三章 迷走・螢

「あっ」

「どうした、螢」

「いえ、なんでもありません。すみません教授」

「全く、講義中に寝るんじゃないぞ」

「はい」

講義室中のみんなが笑った。

恥ずかしくなって、窓の外を見る。

大きな雲が空の半分を覆っている。

なにか夢を見た気がする。

長い長い夢だった気がする。

机に向き直り、自分の字を見た。

数学の公式が並べられてある。

意味もよくわからないのに書いていたやつだ。

この際だ。講義もわからないし、公式の意味を考えてみよう。

そう思ったとき、終業の鐘が鳴った。

机から立って深呼吸をした。窓の外の雲は半分に分かれていた。

左手に、荷物を持った。

「ねえ、持ってあげようか」

「...誰だっけ」

「もう、酷いなあ螢さんは。凪だよ凪」

「あ、思い出した。あのときの食堂の子」

「そうそう。ぶつかっちゃって大変なことになったよね。だって君...」

「ん?どうかしたの?」

「いや、何でもない。貸して。持つよ」

「あ、ありがとう」

そう言って荷物を渡そうとしたとき、私はとんでもないことに気がついた。

右腕の、肘から先がない。

「あれ?」

「ん?どうかしたの?螢さん」

「私の右腕って、こんなんだっけ」

「...」

「どうしたの?凪さん」

凪は下を向いたまま何も答えなかった。

「完全にこの世界に入っちゃえばよかったのに」

凪はそう言って指を鳴らした。

その瞬間、私は誰かに後ろから殴られたような痛みを覚え、そのまま気を失ってしまった。

次に目が覚めたとき、私は狭い和室のような部屋布団の上に寝ていた。

起き上がろうと手をつこうとすると、右腕だけがなく布団に倒れてしまった。

それと同時に今まで感じたことのないような痛みが私を襲った。

激痛で声も出ずに悶えていると、誰かが部屋の中に入ってきた。私と目が合うなり急いで部屋を出て薬のような何かを持ってきた。

「飲みな」

男の人の声だった。

それがなにかも確認せずにもらった何かを飲んだ。

苦くて吐き出しそうだったが、飲み込むとすぐに痛みが消えた。大きく深呼吸して、何かを渡してくれた人に向き直って初めて先程までの記憶を取り戻した。

「俺の名は、大八州 剛也(たかや)だ。詳しいことは向かいの部屋にいるあいつに聞いてくれ。じゃあ、俺はでかけてくる」

私が色々聞きたいことを聞く前に、自分のことだけ言って出ていってしまった。

小さくため息を付いて起き上がり、剛也という人が教えてくれた、向かいの部屋にいる人を探しにいった。

襖を開け、向かいの部屋の扉を開けようとしたときガチャリという音とともに重い扉が開き出てきた人と目があった。

「あら」

きれいで優しそうな人だった。

全身から若々しさがにじみ出ており、本当にきれいという他ないような女性だった。

「あの、貴女は?」

「ああ、おいら?おいらは、えっと旧姓でええか?」

方言混じりで女性が聞いてきた。

「はい」

私がそう言い終わる前に女性は話しだした。

「おいらの名前は荒川(あらかわ) 須江(すえ)や。今は大八州 須江やけどな。あんたは?」

「私は、香宮 螢です。」

「はぇー変わった名前してはんな。虫の名前か、やっぱ東京やからか?」

須江さんは、目を輝かせながら聞いてきた。

純粋さのあふれる目を見ているうちにふふっと吹き出してしまった。

つられて須江さんも、あんたなに笑(わろ)てんの、と言って一緒に笑っていた。

いくつか年上に見える須江さんとはなかなか気が合うようだ。

「あの、よろしければご年齢を教えていただいてもよろしいですか?」

「ああ、おいらは確か、死んだときが、二十八やったな。そんで、あんた、これ聞いたらあんたも応えんのが義理っちゅうもんちゃうか」

「私は二十です。今ここには見学みたいな形でいるので、すぐ出ていってしまうと思います」

私がそう言うと須江さんは、私の方を痛いくらい強くつかんで、

「あんた、ここで死んだらあかん。あかんで。自殺があかん言うてるわけやない。見学っちゅうことはあの女に連れられてきたんやろ。あいつはあかん。死神みたいなもんや。ノコノコついて行ったら食われてしまうで」

「え。そ、そうなんですか?でもあの人は私を開放するって言いましたよ」

「それは魂を開放するんや。あんた自身を肉体から開放するんちゃう。あの女はしぶとい。時期にここにも来るやろ。ほら、ここ」 

須江さんは、私の寝ていた和室の畳を一枚めくり上げると、地下へと続く長い階段が現れた。

「ここから一番奥の部屋にある、箱持っといて。持ってるだけで戻ってこんでええからな。でも絶対に開けたらあかんで。分かったな」

「はい」

「よし、じゃあ行ってこい」

私は須江さんの言葉に従って階段を下りだした。

階段を下りだして五分ぐらい経ったとき、須江さんの言っていた部屋の扉が見えた。

扉は御札のようなもので厳重に護られていた。

恐る恐る扉を開けると、部屋の中は電灯もないのに赤い光とジメジメした空気が充満していた。

その部屋の中にあった一つの机の上に、十センチ四方の箱があった。

箱の表面にはベトベトした何かがついていた。

勇気を出して箱に触ると、箱から黒い光が出て、目がくらんだ。

次の瞬間、私はかつてあった懐かしい日々に戻っていた。

真っ白な布団、整理された棚。西洋式の部屋に飾られた、小さな花瓶。花は差していない。

何もかも覚えている。大学の時とは違う。そして、腕もある。

日付を確認し、椅子に座った。十二月二十四日だった。

その時、誰かが家の扉を叩いた。私は玄関に向かい誰なのかも確認せずに扉を開けた。差し込む太陽の光が眩しい。姿が見えるよりも先に、彼女は口を開いた。

「あ、螢ちゃん!もう、遅いよ。一緒に遊ぶって言ったでしょ!」

懐かしい声、誰だっけ。

ああ、そうだった。この子は、凪っていう子だ。

いつの日が忘れたけど、大学の食堂でぶつかって。お互い汚れたことをきっかけに仲良くなった、私の唯一の親友。

彼女は、今日、

死ぬ。

私をかばって、通り魔に刺され、私の腕の中で冷たくなってゆく彼女は私にある言葉を託して、息を引き取る。そんな未来がわかっていながら今日、私は彼女の言葉通りに行動し、何をする?

別の道を通ることもできるが、どんな危険があるかはわからない。

あえてあの日と同じ道で行き、私が死ねば、彼女は生きることができる。あの通り魔は私を殺そうとしていたみたいだし。

「螢ちゃん、何考えてるの?すごく怖い顔してるよ」

凪の言葉にはっと我に返った。

「ごめん、何でもないよ。さ、行こうよ」

彼女の横を通り過ぎて、あの日のことを思い出しながら家を出た。

そんなとき、一つの疑問が私の頭をよぎった。

代わりに私が死ぬとすれば、彼女は私と同じ運命をたどるのだろうか。

前の世界では、凪が死んだあと、周りから可哀想だと言われ、忘れたくても忘れられず、だんだん彼女を失った悲しみが消えていった。

そうすると今度は周りから寄ってたかって薄情者と罵られ石を投げられる。

そこで私は人間に嫌気が差して、死にたいと切に願った。

そんなときにあの人が現れた。

最初はその奇怪な見た目にたじろいたが、少し話すと喜んで一枚の切符を渡してくれた。

それが黄泉の国へゆくための切符だった。

黄泉の国へゆくときの道中で、大八州さんと出会った。

彼は人間にはない特別な雰囲気を醸し出していて、すぐに同じところへ行く人だとわかった。

ただ少し、ほんの少し気になるところがあるとするのなら、彼の服装は一昔前のような感じだった。

今の若い男の人はみんな揃って西洋の服を着ようとするのに、彼だけはまだ和服を着ていた。

そういう意味でも彼は異彩を放っていたのだ。

しかしそれよりも驚いたことが、おんなじ大学に通っていた、狼騎だった。

あいつは私にほとんど話したこともないのにもかかわらず、異常なほどに執着してきた。何度振り払おうとしても振りほどけない重く、まとわりついてくる『鎖』のような存在だった。

そして、凪が死んでからは、すり減った私の精神に追い打ちをかけるように私に執着してきた。

殺してしまおうと思ったほどだ。

そんな彼が死にたいと思うほど追い詰められたことなどあったのだろうか。

そんな事を考えていると、あの場所にたどり着いた。

予想が正しければ、通り魔は後ろから黒い服を来てついてきているはずだ。

私の前をゆき、上機嫌な凪に小さくごめんねと呟いた。

後ろを向くと、あの通り魔と目があった。近い。

恐怖が全身を駆け巡る。心臓の鼓動が早くなった。全身から汗がにじみ出る。

通り魔は、私と目が合うと、慌てて、ナイフをどこからか取り出し、大声を上げながら走ってきた。

凪は、あのときと同じように私を突き飛ばそうとしたが、私はそれを躱して通り魔のナイフを腹部に受けた。

ズキンと強い痛みが走ると同時に、通り魔は走ってその場から逃げ去った。

そう、これでいい。これで、凪は死なずにすむ。

痛みに顔を歪め、凪の無事を確認した。

彼女は、私を抱きかかえ必死に呼びかけた。

「いや、死んじゃ嫌だよ!螢ちゃん!返事をして!すぐに助けが来るから!ね、大丈夫だから」

「もういいんだよ。凪さん。これでいい。でも、一つお願いがあるからよく聞いてね。」

凪の涙が私の頬にこぼれ落ち、小さく凪がうなずいた。

「じゃあ、言うよ。私が死んだらきっと凪さんにはたくさんの苦難が襲いかかるでしょう。でも、くじけないで。絶対に自殺なんてしちゃだめだから。死にたいと思ったら、この言葉を思い出してね。」

「螢ちゃん、死ぬなんて、死ぬなんて言わないでよ!もっと一緒に勉強して、遊んで、美味しいもの食べて、お買い物もして、もっと一緒にいたかった!私の親友がこんなことになるなんてひどすぎるよ。報われなさすぎるよ!だからきっと助かる、大丈夫だから、ね。だから死ぬなんて言わないでよ。私を一人にしないでよ!」

ごめんね。

そう呟こうと思っても、もう口が動かない。浅い呼吸も、もう止まりかけてる。

指先が冷たい。もうだめなんだ。なら、最後に少しでも。

「わ...たしは、あな...たをすくえ...だけで..よか...た...」

最後の一息だ。もう目は見えない。顔を伝う凪の涙の感覚も薄れてきている。

「ありがとう」

かすれながら言えたその最後の言葉をあとに私の意識は完全になくなった。




しばらくなのか、一瞬なのかわからないが、私は目を覚ました。

何もない真っ白な空間。

ただ、その真ん中に、大きな黒い扉が佇んでいた。

扉に向かって移動すると、勝手に扉が開いた。

入っていいのか分からずにいると、一人の小さな女の子が現れた。

あのとき、私と大八州さんを案内してくれた子だ。

「お疲れ様。あなたがこの門をくぐれば、あなたの魂は浄化され、凪というあなたが救った女性は救われ、あなたは新しい生を受けることができます。反対に、黄泉の国へ戻るのなら、あなたの魂は黄泉の国に存在したままになり、凪というあなたがせっかく救った女性の命は消えてしまいます。さあ、どちらを選びますか」

私は、一つ聞いた。

「私が前者を選んだ場合、彼女はどうなるのですか?」

「その場合、彼女はあなたの死後、幸せな人生を送ります」

私はニッコリと笑い

「じゃあ、くぐります。もし生きたいと願う彼に出会えたらこう伝えておいてください。」

私は少女に遺言を伝えたあと少女にもう一つ聞いた。

「魂の浄化って痛かったりするんですか?」

すると少女は腑抜けた声を出し、少し笑ってから、こう言った。

「いえ、全然痛くなんかありませんよ。眠くなってそれで終わりです」

「そうなんですね。ありがとう」

大きく息を吸って門をくぐった。足場があるのかわからない。多分、重力がないんだろう。

門が後ろで閉じる音がした。

真っ暗な世界で視界がにじむ。意識が遠のく。

ああ、これが終わりか。あっけなかったな。

私の人生は幸せな一生になったのかな。まあこれでいいか。これでいいんだ。

そう思っていたほうが幸せだし、何よりまた新しい生を受けれるんだ。来世は頑張ろう。

眠気が一気に襲ってきた。思考がまとまらない。体が解けてゆく感じだ。心地良い。

大きく息を吐いてから最期にこう呟いた。

さようなら、螢(わたし)。

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