あしたのために(その8)『チャート式青春』とはなんだ
文芸部の本棚の一番下の隅に、バインダーがあった。背表紙にマジックで『チャート式青春』と書かれている。開くと「恋愛編」「学校生活編」「家庭編」などと仕切られていた。
これまで部室にいても、手にすることはなかった。なにやら禍々しいものを感じてしまっていた。
『恋愛編』を開こうとしたときだ。
「ついにきみも文芸部の本来の仕事に着手する気になったか」
背後から声がして振り向くと、中平が立っていた。
「なんでいるんですか」
気配をまったく感じていなかった。神出鬼没である。
「まあまあ、いいから開きたまえよ」
中平にソファへ促され、川地は後悔した。
「いいかね、この『チャート式青春』は、わが文芸部員が、このイチ高での生活を正しく過ごすための手引書としてアップデートされ続けているしろものだ。虎の巻ってやつだな」
「へえ」
めくってみると、たしかにさまざまな文字でルーズリーフにびっしり書かれていた。
あるページが目に止まった。
『私立甲洋女子高校の生徒との交際の手引き』
川地はこの文字に釘付けになった。そして、いつも行きの電車で会う女の子のことが頭に浮かんだ。
「なんじゃこりゃ」
「うちの生徒は近所の女子校生との交流が昔は活発だったからね。しかし女性と隔絶した生活をしていると、異性との交際を臆病になりがちだ。よって、実践的なアドバイスをしたためているんだ」
中平が後ろから覗きこみ、偉そうに言った。
『女性というものは、男性に対して警戒心を持っているものである。たしかに我々男子は、その体内に野獣めいた欲動を抱えており、それらを抑えるべく勉学や運動、芸術活動に真剣に取り組まねばならない。女性との交際はそういった活動にたいして弊害もありーー』
「なんすか、これ」
読んでいて、いつの時代だ、と呆れた。誰が読むんだ、こんな超古代文献。
それにしてもこのずっしりとした重み。これは紙だけの重さではない。書いた連中による禍々しい怨念のせいかもしれない。捨てようものなら、お祓いしないと呪われてしまいそうだ。文字の羅列、としてだけ捉えよう。川地は流し読みすることにした。
「これは多分昭和時代のものだなあ。もう少し先の平成時代に書かれたやつまで飛ばしてもいいぞ」
『現在わが私立一高校は学力低下したことにより、名誉は地に堕ちている。現在甲洋女子の生徒たちは、イチ高生のことを見下しつつある。また教員たちもイチ高生を下半身を硬くさせた本能のまま暴れる猛獣扱いである。昨年より甲洋女子の学園祭に出入り禁止となったのは記憶に新しい』
「最悪……」
「まあ、時代の変化というものさ。質実剛健を売りにしてきたこの学校も、すっかり軟派な近所のハナ高に負けている。あっちはなんか制服もかっこよくなっちゃってさあ」
「たしかに、うちの高校の制服といったら」
昔ながらのやぼったい詰襟である。
近所にある、もう一つの男子校、私立花岡高校(通称ハナ高)は、なにやら有名デザイナーがデザインしたというブレザーだった。
「近所に男子校二つ、そして女子校一つじゃ、揉めないわけがないもんな。それにイチ高とハナ高は昔から犬猿の仲ときたもんだ。ぼくが学生の頃に、三軒茶屋中を巻きこんだ大喧嘩、俗にいう『三茶事変』があったんだ。因縁がある」
絶対最近命名したんでしょ、とつっこむ気も起きない。
あの女の子はハナ高の男と一緒にいた。あのとき心臓が突かれたみたいにびっくりした。少女漫画じゃあるまいし、ばからしい。
「で、最新版はないんですか」
あとは古びた白紙のルーズリーフばかりだった。まったく更新されていない。
「アップデートしたくてもできないんだなあ」
中平が鼻で笑った。
「どういうこと?」
思わず川地は叫んだ。
「つまり、甲洋女子の生徒とまともに交際をした輩は、ここ十数年いないということだ」
「はあ……」
「ハナ高の連中になにもかも掻っ攫われている。いまじゃあっちは『付き合ってみたい高校1位』『イケメンが多い高校1位』『文化祭に行きたい高校1位』だ」
「はあ」
ため息でしか返事ができない。
「聞きたくもないだろうが、イチ高は、ほとんどのランキングに入っていない。いうなれば完全になかったことにされている。封建的な校則、生徒たちも受け身で弱体化しちゃってるしね。しかもスマホ禁止で情弱。いいとこなし」
「ですね」
聞けば聞くほど情けなくなってくる。
「これまできみはこの部室でなにをしてきた」
中平が急に川地に矛先を向けた。
「とくになんにも」
たまに部室に寄ってみても、中平にジュースをたかられてしまうだけだった。
「この文芸部の使命をわかっちゃいないようだな」
「なんですかそれ」
「いいか、わが文芸部は、この『チャート式青春』をアップデートすることを目的としている」
初耳だった。二年の二学期に告げられても困る。
「そんなこと西河、言ってなかったですよ」
「自主的なものだからな。文芸部はきみたちが入ったとき、ちょうどメンバー全員卒業しちゃってゼロ人、このまま廃部決定のところを、きみとサワもん、コバやんと、もう一人が名前を貸したことでかろうじて部室が存続した。きっとこれに呼ばれたんだろうな」
「新入部員希望者がまったくこないから、ぼくらが卒業したら廃部じゃないですか」
「そりゃコバやんおったら誰も入らんだろ」
たしかに。三軒茶屋の狂犬と呼ばれている小林がいるから誰も近寄らない。あいつはしかも時々授業をサボって中平と一緒になってソファに寝転んでいる。部室を自分専用の休憩所にしていた。
「ちょっと待って、もう一人って?」
三人の他に部員がいる?
たしかに、文芸部は三人しかいないのになぜか存続していた。ほんとうは四人以上必要なはずだ。
「見たことないけど、たしか、嵐を呼ぶ男が。登校途中に事件にでも巻きこまれているのかねえ」
「誰すかそれ」
「石原プロ?」
川地は絶句した。
「まじすか」
「西河が担任だったから、小細工して入部させたんだ」
「それは……」
まったくやる気のない顧問だと見くびっていたが、意外と小狡い。
「これを手に取ったということは、きみもなにか悩みがあるらしい。であるのならば、ぜひこれから、後輩たちのために『チャート式青春』をアップデートしてもらおう。ルーズリーフはたくさんあるから、ね」
中平はなにも書かれていないページを指で叩いた。
「絶対やなんですけど、めんどくさい」
川地は首を振った。
「ブログ感覚でもいいぞ? 自分の想いを刻みつけることは、己を見つめるよい機会になると思うけどなあ」
「書き残したって先があるかどうかわかんないじゃないですか」
川地はバインダーを閉じた。
「この学校がなくなるって話か」
中平が喉を鳴らした。
「そうですよ、もう時間もない。運動部だっていい記録を残したって話も聞かないし。サッカー部は渡が頑張っているけど、他がたいしたことないからいまいち。もうみんな、あのルールを忘れてるし」
「でも、きみは覚えている」
「それは」
「きみだって、あのときちょっとは、なにくそって思ったんじゃないのか? 滑り止めで入りたくもなかった高校だが、まるで自分の存在を否定されたような気分になったんじゃないのか?」
川地はなにも言えなかった。
バインダーを棚に戻そうとしたとき、ディスクが一枚、床に落ちた。
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