第一章 悪魔にとり憑かれた子供

中延四丁目キャトルセゾン三〇四号室


 なぜあの占い師のいうことを信じたのか、よく分からないまま郁はスマホを片手に慣れない駅に降り立っていた。魔女の最寄り駅である中延駅は東急大井町線と都営浅草線が乗り入れる品川区の駅だ。二線が乗り入れているとは言え、少し離れると住宅街が広がり商店街も活発な、それでいて少し懐かしさを覚える町だった。メモに書かれた住所を飲み込んだスマホは、そのまま最短ルートで魔女の家へと案内してくれる。所要時間は八分とのこと。土曜日の昼下がりということもあって人がそこそこ流れており、地図を見ながら歩くのはなかなかに困難を極めた。


 アメリア曰く、魔女はほとんど家から出ることはないため、突然押しかけても問題はない。近々彼女が外出する予定もないと聞いている、とのことだったのでアポなしで尋ねることになった。このことも郁の足取りを重くさせる。ため息をつくことにもあきれ果て、郁はそのままぎこちない足取りで地図の導きのままに進んだ。


 辿り着いたのは魔女の根城とは思えない至って普通のアパートだった。同じ建物の一階に住んでいるであろう大学生風の男性は箒に乗るわけでもなく自転車で横を通り抜けていった。傍の一軒家に住んでいるであろう老女は箒を持っているがこれまた空を飛ぶわけでもなく、少し落ち始めた落ち葉を集めてこちらに微笑みながら会釈をしてきた。挨拶を返しながらそののどかな様子に肩透かしを食らった気持ちになった。少し古臭いアパートの階段を上がって目当ての三〇四号室の扉の前にたどり着いたが、インターホンを押しあぐね手が行き場なく漂う。緊張と怯え、そして少しの期待。そのまま諦めて帰ってしまおうかと思ったが、扉の向こうから何か音が近づいてきていた。


 キャンキャン


 小型犬のような甲高い鳴き声だ。あたりを見回しても犬の気配はなく、音の近さからもどうやらこの奥にその犬はいるらしい、すぐにその声は扉の真ん前まで来てしまい、金属製の扉にぶつかる音が聞こえた。しばらくして、人間の足音が押し寄せてきた。


「どうしたんだブルーチーズ」


 アルト声域な女性の声が聞こえたと思うと、塗りこめられているのかというほど郁が触れるのを躊躇っていた扉があっけなく開いた。そこに立っていたのは生活感しかない女だった。セミロングの黒髪は好き勝手にはねており、四角い地味な黒縁眼鏡をかけていた。何かのキャラクターが書かれた首元がよれた白いTシャツに黒いパーカー、灰色のノーブランドジャージ。足元の黒い靴下には毛玉が目立っている。


 本能的にこれは魔女ではないと郁は思った。

 一方女も怪訝な顔をして郁の方を向いている。


 何とも言えない空気の中足元でキャンとひと鳴き声が聞こえた。顔を向けると足元に一匹のポメラニアンが凛々しく立ち塞がっていた。珍しいハスキー犬のようなブルーマールカラーのポメラニアンはこちらを警戒して低い声で威嚇の唸り声をあげていた。比較的動物に好かれる方であった郁は珍しいリアクションに少しショックを受けた。

 女は郁の頭からつま先までを一周目で確認すると、大げさにため息をついて見せた。そして初対面とは思えない無遠慮な態度で、目の前の郁に対して口を開いた。


「そりゃブルーチーズが吠える訳だな。君、豊子の紹介だろう?」

「いや、あの僕は占い師のアメリアという方にあなたを紹介していただいて」

「同一人物だ、あれは本名で呼ばれることを嫌がるがね」


 女もとい魔女(仮称)は部屋の中に向き直った。やっぱり日本人だったんだ、とどうでもいいところに郁は納得していた。


「入りなさいな。ブルーチーズもいい加減あきらめなさい」


 そのままおびき寄せられるように、郁は魔女の巣へと足を踏み入れたのである。

 郁はスニーカーを脱いだ後、ちょっとした廊下を抜けてすりガラスの扉へと向いた。お目付け役のようにブルーチーズが歩き回るため、郁は踏んづけてしまわないようにゆっくりと歩く。扉を開くと何の変哲もない一人暮らしの部屋が広がっていた。大きめなテレビにはゲームのポーズ画面が映っており、向かいの木製のローテーブルを越えて小ぶりなブラウンのソファーにコントローラーが投げ出されていた。テレビの横にはモニターがおかれたデスクがあり、机の下にはゲーミングチェアに添えてデスクトップパソコンが鎮座していた。お世辞にも綺麗とは言い難く、脱ぎっぱなしのカーディガンや本、クッションが乱雑に床に落とされている。あとはブルーチーズ用のベッドやトイレ、ご飯入れなどが床に置かれている。


 彼女は郁に床のクッションあたりに座るよう促した。そして自分はソファーの後ろのもう一つの扉を開けて隣の部屋で何かを探しているみたいだ。ブルーチーズはソファーに座るとじっと郁を睨みつけているようだった。何とアウェーな空間だと、郁は指を弄びながら気を紛らわせていた。


「名前は? 豊子から何と言われてここに来た」


 尋問のような声が隣の部屋から放り込まれる。


「朝比奈郁といいます。アメ…… 豊子さんには横浜中華街で占いをしてもらって、『僕の問題を治すために自分が知る一番解決に期待が持てる人を紹介する』と。それで魔女のあなたを紹介してもらいました」

「豊子は私を何でも屋だと勘違いしているようだが」


 魔女は何かを手にしてこちらの部屋に戻ってくると、置いてあったリモコンを手に取り小さな音でゲーム音を鳴らすテレビを切った。どかりとブルーチーズに構うことなくソファーに勢いよく腰を下ろし足を組んだ。


「私は佐藤小夜。同業者や民間人向けにもの作りするちょっとしたまじない師だ」


 小夜が手に持っていたのはブロンズ製の虫眼鏡だった。僅かに曇っている手のひらほどあるレンズを、細見の柄が支えている様はやや心もとなく感じられた。ずっしりとした重量感を感じさせるそれを彼女は軽々持ち上げ、レンズ越しに郁のことを見ていた。どこぞの物語に出てくる名探偵のようだったが、その奥に広がる目には名探偵の持つ所謂好奇心と呼ばれるものは皆無に等しかった。


「気配までは感じられるが、ちゃんと対話するには私たちは正反対の環境に居すぎている」


 独り言を言いながら小夜は思案していた。その一方でブルーチーズが突然立ち上がり、隣の部屋に駆けていってしまった。子犬にはじっとしているのは辛かろうが、小夜はそんな愛犬の様子を気にかけることなく途中から日本語ではない言語で何かぶつぶつとつぶやき始めた。ありきたりな一人暮らしの部屋で繰り広げられる異様にオカルトめいた光景に、郁は困惑をしていた。小夜はレンズの向こうにしきりに何かを問いかけているようだった。郁に回答を求めているわけではなさげで、粘り強く何かからの回答を待っているらしい。


「あの……」


 耐えきれなくなり郁が声を、ある意味音を上げたが、小夜からは何の返事もない。

 しばらくして、小夜がようやく日本語を口にした。


「大まかな背景は理解した」


 郁は部屋に駆けられていたシンプルな壁掛け時計に目をやった。郁にとっては一時間以上にも思われたが、実際は十分も経っていなかったらしい。その言葉を聞いて作為的な態度なのか、ブルーチーズは何事もなかったかのように部屋に戻ってきて小夜の隣に座った。


「今のは一体?」

「さっきの言葉はアラム語という言葉だ。さすがに英語は通じないが、神の子が使っていた言語は理解をするらしい」

「はあ」


 小夜はソファーに用済みとなった虫眼鏡を投げると、大きく一つあくびをした。


「君は自分のことをどこまで知っているんだね」

「……変な力があることくらいです」


 その力によって彼の人生は大きく狂わされてしまった。そしてあの占い師曰く、そのことで郁は悲観的な未来を迎えるらしい。


「理由も何も知らないまま君はここまで過ごしてきたのか。なるほどねえ」


 小夜は足もとに落ちていた立派な装丁の分厚い本を手に取った。ボルドーの表紙に金色の箔押しで何か文字が書かれているが、古いものなのか何が書いているのか郁にははっきりとわからなかった。それほど古い本のように見受けられる。手で繰りながら、さらに言葉を続ける。まるで明日の予定の話をするかのように紡がれた言葉に郁は言葉を失った。


「君についているのはラファエルの加護を受けた天使だよ。ある意味祝福と言っていい。ラファエルは癒しを司る大天使だ。それで君には不思議な力が宿ったのだろう、人間が治癒の力を持つなんて今まで生きてきて聞いたことがない。もっとうまく立ち回ればカルト教団の教祖にでもなれただろうね。まあ、もはやそれは本物の信仰と言えなくもないが」


 そして小夜は本のあるページを開いてローテーブルの上に置いた。大きな羽を持ち、慈愛の表情を湛える天使が描かれている。手には杖を持つ四大天使の一人。ただの大学生である郁でも聞いたことのある名前だった。




 小さいころ、突然身に着いた力だった。始まりは実家にお手伝いとして来ていたばあやが料理中に切り傷を作ったときだった。本能的に使い方を知っていたのか、郁は両手でその傷を包み込むとそこに集中する。手を開くと自身へのピリリとした痛みとともに、その傷は完全にふさがっていた。驚いたばあやはすぐに飛び上がって家の主人に報告しに走った。

 思えばこの日、傷を治した時から郁の人生は分岐したといっても過言ではない。両親とは紆余曲折あり疎遠になり、唯一家族で郁を守ろうとした祖母との間には溝が生まれた。


「どうして、僕にこんな力が?」

「君に恩があると言っていた。小さいころにペガサスの幼体がこちらの世界に落ちてしまったらしい。それを助けたのが君だったそうだ」

「全く覚えがないです」

「私も見たことはないが、子犬くらいの大きさだと聞いたことがある。君の中では捨て犬を助けたくらいの印象でしかないのかもしれない」


 小夜は廊下に出ると少ししてリビングに戻ってきた。手に持たれていたのは至って普通の緑茶が入った二リットルペットボトルとコップだった。注がれた緑茶を受け取ると、郁は小さく一口手を付けてそのままテーブルに置いた。小夜は気にせず一気にお茶を煽る。そして郁に向き直ると言い放った。


「自分の身を削ってまで人を助けるというのは、敬虔でない私からするとただの呪いだと思うがね」


 郁の返答を待つことなく小夜はソファーから降りると、左手をゆっくりと郁の右頬に近づけた。見た目こそ構っていないが、小夜も身なりを整えれば相応の美人であることが分かる。狼狽しながらも、怪訝な顔をしている郁は身体を特に逸らすことなく小夜から目を逸らしていた。


「痛っ! 急に何するんですか」


 そのまま小夜は郁の右頬を思い切り抓った。頬を撫で勢いよく後ずさる。


「やっぱり右目が見えていないのか。見たところ肉体的損傷はないから、やはりこの力の後遺症だな」

「いつからそれに気づいていたんですか」

「君が玄関を開けて突っ立っていたのに、全く足元のブルーチーズに気づいている様子がなかった。普通ならあれほどすばしっこい毛玉が目に入らないことはない」


 納得した小夜は手を離すとソファーに戻った。ブルーチーズは毛玉呼ばわりされたことに納得がいかないようで、キャンとひと鳴き批判の声を上げている。ポメラニアンは犬種からよく遊びよく鳴く印象があったのに、なんと人間らしい性格だろうか。


「豊子も変な人間をよく連れてくるが、今までで最高難易度の客人だな。私たち魔女と天使たちは相性が悪すぎる。それに彼らは善意で動いているし、君から無理やり引きはがすこともできやしないだろう。それに、君自身の問題もある」


 首をがしがしと回しながら小夜は言った。ジャージのポケットからスマホを取り出すと、タップをし始めた。とても魔女には適しないアイテムだが、小夜はすごい速さでフリックをしていた。


「何しているんですか」

「豊子にクレームだよ。長く生きてきたけれども、こうも情報伝達が早くなるとはまるで想像していなかったね。魔術にも匹敵する素晴らしい技術と文化だ。昔話はしたくはないが、郵便ができたときにこれで頭打ちだと思っていたよ」

「いや貴女、いったい何歳なんですか」

「女性に年齢を聞くなどナンセンスだろう」


 スマホを投げ出すと、小夜は郁に告げた。


「短期バイトだ、それで前払いとしよう。私は君がこの力との向き合い方を探してやる。それまではうちで手伝いをするがいい。仕事ができたら私から連絡しよう」

「そんな勝手に決めないでくださいよ!」


 決定事項だと言わんばかりに小夜はテレビの電源をつけ、あろうことかポーズ中のゲームを再開した。郁はあっけに取られていたが、対話の意思がない小夜に観念した。

 ただこの力のことを見抜いたのは豊子と小夜だけだ。それに〝郁自身の問題〟。郁には思い当たる節があった。

 彼女はそれを見定めようとしている。


「チッ」


 思わぬトラップに画面の中のキャラクターが倒れ、小夜は舌打ちをした。


 ……おそらく、見定めようとしているのだろう、たぶん。


「で、何をすればいいんですか?」

「とりあえず昼御飯」


 小夜はノールックで廊下の方を指さした。一抹の不安を抱えながら廊下に出る。半分開いているドアの奥がキッチンだった。

 この人をどこまで信じていいのか、さっぱり分からなかった。ただ堂々と「力との向き合い方を探してやる」と言い切ったのは小夜が初めてだった。これまでこの力を畏怖し、利用しようとする人はいれど、郁自身がこの大きな力を受け入れることを助けようとした人は誰一人いなかった。


 もうずっと誰も信じずに生きてきたのだから魔女に魂を売ってもいいのではないか。 


 本当にこの人間は魔女なのか、詐欺師なのかもしれないが、少しは試してもいいと郁は思った。


 すっからかんの冷蔵庫を見た途端、その決断を少し後悔することになったが。

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