Another side4 勝っても負けても、いい勝負ができれば、なんて

「えっと……どういう、こと?」


 私は牧村君の言葉を心の中で繰り返しながら、呟いた。

 テレビなどで、『修正点、改善点を直し、ベストを尽くす』という言葉を聞くことはある。

 けど史也は、『それらの条件をクリアしてなお、結果を残せなかったら、どうするんだ?』と言ったらしい。

 言葉を詰まらせた私へ、牧村君が肩をすくめて見せた。


「俺は、答えられなかった。徹底的に負けて、絶対に勝てないと分かった時、それでもテニスをやる理由がなかった。……で、逆上してブン殴った。テメーに何が分かるんだって」

「……でも、それは」

「もちろん、暴力は絶対ダメだ。アスリートとか言う以前の問題だからな。けど俺は結局、そのていどのことも踏まえてないガキだった。アイツはそれを指摘しただけさ」


 牧村君は右手で拳を作り、それを見つめながら力を込める。


「俺は史也を殴った。アイツは吹っ飛んで、壁にぶつかった。一緒にいた小絵が史也へ駆け寄って、周りにいたやつらが俺を止めた。誰が見ても俺が勝つって分かってたから。……けど」


 そして握っていた拳を開いて、苦々しい笑いを浮かべた。


「負けたのは俺だ。……史也は口端から血を流しながら、やり返す素振りすら見せず、ただ俺の返答を待っていた」


 私はその状況を頭の中で想像し、奇妙な納得を覚えてしまう。

 これまでの経緯から、こと勝負において史也なら、そのくらいはやりかねないと思ったから。


「……それで、どうしたの?」


 私の問いに牧村君は少し思案した後、再び話し出す。


「その日、初めて練習を休んだ。ひでーツラで、『休みたい』って言ったら、監督はすぐ、『そうしろ』って答えてくれた」


 牧村君は一度振り返り、学校のテニスコートのある場所へ視線を向けた。


「一週間ほど、何もしなかった。普通に家でメシ食って、寝て、学校へ行って、みんなと同じことをした。それなりに満足してるような、でも物足りなさを覚える時間だった。何かをする必要はなかったけど、何をしたいのかが分からなかった」


 私は、自分自身の過去と現在を顧みながら、「……うん」とだけ頷く。

 感情の行き先と、ぶつける相手をなくし、立ち尽くしてしまう孤独を私は知っていたから。


「で、気付いたら今日みたいな」


 牧村君は小さな声で、夕陽の赤と夜空の青が鮮やかな陰影を描く空を見上げ、呟いた。


「空が綺麗な日、誰もいないテニスコートに立ってた。手にはラケットとボールがあって、気付いたら一人で壁打ちしてた。……ただただ楽しくて、周りが真っ暗になってもずっとやってたんだ」

「……そっか。牧村君はもう一度、見つけられたんだね。大切なもの」


 かけがえのない感情を、また抱くことができた瞬間の喜び。

 他人から見れば些細で奇妙なことでも、本人にとって唯一の宝物だったということはある。

 そして牧村君の場合、それが壁打ちだったというだけ。


「勝てる、負ける、評価される、されないに関わらず、俺はテニスが好きなんだって気付いた。……遅かれ早かれ、ぶつかる問いだったんだ」

「そっか、だから史也に借りがあるって」


 牧村君は苦笑し、両腕を左右へ開いて見せた。


「そういうこと。多分、アイツもベストを尽くしても負ける壁にぶつかった経験があるんじゃねーか? それが原点で大切だから、グチばかり言ってる俺を許せなかった」

「――」


 私は言葉を返せない。

 その『壁』に思い当たるものはあるけど、今は俯いて視線を落とすことしかできない。

 ただ、強く鼓動を打つ胸が訴える、切ない痛みに耐えるだけ。


「それともう一つ、俺が勝てて当然のエースていどじゃダメだって言ったのは覚えてるか?」

「……あったね。なんか、すごいこと言ってるって思ってたけど」

「何を言うかも決まってないのに、何か言ってやろうと思って史也のところへ行ったんだが、アイツは口端に絆創膏貼って、一度だけ俺に言ったよ。『お前は勝って当然のエースじゃダメだ。勝っても負けても、見た人を夢中にさせるスターになれ』ってな」

「ムチャクチャ言うなあ……」


 牧村君は腰へ手を当て、ため息交じりにこぼす。


「まったく、どこまでいっても厄介なヤローだよ。ド素人が好き放題、言いやがって」


 牧村君は、ぐっと真っ直ぐ前を見据え、力強い口調で続けた。


「けど、だからこそ裏切られねえ。俺はアイツが望む以上のスターになると決めたから。……それでやっと、殴った分をチャラにできる」

「それが、馴れ初め?」

「腐れ縁だ。……ま、だからこそ、今の状況はマジで意外なんだけどな?」

「?」


 牧村君は人が悪そうに、「くっく」と笑った。


「こんなに必死な史也を見るのは初めてだ。勝負は楽しめればいいってやつなのに、ガチで勝ちにこだわってる。片瀬の前でどう振舞ってるのか知らねーが、俺や小絵と一緒にいる時のアイツは、いつも机に突っ伏してグッタリだぜ?」

「えっ?」


 ビックリした私は言葉を失ってしまう。

 この一週間、史也と話すことはあったけど、振る舞いは普段と全く変わらなかったから。


「全然喋らねーし、限界まで動いて、少しだけ休んで情報をかき集めて。……きっと、勝つだけじゃダメなんだろ。その先で見つけたい何かに、こだわってる」


 最後のフレーズが、私の脳裏を搔き乱す。

 私が想像するより、ずっと真剣になっているんだと気付かされ、更に心臓が鋭く高鳴った。


「ざまーみろだ。普段どんだけ無茶言ってるか、思い知れっての。……けど、だからこそ」


 そして牧村君は、かつてないほど真剣な視線で私を見つめる。


「史也と本気で向き合ってくれ。そんな相手がいるからこそ生まれる情熱はある。そして、ぶつかり合うことで全てが報われる瞬間も、あるから」


 その言葉が、切なさに揺れる私の感情を刺激し、心に暖かな衝動を投げかけた。

 そして私は、「くすっ」と笑い、努めてすまし顔で言う。


「えー、それ、体験談?」

「茶化すんじゃねーよ。もし、アイツを適当にあしらおうってんなら、軽蔑はするつもりだ。……二度は言わねえぜ?」


 その声には明らかな怒りが滲んでいて、私は驚いてしまった。

 軽い気持ちで彼の逆鱗に触れてしまったことに気付き、私はお腹に力を入れ、顔を上げて答える。


「大丈夫。勝っても負けても、いい勝負ができれば、なんて言うつもりはないよ。私は手加減なしの本気で戦って、勝つ。……そうじゃないと全てが意味を失うから」


 二つのゲームを経て史也が過去を思い出しつつあるというのなら、最後のゲームも全力で戦えば、何かのきっかけになるはずだから。

 その答えに何を感じ取ったのか、牧村君は満足そうに目を閉じた。


「じゃあ頼むぞ、史也のこと。……勝負はあの東屋で、一週間後だったな。楽しみにしてるぜ?」


 そして、その口調はいつものものへ戻ったが、私は牧村君が一瞬見せた、獣のような強い闘争心を忘れられない。

 彼は真剣になっている友達を踏みにじったら、許さないという怒りを容赦なく私へ向けた。

 きっと、それがスターの素質。

 転校したての史也は、一目でその才能を見抜いていたから、彼にきつい指摘をしたんだろう。

 私はそんな直感を覚えながら、夜空で輝き出した一番星を見上げる。

 牧村君から聞かされた史也の意外な一面に身を震わせ、私はこの勝負の行く末を想像してしまう。

 その果てで史也にどう答えればいいのだろう? と、私は家に着くまでずっと考え続けた。

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