雨の日の川辺にて

氷柱木マキ

雨の日の川辺にて

 雨の日は、いつもこの川に来る。家からそう遠くなく、あまり人気がないのがよい。たいして大きな川でもなく、別段眺めがよいわけでもないので、天気に関わらずあまり人が寄り付かない。

 傘を差して歩いてくると、たいていはぽつんと一本だけ生えている大きな樹の下に座る。まったく濡れないわけではないが、ここでよい。少し離れたところに橋があり、その下ならばまったく濡れる心配はないのだが、以前そこで路上生活者と思われる男性と鉢合わせたことがあるので、甘んじて樹の下を定位置にさせてもらっている。

 特別何かをするわけでもない。座って普段より若干勢いの増した川の流れを見ているだけで、日常のいろいろなことを忘れられて落ち着くのだ。

 今日も昼過ぎくらいにやってきて、暗くなる前には帰ろうと思っていた。堤防の道には、ぽつりぽつりと帰宅する学生の姿が。

 そろそろ帰ろうか、腰を上げかけたのだが、ふと気になるものが目に入った。

 いつからいたのか、川のすぐ近くに女性が立っていた。見たところ近くの高校の制服のようだ。左手に鞄を下げているが、傘は差しておらず、長い黒髪も濡れていないところがない。

 微動だにしないその背中を、右後方から眺めていたが、さほど強い雨ではないとはいえ、さすがに普通ではない雰囲気を感じ、樹に立て掛けていたビニール傘を手にしながら立ち上がった。

 傘を開いてゆっくりと近づく。あまり近づきすぎるのもどうかと思い、ちょうど川と平行になる位置で少し離れて立ち止まる。こちらに気付いているのかいないのか、変わらず川を見つめているように見える。

「あ~……君、大丈夫か」 

 たまらず声を掛けたものの、我ながら何の捻りもない。彼女はちらりとこちらに目をやると、すぐにまた目線を川の方に戻した。

「あ~……、大丈夫ならいいんだけど、あまりそうは見えないからさ。とりあえずあまり濡れないほうがいいんじゃないかなぁ」

 なんとも歯切れの悪いセリフだ。世の大人たちはこんな時どんな言葉を掛けるものなのか。

「傘がないならあげようか。僕はどうせ近くだから走って帰ればいいし」

 思いつくまま話し掛けているのだが、聞いているのかいないのか、反応がない。正直もう話し掛けたことを後悔し始めているのだが、そうは言ってもこのまま放っておくわけにもいかない。

「……気にしないでください」

 さてどうしたものかと考えを巡らせていたところに、消え入るような声が聞こえた。声の主を見ると、先程までと何ら変わらぬ体勢の彼女がいた。それきり何の言葉もなく、先程聞こえた声も気のせいだったのではないかと思い始めた頃、再び口を開いた。

「放っておいてください。大丈夫ですから」

 正直ほっとした。とりあえず最低限の役目は果たしたと思った、のだが。

「……なんなんですか」

 彼女の冷たい反応をよそに、傘の下に彼女を入れていた。お陰でようやく彼女の顔をちゃんと見ることができた。こんなことを言えば嫌がられそうなので言わないが。

「いいから早く帰りなよ。こんなところで雨に打たれててなんになるんだよ」

 と言ってから、はたと思い直した。

「……もしかして、帰るところがない、とかそういうやつだったりします?」

 何故か敬語になる。

「別に……そうじゃないですけど」

 再びほっと息をついた。十分考えられることだ。よく考えたらむやみに人の事情もわからずに口を出すのも間違っている気がしてきた。でも、だからと言ってやはりこのままにするわけにもいかない。

「もし家に帰れない、とか。家庭の事情とか。そういうのじゃなければ、帰った方がいいよ。帰りたくない理由があるんだとしたら……、どうしようかな」

 自分が見ていられないから声を掛けたものの、別に自分は何の力もない一般人なわけで。何ができるわけでもない。これ以上どうしたらよいのだろうか。

「……別に、そういうのじゃないです」

 それまで頑なに川面を見ていた彼女が、こちらを向いた。向き合う態勢になると、同じ傘に入っている距離感を再認識して、少し後ずさりしてしまった。

「ちょっと……学校で嫌なことがあっただけです」

 改めて彼女の姿を見てみると、雨で濡れて分かりづらいが、制服のところどころが汚れているように見えた。

「そうか。まぁ学生時代はいろいろあるよね。僕だってそれなりにいろいろあったけど、こうして元気に生きてるからさ。何があったかは知らないけれど、あまり思いつめないほうがいいよ」

 こんな見ず知らずのおじさんに言われても、なんとも思わないだろうけどな。

「……こんな時間にこんなところで、あなたは何をしてるんですか」

「あ~……、いやまあ特に何も」

 思いがけない問いかけに、言葉が詰まる。そんな姿を見て、彼女は訝しげな顔でこちらを凝視してきた。

「……何されてる方なんですか」

「ん~……まぁ今はぶっちゃけ何もしてない。ありていに言えば、無職かな」

「はぁ」

 彼女の目線が若干興味深そうなものに変わった。

「無職のおじさんが学生にアドバイスですか」

「うわ~、自分で言うのはいいけど、人に言われるとキツいな」

「無職がですか、それともおじさん?」

「両方だよ」

 確かに自分で名乗った通り無職だし、年齢もまぁ世間的にはおじさんの年齢ではあるのだけれど。

「まぁその無職のおじさんでも能天気に生きてるんだから、君もあまり気にしすぎないほうがいいよ」

「……おじさんは、いえあなたはどうして働いてないんですか」

「あ~……まぁ、たいした理由もないけどね。働くのが嫌になってしまっただけで」

「でもそれじゃあ生活できないでしょう」

「まぁね。働いてた時の少ない貯金を切り崩して、あとは持ってるゲームやらなんやらを売ったりしてね。まぁなんとか生きてるよ」

「……大変そうですね」

 彼女は何かいろいろ言いかけて、全部飲み込んでそれだけ言ったように見えた。

「まぁこんな生活長くはもたないだろうけどね。ギリギリいけるところまでやってみるよ。こんなおじさんと比べたら、君の方がマシだと思わないか」

「……そうかもしれませんね」

 そういう彼女の顔が先程までより明るく見えたのは、いつの間にか降りやんでいた雨雲から、夕陽が差してきていたからだろうか。

「とりあえず雨がやんだから大丈夫かな。あの夕陽なら、明日は晴れそうだ」

 傘を閉じながら、帰路につくことにした。少し歩いたところで、背中から声を掛けられた。

「あの、なんか、ありがとうございました」

「うん、風邪ひかないようにね」

 振り返って手を振ると、彼女も胸元で小さく手を振った。帰り道、夕飯に何か買って帰ろうか。そんなことを思いながら、今日も今日とて、なんでもない一日を終えるため、家路を行くのだった。

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雨の日の川辺にて 氷柱木マキ @tsuraragimaki

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