あしたのために(その54)無題
当時、世田谷区では、児童が不審者に声をかけられる事件が頻発した。男に声をかけられた、手を引っ張られ連れ去られそうになった、そんな被害が学校や警察に多数届けられていた。小学校側は集団登校を義務付けていた。
川地と沢本も、一緒に登下校をしていた。沢本は入学して同じクラスになって以来ずっと川地にべったりだった。川地は学校に行きたがらない沢本を迎えにいき、手を繋いで登校した。帰りも沢本と手を繋いで家まで送り届けるならわしとなっていた。
沢本を送り届け、川地が帰ろうとしたときだった。
「カワちん、帰り道怖くないの?」
「大丈夫だって。俺みたいな貧乏くさいやつ誘拐されるわけないじゃん」
川地は鼻をほじりながら言った。
「そんなことないよ、カワちんかっこいいからきっと誘拐されるよ!」
沢本としては「貧乏くさくなんかないよ」と言いたかったのだろう。川地は「ひど!」と指についた鼻くそを弾いた。
「放課後クラブのクリスマス会、どうする? 劇なにする?」
沢本は話を変えた。
「そんなのずっと先だろ。そもそもしないでよくね?」
「一年生のコが『ぐりとぐら』やってほしいって言ってた」
「うーん。なんかそのまんまやるのも面白くないよな」
沢本の家の前について、川地は「考えとく」と言った。
「じゃあ、また明日ね」
「おけ!」
それからしばらく、沢本は川地に会うことが叶わなかった。
川地が歌を歌いながら呑気に歩いていると、日用品店から出てきた太った男とぶつかって尻餅をついた。
「いってえ」
川地が見上げると、太った男が虚ろな目で、川地を見下ろしていた。見ているのに、なにも見ていない。川地は震えた。まさか……。
「あ、ごめんなさい」
男の足元にビニール袋が落ちていた。拾って渡そうとしたとき、なかにロープが入っているのが見えた。
川地が袋を渡しても、男は会釈もせず、そのままふらふらとよるべなく歩いていった。
「なんだあいつ」
川地はほっとして、太った男の背中を見送った。ああいうやつが最近噂の誘拐事件の犯人なんじゃないか、と目を細めた。
「きみ、大丈夫?」
川地のそばに、感じのいい笑顔を浮かべた、年上の少年が立っていた。
「あ、はい、大丈夫……」
返事をしようとしたとき、少年に頭を思い切り殴られた。そしてはがいじめにされ、口に汚れたハンカチを捻じこまれ、川地の意識は遠のいていった。
意識を失った川地を少年は引きずって、路地裏へ入っていった。
さきほど川地とぶつかった男は、背後で大変なことが起こっていることなど知らず、振り向きもしなかった。
男にはこれから、しなくてはならないことがあった。
川地を誘拐し、監禁した犯人は十七歳の少年だった。彼は学校にも行かず、勉強部屋として家の庭に建てられたプレハブに引きこもっていた。
川地が行方不明になって二日後、少年は近所のホームセンターで肉切り包丁を買おうとするところを、警察に声をかけられた。
少年は、人が死ぬ瞬間を見たかった。そして動画で撮りたかった、と言った。
誰でもよかった。
女の子はかわいそうだから、男だったら死んでもいい。子供はうるさいし、消えればいい、自分がこんなふうになったのは、家族が自分のことを理解してくれないからだ、学校のみんながいじめたからだ。男は汚いし、気持ち悪いし、暴力的だ。生きている価値なんてない。男は女より数が多いから、一人死んでも誰も悲しまない、と暗い顔で取り調べに答えていたという。
警察がプレハブに突入したとき、川地は虫の息だった。裸にされて縛り上げられ、身体のあちこちに切り傷やあざがあった。全身に打撲や骨折を起こしていた。
警察も顔をそむけるほどのむごい暴力の跡だった。背中いっぱいに何本も切り筋をつけられ、いびつな網目から流れる血は乾いていなかった。
川地はしゃべることができるようになったとき、婦人警官にこんなことを話した。
「自分をずっとなくすようにした。
痛みを感じないようにした。
考えれば考えるほど、自分のことや家族や友達が浮かんでくる。そのたび、ひとつずつ頭の中で潰していった。
今起こっていることを感じないようにした。
わかったら、痛いから。
そうしていたら、自分が真っ白な場所にいた。
もうどうでもいいやって思って、歩いていた。
遠くで声がした。
おーい、おーいって呼んでいる気がした。
懐かしいからそっちに行こうとした。
そうしたら、後ろからも声が聞こえてきた。
カワちんカワちんカワちんカワちん、って。泣き声が聞こえてきた。
振り向いたら、遠くでなにかが光っている。
たくさんの色の光が揺れていて、ぐるぐる回っていたり、やたらめったらに動いていた。
きれいだなって。
きれいすぎて、なんでだか泣きたくなって吐きそうだった。
そんなの始めてだった。
サワもんは、自分がいなかったら、一人で学校のトイレにも行けないから、サワもんのところに行ってやらなきゃなって思ったとき、なにも見えなくなった。
沢本は、毎日病院に見舞いに行った。しかし、面会することができず、看護師に毎回、「これをあげてください」とシベリアを渡した。初めて川地の家に遊びに行ったときに出してもらった、川地が一番好きな菓子だった。「カステラと羊羹が同時に食えるんだぜ?」と川地はいつだって嬉しそうに頬張っていた。
学校では、川地が誘拐されたことは伏せられていた。「ちょっと病気でおやすみしている」と教師は説明していて、沢本もなにも言わなかった。
沢本は病院へ見舞いに行く途中、そうだ、お花だ、と思いついた。お見舞いするのなら、お花も持っていったほうがいい。川地は「花なんていらねーよ」とすぐに捨ててしまうかもしれない。でも、ちょっとでも、病室の外を感じてほしい。沢本の財布には、切花を買う金はない。公園をうろつき、花を探したけれど、ない。花なんて、どこにでも咲いていると思っていたのに、いざ欲しいと思ったら、意外と見つからない。
道の先に、高校があった。
グラウンドでは学生たちが運動している。沢本は恐る恐る、散策した。すれ違う学生たちは、沢本を一瞥しても、ちょっかいをかけてこなかった。
校舎の脇に花壇をみつけた。ごめんなさい、もらいます。急ぎ気味に折ろうとしたときだ。
「なにをしているの?」
声はして振り向くと、おばあさんが沢本を見下ろしていた。
「あの、あの」
「なぜ校舎にいるの? それに、なんで花をむしっているの? お母さんはいないの?」
きつい口調で繰りだされる質問に答えることができず、沢本は「ごめんなさいごめんなさい」と肩を震わせた。
「花が欲しいの?」
「お見舞い」
「誰かにあげるの?」
沢本は頷いた。
「あなたいくつ?」
「はち、です」
おばあさんはしゃがみこみ、ポケットからハサミを取り出し、音を立てて切っていった。
「これだけあればいい?」
束にしてタオルハンカチでくるみ、おばあさんが沢本に渡した。それは即席のわりにちょっとした花束だった。
「ありがとうございます」
「くださいって言えばいくらだってあげるのに。なんでこの年頃の男の子って、もっとうまくお願いできないのかしら」
おばあさんが独り言をこぼした。「お見舞いのひと、元気になるといいわね」
花束を贈るのは、あなたはきれいなものを捧げられるのにふさわしい、大切な人だって伝えるためなのよ。
沢本が花束を持って病院へ駆けつけると、「別の病院に移った」と看護師がすまなさそうに言った。
「これ、あなたがきたらあげてって」
看護師は折りたたんだコピー用紙を沢本に渡した。
サワもんへ、と鉛筆で書かれたへたくそな文字。紙を広げると、一面に、シベリアが描かれていた。その両脇に、二本足で立っているよくわからない動物が二匹、笑っている。これでは伝わらないと思ったのか、動物の横に、「ぐり」「ぐら」と小さく書かれていた。
でっかいシベリアを作って仲間みんなと食べよう、とあった
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