28. アラスカのオーロラみたい

「片瀬」

「……」


 彼女は振り向かない。

 だが、俺は構わず言った。


「もう、目の前まで来てるから。あと一つ、気になっているピースが当てはまれば、なんだ。……そのために、全てをかけて準備した」

「……」


 やはり片瀬は背中を向けたまま、後ろ髪をわずかに夜風に揺らすだけだ。

 俺は腹に力を込め、決意を口にする。


「だから明日、俺は片瀬に勝つ。俺の『日常』と、片瀬の『日常』には隔てがあるかもしれない。だけどそれは、何とかできるはずだから」


 俺は改めて思う。

 『考えて、反応する俺』と、『反応するだけの片瀬』。

 時間が1フレーム、0.016秒で区切られる格闘ゲームにおいて、それは純然たる差として現れるだろう。

 けど、それを理由に諦めたら、きっと俺は一生彼女に追い付けない。

 その0.016秒を超えてこそ、答えは意味を持つから。

 最後に俺は敢えて口調に余裕を覗かせながら、告げた。


「以前言った通り、その手段も考えてあるから、問題はない」


 片瀬の声が少し、柔らかくなる。


「……あるの? どうにかする方法」

「もちろん。俺がそういう嫌がらせじみたことで、嘘を吐いたことがあったか?」


 彼女は背中越しに、「くすっ」と笑う。


「そうだね。そういう姑息なの、史也っぽい」

「言葉を選べ、言葉を。柔軟なんだ」

「ヘリクツだと思うなあ」


 その口調から陰りが薄まっているのを俺は感じ取り、少しだけ安心して、再び歩き出す。

 相変わらず片瀬の少し後ろではあるが、以前より大分、縮まっている実感はある。

 だから、この感覚を大事にして明日へ臨むのがベストだ。

 そして家路への分かれ道、俺は軽く手を振り、右へ曲がったのだが、その背で、「あ」という声が響いた。

 振り向くと片瀬が右手を伸ばし、中途半端に身体を折った状態で、目を瞬かせている。


「?」


 首を傾げそうになったが、片瀬は伸ばしていた腕を引っ込め、手の平を見つめて苦い笑みを浮かべて見せるだけだ。

 そして、俺はようやく気付く。

 伸ばした片瀬の右手のあった場所、苦い表情の中に浮かぶ戸惑いの意味。

 彼女は目を伏せ、トーンの落ちた、しかしほのかな熱の帯びる口調で言った。


「あー……。ううん、ごめん。ちょっと、手を繋ぎたいかも……って」

「え?」


 片瀬は視線を逸らし、右手で左腕の肘を撫でながら、続ける。


「最後だし一度くらい、いいかなー……だったんだけど」


 その言葉は尻すぼみで気まずそうだが、何かを期待しているような声音も秘められていた。

 俺は、ひと際高く心臓の鼓動が高鳴り、全身がぴりっとした熱を持ったことを自覚する。

 きっと、今なら触れられる……と思う。

 彼女はそれを拒まないだろう、とも。

 だが俺は下唇を噛んで、首を左右に振るだけだ。


「そっ……か。ごめん、変だったね。急に」


 歯切れの悪い片瀬の口調は寂しそうで、俺は心に痛切な感情を覚えながらも、正直な言葉を告げた。


「変ってことは、ないよ。俺も……、そういう気持ちになることはあったから、ここ最近」

「え?」


 片瀬は珍しく驚いた表情を隠さないまま、顔を上げる。


「学校で話したり出掛けたりして、それなりの時間を一緒に過ごしたと思う。……その中で、そういう衝動は何度かあったから」

「……じゃあ」


 ぴくっ、と指先を動かし、何かを言いかけた彼女へ、俺は言葉を被せて続けた。


「でも……、俺はまだ片瀬を見つけていないから、それはできない。……ちゃんと傍にいたいから、順番は守りたいんだ」


 俺の返答を聞いた片瀬は、口元にもどかしさを滲ませて息を飲む。

 怯みそうになる心を奮い立たせ、俺は片瀬の目を見て答えた。


「だから、待っていて欲しい。明日の勝負に勝って、必ず答えを出すから」


 彼女は星のきらめく夜空を仰いで目を閉じ、大きく息を吸って、吐く。


「明日なのに……」

「?」


 そして顔に浮かんでいたのは、さっきとは違う意味の清々しさを湛えた、優しい苦笑だ。


「待つとなると、長いなあ。『見えない』し、当日のお楽しみってこと……なのかな?」

「……ごめん。もっと、力があったらいいのにって思ってる。いつも」


 俺の返答に片瀬は、「くすっ」と笑い、自身の指先を絡ませた。


「いいじゃん、アラスカのオーロラみたいで」

「な、なんだ、それ?」

「見たい時に、見られない。……そして、その時が来たら、人生が変わる」


 俺は身体の熱が更に高まるのを実感しつつ、両手を振りながら、全力で突っ込む。


「や、やめろって! そういうハードルの上げ方!」

「あ」

「え?」


 片瀬は一度、きょとんとした後、なんでもないことのように言った。


「一生に一度しか見られない、の方がよかった?」

「だからやめろっての! リラックスするために散歩してたのに!」


 俺のリアクションを見る彼女の口調は少し、得意げで悪戯っぽい。


「戦術だよ、これも」

「勘弁してくれ……」


 俺は肩を落とし、それを眺めていた片瀬はやがて、自身の帰路へローファーの靴先を向けた。

 そして最後、髪先を揺らしながら背中越しに、一つの言葉を残して行く。


「でも、そのていどには私も、盛り上がってるから」


 そして一度だけ手を振り、姿を消した。

 俺は言い返すこともできず、ただその場に立ち尽くす。


「あー……。なんだ、この胸が苦しい感じ……。これ、どうすりゃいいんだ……?」


 そう呟き、頭を抱えてしまったのだが、同時にモチベーションがこれ以上なく高まっているのも自覚してしまう。

 夜空を見上げれば冴え冴えとした月と星々が、明日の決戦へ挑む俺を導くように瞬いていた。

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