27. 一歩、踏み出しそうになるけれど
「史也?」
最後の勝負を明日に控えた、六月十九日の土曜日。
暮れなずむ夕日の赤と、夜闇の青のグラデーションが空に滲む時刻に、公園を散歩していた俺へ声をかける人物がいた。
「……片瀬?」
俺はワイヤレスイヤホンを外しながら、その人影へ振り返る。
休日なのに彼女はなぜか制服姿で、ショルダーバッグも持たず、手ぶらだ。
「どうしたの? 勝負、明日なのに」
片瀬は不思議そうな表情で、俺に聞いて来た。
確かに勝負は明日の正午過ぎ、この公園の東屋でという約束になっている。
多分、最後の追い込みをやっていると想像していたんだろうなと思い、俺は首を横に振った。
「もうやることは済ませたから。……そっちこそ、どうしたんだ? 制服だけど」
「うん。呼び出された」
「……まさか」
やや引き気味のリアクションを見せた俺へ、片瀬はため息交じりに、それを否定する。
「補導じゃないよ。普通にいろんな提出物とか溜めてたら、いい加減にしろって」
「先生が?」
「……と、お母さんが。お父さんの戸棚みたいに汚くなってきたから、出しに行けって」
俺は思わず頭を抱えてしまう。
「個人的には親父さんの味方をしたいなあ……。汚いって言わなくても」
「まー、散らばってたのは事実だから、いろいろ。いい機会だったんだよ。……で、そっちこそ、いいの? 散歩してたっぽいけど」
俺は身体の力を抜き、青みの増してきた空を見上げ、「ふー」と息を吐いてから答えた。
「……大一番を前にどう過ごすのかは、人それぞれだから。征士なんかは、とにかくいつでも身体を動かしていたいタイプ」
片瀬は俺の隣に並んで、公園を歩き始める。
公園と一言でくくると乱暴だが、実際はとても広く、野球場、サッカー場、テニスコートなどロケーションは様々だ。
今いる場所も例の東屋とは反対側に位置しており、多くの児童向け遊具が設置されているが、時間も時間だから人影は少ない。
「動かしたいって……。疲れないの?」
「征士は消費も回復も桁違いに早いから、大丈夫。強度の高いトレーニングをすれば、必ず効果が出るし、そこは身体能力に恵まれてたってことなんだろうな」
「小絵ちゃんは?」
「アイツは結構、塞ぎ込む。プレッシャーに弱いから」
片瀬は目を、ぱちくりとさせる。
「へえ、意外。お菓子食べて、笑ってそうなイメージ」
「表面上、そうしてることはある。でも、内心で冷や汗流してるなら、素直に落ち込んだ方がいいとは言ってる。ネットの生放送もやるけど、緊張してトークがガタガタになってるからアーカイブ残さないし」
「……ちょっと、見たいかも」
俺は少し悪戯っぽく笑って、答えた。
「時々、告知なしのゲリラ放送みたいなことはやってる。荒らしにならないていどのコメントなら、書いて見てもいいかもな?」
その言葉に片瀬は、「くすっ」と小さく笑う。
「えー、どうだろ? 小絵ちゃん、怒ると怖そうだし。……でも、そうだね、牧村君も闘争心が強そうだから、動きたいっていうのは納得かも」
「……?」
その発言に、今度は俺の方が少し驚いてしまった。
「それはそうだけど。……片瀬、そんなにあの二人と話してたっけ?」
最低限の関わりがあるていどと感じていたので、彼女の発言は意外だった。
片瀬は、「あー……、まあ」と曖昧な声を漏らし、視界の端にあった自動販売機を指差した。
俺も喉が乾いていたので移動し、ウーロン茶のボタンを押す。
片瀬はいつも通りのブルーマウンテンだったが、それを口へ運ぶ表情は苦い。
「相変わらずマズくはないけど、美味しくもないって顔だな……?」
「うん。口に合うだけ」
「いっそ、カフェインが欲しいだけとか」
「どちらかというと、飲み過ぎると頭痛がする」
「ほんとになんで飲んでるんだ……?」
混乱する俺に彼女は、「なんでだろうね?」と苦笑するだけだ。
だが淡々と缶コーヒーを飲み、ただぼんやりしている様子を見ていると、強く咎める気にもなれなかったので、俺もウーロン茶を口へ運ぶ。
そして会話が途切れたまま、俺達は公園を歩く。
春先、片瀬とここへ来てから大分、その光景は変わったように思う。
背の低かった植物は茎を伸ばして育ち、夏の開花を想像させた。
地域柄、冬から春にかけて自然の色合いは薄めなのだが、その濃淡と共に彼女の心にも変化はあったのだろうか、とも。
「目に見える変化と言ったら……衣替えていど?」
俺の呟きに、片瀬は静かに目を細めて答えた。
「えー。史也には、私ってあまり変わってないように見えるんだ?」
「……じゃあ、何か思うところがあった?」
彼女は手の平で缶コーヒーをもてあそびながら、その小さな唇から言葉を紡ぐ。
「牧村君や小絵ちゃんと話していて、思ったんだ。……私のしたことは、私が思っていた以上に影響があって、みんなを変化させたのかもしれないって」
「変化って、どういう意味だ?」
「んー……」
俺の問いに、片瀬は曖昧な声を返すだけだ。
そして、そのまま街路の隅、『ジャック・ボックス』を終えた時、立っていた池へ向かう。
少しの間、桜の枝を見つめた後、彼女はゆっくりと話し出した。
「改めて気付いたんだ。……私の『日常』は、やっぱりズレてたんだって。小絵ちゃんの時間、牧村君の時間、史也の時間。それらはちゃんと流れてたのに、私は立ち止まったまま、ずっと一人ぼっちだった」
そう呟く彼女の背中は小さくて頼りない。
今にも消えそうに感じられ、俺は一歩、踏み出しそうになってしまう。
けど、それはまだと必死に言い聞かせ、踏みとどまる。
やがて片瀬は淡い息を一度吐いて、振り返った。
その表情には希望と諦めが滲み、穏やかなようで、どこか不安を掻き立てる脆さがあった。
「ごめん、変なこと言ったね。勝負前なのに」
そして街路へ戻り、公園の出口を指差した。
「帰ろっか」
彼女は淡々と言って歩き出し、最初の一歩が遅れてしまった俺は、開いた距離を意識しながら、その背中を追う。
出会った頃は、その後ろ髪と背中を見つめることしかできなかった。
でも今は違うはずだから俺は思い切って、「片瀬」と声をかける。
そして彼女は振り向かないまま、ぴたりと足を止めたのだった。
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