あしたのために(その52)不条理と覚悟

 翌日、川地が教室に入ると、全員に笑顔で迎えられた。

「お前最高すぎ」

「やばいだろあれ」

 クラスの連中に囲まれ、川地は身に覚えのない、語彙力の足りない賞賛を捧げられた。

「へ?」

 なにをどうしてみんなが褒めてくれるのか、さっぱりわからなかった。昨日の夜稽古が、西河の都合で急に中止になったけれど、自分の知らないところでなにかあったのか?

「ただの根暗なオナ猿だとばかり思ってたが、最高だな! 俺の描いている漫画のテーマソングにしたい」

 長門は川地を見ているうちに、目を潤ませた。

「エロ漫画ばっか描いてるオナ猿はお前な。でもマジでお前凄いよ。イシハラの曲もSFっぽいし」

 岡田が自分のことを褒めるなんて、珍しい。天変地異の前触れかもしれない。

「なんのこと? イシハラ、曲できたの?」

 川地が周囲に訊ねると、

「なーにすっとぼけてんだよ〜、あの歌詞! もうなんか、ハダカになりたい〜!」

 急にシャツを脱ぎだそうとする葉山を、青山が「プールの授業まで待て」と止めた。

 どういうことだ? 川地はリュックをおろした。

「ところでサワもん知らない?」

 川地は教室を見回した。今朝、いつもだったら世田谷線の改札で待っている沢本がいなかった。

「珍しいな、一緒じゃないの?」

 高橋が不思議がった。

「ちょっとセンセーに、自作解説してもらおうぜ」

 にやにやしながら浜田が、持ちこみ禁止のアイフォンを出して、曲をかけた。

「え。え、え」

 ボカロの歌が流れた。初めて聴いたのに、歌詞に覚えがある、というか、これ、もしかして。

『チャート式青春』に書いてあった一節が、脳裏に浮かんだ。


『深夜に手紙を書いてはならない。好きな相手にはとくに。断言しよう、事故が起こる。』


 いきなり頭に血が上り、川地は意識を失い、崩れ落ちた。


 薬品の匂いがした。川地が目を開けるとそこは保健室だった。

 西河がテーブルに肘をついて手を組んでいた。

「登校して即倒れるとか、自主練のしすぎじゃないのか。それか、いちおうアドバイスしておくと、センズリの限界には挑戦するな。一日に三回までにしておけ」

「いや、さっき不条理なことが」

 川地が寝ていたベッドから起き上がった。教室でのことが、まったく理解できなかった。

「なにかあったか」

 西河は訊ねた。いきさつは理解していた。それを知っていると口にできなかった。

 生徒たちをどう丸めこむか、いま西河は決断を迫られていた。中平に操られてたまるか。

「自分で送ったんじゃないのか?」

 西河はすっとぼけた。「興奮して、勢いでイシハラに、自分で」

「なんでわざわざ人に送るんですか、え、俺、多重人格?」

「そりゃそうだよな、ないか」

 とにかくあの曲をお蔵入りにしなくては。

 西河は、混乱していて、問題解決の手立てがひらめかない。中平に逆らいたいだけなのかもしれなかった。さっき部室の四隅に、札を貼った。

「すみません」

「とりあえず、今日は早退しな」

 西河は立ち上がり、川地のリュックをベッドに置いた。

「あ、サワもん、今日学校います?」

 川地は思いだした。

「風邪で休むって、連絡があった」

 西河が去っていってから、川地は一人保健室に取り残された。窓の向こうから、学生たちの声が聞こえてきた。どこかのクラスがサッカーをやっているらしい。

 保健室で聞く、生徒たちの声は、なぜだか妙に寂しくさせる。保健室のにおいは、昔を思いだすから嫌いだ。


 廊下を歩いていると、花壇で理事長が花の手入れをしているのが見えた。川地はぼうっと眺めた。理事長が視線に気付いたのか、川地のほうを向いた。

 川地は慌てて、小さく挨拶した。

 理事長は、麦わら帽子を外して、首に巻いたタオルで汗を拭きながら近づいてきた。

「授業は?」

 窓ガラスを開け、理事長が訊ねた。

「調子が悪くて、早退します」

「そう、お大事に」

 花壇のほうへ戻りかけ、立ち止まった。「きみは将来、なにになりたいの?」

「え」

「大学を卒業して、それからどうしたいの?」

「わかりません」

「すぐよ。長い人生のなかで、モラトリアムは一瞬だけ。いまのうちになにか見つけておかないと、自分を見失うことになる」

「自分のことはわからないけれど。この高校があり続けるってことで、灯台になって、ぼくらを照らしてくれることになりませんか?」

 川地は言った。なんで自分はヲタ芸をしようとしているのか。自分が熱くなりたいから、学校を救いたいから、だけでないなにかに惹きつけられた、と感じている。

 あるとき灯台、という言葉が思い浮かんだ。それは学校だけでなく、家族や、友達や、面白い小説や、気になる女の子や、これまで生きてきて、いつ間違ったほうへ迷っていってもおかしくない、真っ暗闇みたいな人生を照らしてくれるもの。間違わずに歩むための、もしずれたとしても立ち返ることのできる、目印みたいなもの。

 理事長はグラウンドのほうを見やった。生徒たちの騒ぎ声が聞こえた。ゴールが決まったらしい。

「あなた、灯台の面倒を見るつもりもないくせに、勝手ね」

「面倒って」

 なにを言っているのかさっぱりわからなかった。

「この学校がそんなに好きなら、そのくらいの覚悟、あるんでしょうね」

 理事長は花壇に戻っていった。

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