち、されども、絶望的なまでに隔絶した完成形が其処にある。


「……それじゃ、私の復讐は、どうやって果たせば良いの……!?」

『あらゆる殺害に正義は無い。……個人的に、復讐者の悲哀は理解出来なくもないが――』


 赤錆ベガの心からの悲鳴、荒がる感情と共に大悪霊は疾駆して突進し、銀色の武者に蹴り上げられ、宙を舞う。

 あの大質量の黒い影が、反応すら出来ずに天高く打ち上げられた――!?


『人を殺すは悪鬼羅刹の所業。お前もオレも、いずれ報いを『刃』で受けなければならない――』


 慣性も何もかも無視して銀の化物は飛翔し、一瞬にして大悪霊の上空に辿り着き、踵落としを決めて叩き落とした。


 地面に叩きつけられ、クレーターが如くコンクリートが陥没した。


 


 ――体全体が軋む感覚が生じ、バーサーカーに劇的な変化が生じる。


 


 無数の人の手が生えていく。

 その手の中で、トランプを持った者が馬鹿げた破壊力をもって銀色の化物に投げ、マスケット銃を持った手が一発限りの銃弾をあらぬ方向に撃ち放ち、鉛の銃弾は魔弾となりてその弾道を歪曲させ、獲物を喰らわんと疾駆する――!


「私が、どうなろうとも、構わない。けれども、殺された彼は、何を持ってして報われる――!」



 銀色の化物は超速度をもって飛翔し、トランプを一枚残らず回避し、追跡した魔弾を片手で掴み取り、砕き捨てる。


 まだだ、まだ足りない。こんなものではない筈だ。自分の大悪霊は、まだその真価を発揮していない筈――!


「彼は、殺されるに足るだけの悪行を重ねたの? 違うッ! ただ一方的に殺された! 無意味に殺された! 『悪』に報いはあれども『善』に救いは無い! それじゃ採算が取れないじゃない……!」


 幾千の手が生え揃う黒い影に銀色の化物は空から強襲し、トランプを持つ手とマスケット銃を持つ手を木っ端微塵に蹴り砕く。


 その着地を狙って幾十に折り重なった暴力の塊である黒い腕が疾風の如く駆けたが、銀色の化物は無手で引き裂く。まるで相手になっていない……!?


「――一体、何をすれば彼に報いれるの……?」

『逆に問おう。お前が殺してきた人間は殺して良い人間だったのか?』

「……え?」


 


 ――即座に会話を拒否する。

 これを聞いては、今まで誤魔化してきた全てを正視する事になる――!


『お前が魔力供給の為に食い殺させた人間は、死ぬに足る人間だったのか? お前の復讐という大義名分で殺して良い人間だったのか?』


 


 既に復讐の相手はこの世におらず、罪科だけが残る。


 既に自分は復讐者ではなく、単なる加害者でしかない――。


 心が砕ける音が、自分の中で鳴り響いたような気がした。


 


『――最早お前は加害者であるが、犠牲者である事は変わるまい。『悪』と断ずるには哀れすぎる少女だった』


 


 銀色の化物から巨大な何かが発せられる。

 ――来る。今までとは比較にならない、文字通り必殺の一撃が――!


「少し、待ってもらえますか?」


 漆黒の翼を纏って、黒野喫茶は舞い降りた。

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