09――入学式の朝


 今日もまた鈴の残り香で眠れないかもしれないなと思いつつ布団に入ったのだが、前日の寝不足だったのが影響したのかスマホのアラームが鳴るまでぐっすりと眠れた。


 ベッドから起き上がりグーッと伸びをして、部屋を出て寝癖を直したり顔を洗ったりして身だしなみを整える。俺ひとりだったら朝飯を食べるまでダラダラして、時間に余裕がなくなってきたら急いで一気に準備するんだろうな。でも鈴と同居しているのだから、みっともないところは見せたくない。異性、しかも自分のことを好きだと言ってくれている女の子なのだから、できればかっこいいところを見せたいじゃないか。


 部屋に戻って、あんまり生えてないけど電動のシェーバーで手早くヒゲを処理。まだ鈴が起きてこないのだが、朝飯どうしようかな。昨日夕飯の材料を買いに行った時に食パンやらサラダやらも一緒に買ってきたのだが、鈴だって食事の前に身支度を整えたいだろう。今から焼くと食パンが冷めるし固くなるだろうから先に鈴を起こした方がいいけど、部屋に入るのはちょっとためらわれる。


 昨日の告白とキスから、ちょっと俺自身の理性のブレーキが壊れかけているというか。鈴の部屋にひとりで入ったら、何かをやらかしそうで自分を信用できない。


 よくマンガなんかで出てくる『自制心をしっかりと持て』と叱る天使と、『いいじゃん、起こしに行こうぜ』と悪友のようにそそのかしてくる悪魔が頭の中で言い争っている。どうするべきかとぐるぐると考えを巡らせていると、ピンポーンと来客を知らせるチャイムが鳴った。


 こんな朝早くに誰だろうと思いつつドアを開けると、そこには真新しい制服に身を包んだ花音が立っていた。中学の頃の制服とはまた印象が違って、ちょっと大人っぽい印象を受ける。元々かわいい外見の花音なので、これは高校でも男子の人気が出るだろうなと素直に思う。ただそんな花音が俺のことを好きだと言うのだから、人生とは本当に不思議なものだ。


「おはよーっ、奏汰!」


 何が楽しいのか、キラキラと輝かんばかりの笑顔で軽く俺に抱きついてくる。ふわりと女の子のいい匂いとか柔らかさとかを感じて、一気に顔に熱が集まった。


「おまっ、急に抱きついてくるなよ!」


「だって長年抱えていた想いを伝えた翌日なんだよ、もう隠さなくてもいいんだと思ったら、すごくテンションが上がっちゃって」


 めちゃくちゃ至近距離で笑う花音に、節操がないとは自分でも思うけど心臓がドキドキと暴れる。俺がイケメンで女慣れしていればこれくらいのじゃれ合いで動揺することはないのだろうが、こっちはこれまで彼女もいなかった一般男子だ。ここまでまっすぐに思いを伝えられて、体がピタリと隙間なく触れ合っている時に落ち着くための対処方法なんか身についてないんだよ。


「それはさておき、いいところに来てくれた。悪いんだが、鈴を起こしてやってくれないか」


「ええっ、知り合ったばかりなのに私が中に入っていいのかな? 昨日の話を聞く限りでは、そういうのが嫌いで部屋に引きこもりがちだったんでしょ?」


「だとしても、俺が入って何か間違いがあった方がヤバいだろう」


 俺がそう言うと、花音がジトッとした目をこちらに向けてきた。昨日の就寝前のキスを思い出して、そっと視線を反対方向に逸らせる。


「ねぇ、奏汰。昨日私が帰ったあと、鈴ちゃんと何もなかったんだよね?」


 妙にはっきりとした滑舌でそう聞いてくる花音に、俺はただ沈黙で応えた。長い付き合いの幼なじみで、自分の気持ちを真摯に伝えてくれた女の子に嘘はつきたくない。でも本当のことを言って、入学式がある日の朝から火種を抱え込むのも大変だ。勘のいい花音はそんな俺の態度に何かを察知したのか、プクリと頬を膨らませた。


「何かイチャイチャイベントがあったんだ!? だからふたりきりにしたくなかったのに、うちのパパが大反対ですごく怒ってさぁ。ママは応援してくれたのに、パパのことだいっ嫌いになりそうだよ」


 昨日もらったメッセージに書かれていたように、おじさんが猛烈に反対したらしい。でもそれが当然の反応だと思う。あの母さんさえいれば後はどうでもいいってうちの親父でさえ、妹の美奈のことは大事に扱っているように見えるし。息子はとっとと追い出したくせにな。気持ちを完璧には理解できていないが、男親にとって娘っていう存在は大事なものなんだろう。


 目の端に涙を浮かべながら上目遣いの花音に負けて、鈴に不意打ちでおやすみのキスをされたことを白状した。それを聞いた花音は『今後私がいない時にしたイチャイチャ行為の回数だけ、私にも同じことをしてもらうからね』と言って、目を瞑って少し顎を上げる。あからさまなキス待ちの状態だけど、こんな玄関先でやることじゃない。ご近所さんに見られたら、性が乱れている高校生のレッテルを貼られてしまう。


 グイッと花音の手を取って玄関に引っ張り込みながら、そのどさくさに紛れて掠るぐらいのキスをする。朝からキスを求められるというのも気恥ずかしい。これで勘弁してほしいと思っていると、両頬を花音の手のひらで挟まれて今度は俺が不意打ちで花音の方に引き寄せられた。そしてしっかりとしたキスを2分ぐらいされて、頬の手が離される。


「……あんまり私をおざなりにすると、今度は舌入れるからね」


 幼なじみという関係の気安さからか、それとも恋する女の子の強さなのか。そんな風に凄まれて、思わずヒエッと肝が冷えた。基本的に花音には俺の考えてることは筒抜けなので、今回も恥ずかしさからの行動だとわかっているのだろう。それでもそれで良しとせずに『ちゃんとやって!』と要求を伝えてくるあたり、こいつは本当にメンタルが強い。


 俺が頷くと花音は満足そうに笑って、靴を脱いで家に上がる。そのまま軽い足音を立てて、鈴の部屋のドアをノックした。俺の部屋と同じドアなのに、どうしてそっちが鈴の部屋だとわかったのだろうか。男の俺にはよくわからない、女子同士だけが通じる何かがあったのかもしれないな。それとも匂いか? 念のために俺は自分の部屋の前でくんくんと嗅いでみたが、特に臭くはなかったのでひと安心した。


 どうやら部屋の中から返事はなかったようで、ガチャリとドアを開けると花音が鈴の部屋の中に入る。それからしばらくして中から鈴の『ひぇぇっ!?』という悲鳴が聞こえたのは、俺の聞き間違いじゃないと思う。中からバタバタと少し物音がして、再びドアが開く。そこから何やらニコニコしている花音と、胸を隠すように自分を抱きしめている鈴という対称的なふたりが現れた。


「……どんな起こし方したんだよ」


「声を掛けても揺すっても起きなかったから、別の刺激を与えただけよ」


 俺の質問に、花音は楽しげに答えて両手をワキワキとさせた。その動作だけで何が起こったのか察した俺は、この話題に触れるのはヤバいと考えて別の言葉を鈴にかける。


「鈴、おはよう。どうする? これから食パンを焼くんだけど、鈴も食べるか?」


 鈴は俺の言葉にちょっとだけ頬を赤らめたあと、コクリと頷いた。何故か花音も一緒に食べると言い出して、3人分の朝食を用意することになった。その間に鈴は髪を梳かして顔を洗い、身支度を整えて食卓の椅子に座った。ひとりだけパジャマなのが恥ずかしいのか、胸元の合わせを右手でぎゅっと握っていた。


 カーディガンでもあればいいんだがそんなものはないので、ちょっとの間だけだし空いている椅子の背に引っ掛けていた俺のパーカーを鈴の肩に掛けてやった。


「あ、ありがとう、かなた」


「ごめんな。汚れてるかもしれないけど少しの間だし、これで我慢してくれ」


 それだけ言って焼いたパンを更に載せる作業に戻ると、後ろから不機嫌そうな花音が『お優しいことで』と嫌味っぽく言ってきた。同居人を気遣うぐらい、普通のことだろうに。


 後は小さな器にそれぞれサラダを入れて、ふたりの前に並べる。ジャムとマーガリン、ドレッシングはお好みでどうぞということで塗らずにそのまま置いておいた。


 3人で雑談しながら朝食を食べてから、鈴が制服に着替えて身支度を整えるのを待つ。部屋から出てきた鈴は待たせたことを俺たちに謝るが、まだ時間に余裕もあるし十分間に合うから大丈夫だ。


「ってちょっと待て、なんで花音は俺のパーカーをブレザーの上から羽織ろうとしてるんだよ」


 俺がさっき鈴に貸したパーカーを、あろうことかブレザーの上に着ようとしている花音。いやいや、メンズ用のLサイズだから女子には大きめだけど、ブレザーの上から着るのはおかしいから。


 注意すると素直に脱いだが、何故か最後に確認するようにパーカーの臭いを嗅ぐ花音。やっぱり数日着てるからそろそろ臭ってきてるのかもしれないし、今日学校から帰ってきたら洗濯しようと決意する。


 コロコロローラーでパーカーから花音のブレザーについたホコリを取り除いた後、俺たちはやっと玄関から家の外に出ることができた。何故かその時に鈴が食卓の上に投げ置かれたパーカーを名残惜しそうに見ていたように思ったのだが、多分俺の気のせいだろうということにしてさっさとドアを閉める。


 入学式の朝だというのにこのバタバタさ加減、まるで今後の高校生活が波乱に満ちていることを予言しているかのようで、なんだかソワソワと落ち着かない気持ちになったのだった。

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