第3話 空き地の店

 トロリーバスは架線から電気を取るので、バスなのに重苦しいエンジンの音がしない。電気モーターが回る音が、軽い、一定のうなりを立て続けるだけだ。

 そのトロリーは、北京ペキンの市街地のまわりをぐるっと回って走って行く。そういう路線らしい。

 北のほうへ回ると道は狭く、軽乗用車一台が通れる程度の幅しかない。

 その道にもトロリーの架線は引いてあるらしいし、架線が引いてある以上は通れるのだ。

 たぶん、その狭い道の左右にちょっとずつはみ出しながら、トロリーバスは快走する。

 左右ぎりぎりまで家が迫っているということはなくて、狭い道でも左右に歩道が着いているので、多少ははみ出したって十分に走れるらしい。

 快走といったって、それは乗っていれば心地よいけれども、速度はたいしたことがない。たぶん、自転車を、中ぐらいよりちょっと速く漕いでいるときぐらいの速さだろう。

 道は舗装してあるが、ここまで来るとコンクリートでもなくて、石畳らしい。

 日は完全に暮れてしまって、暗い。

 灯火もほとんどない。見えるのは、トロリーのなかの照明が窓から漏れて浮かび上がる、こぢんまりしたコンクリートの建物の壁だけだ。

 そのトロリーの照明だってぼんやりしていて、何もはっきりとは見えない。

 そのコンクリートの街並みが切れた。

 オレンジ色のぎらぎらした照明がまぶしい。ナトリウム灯ではなく、そういう色の白熱電球らしい。

 それが、空き地のあちこちに灯っている。でも、空き地の全体を明るくするまでではない。

 空き地の向こうは池、というより湖らしい。

 いまは、黒く、暗く沈んで見える。その表面が波立ち、それが明かりを鈍く、たまに鋭く反射するので、そこに湖があるのがわかるだけだ。

 湖の向こうには、コンクリートではなく、茶色い煉瓦れんが造りの古い建物が並んでいる。

 その煉瓦の街はもう寝しずまっているらしく、明かりのついている窓は一つもない。

 しかし、空き地はにぎやかだ。

 空き地にはいくつも無秩序にテーブルが出してある。かなりガタの来た折りたたみテーブルだ。そこに、やはりガタの来た折りたたみ椅子を出し、そこに座って、大きいめのジョッキに入ったビールを片手に男たちが大声で語らっている。女もいたけれど、七割方は男のようだ。家族ごと、仕事仲間ごとにその粗末なテーブルを囲んでいるのだろう。

 そのテーブルと椅子の上に電線が張ってある。白熱電球はその電線に直接取りつけてあるらしい。

 空き地のいちばん向こう側、湖のへりに建っている煉瓦造りの建物が、ここの人たちに料理や酒を提供している店のようだ。屋根が何で葺いてあるかはわからない。

 トロリーはその空き地、または露天の店のすぐ横を通る。

 口のまわりに短いヒゲを伸ばし、灰色のリブニットの帽子をかぶった目の細い小父おじさんが、トロリーに乗る私に向かってジョッキを突き出した。

 乾杯しよう、と言っているようだ。

 その笑顔からすると、この小父さんには何か嬉しいことがあったらしい。そのお祝いに、ということだろう。

 私はジョッキなんか持ってないので、笑顔を見せて、手をその小父さんのジョッキに合わせるように突き出す。

 しかし、小父さんの姿は幻のように消える。

 いや、べつに小父さんが消えたわけではない。こっちはトロリーに乗っているから、トロリーが進んで、小父さんが後ろに取り残されただけだ。

 トロリーは石造りの小さな橋を渡り、さらに小夜さよけた北京の街を進んで行く。

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