10. 好きだけど、どっちかというと苦手なもの?

「史也? 何してるの?」


 対決が三日前に迫ったある日の放課後。

 片瀬と出会ったイートインで、『ジャック・ボックス』をプレイしていた俺へ声をかける人物がいた。


「ん、今、帰りか? 片瀬」


 そう答えたものの、陽はまだ高く、小絵や征士はまだ部活に勤しんでいるはずだ。

 街路に学生の姿もあるが、制服姿のままフラフラしていて体裁の良い時間帯でもない。


「うん。少し街を歩いてたんだけど、休憩」


 彼女はそう言い、カップコーヒーを俺へ見せて、隣に座る。

 ふわりとシトラスの香りを感じ、動揺してしまうが、何とかそれを押さえて言った。


「それ、新発売のブルーマウンテンか。俺、まだ飲んだことないな」

「私はいいと思うよ。……元々、ブルーマウンテンが好きっていうのもあるけど」

「へえ、紅茶より、コーヒー派なのか? 意外だな」

「え、ううん。苦手だよ、どっちかというと」

「え?」


 情報が噛み合わず、俺は首を傾げてしまう。


「好きなのは、ブルーマウンテンって響き。味自体は苦いし、ブラックもきつい」

「ふ、ふうん? え、いや、なんだそれ」


 銘柄に違いはあるが、コーヒーを飲む人のほとんどはあの苦みが好きなはずだ。

 だから、名前の響きで飲むというのは稀なのではないだろうか。

 そんなことを思う俺の隣で、片瀬はカップを口元へ運ぶ。


「うわ、にが」


 そして、本当に味自体が苦手なのだと伝わる口調で、下唇を軽く噛んだ。


「じゃあ、やめればいいのに」


 俺は思わず、そう突っ込んでしまったが、彼女は唇を尖らせて答える。


「いいじゃん、別に。それでもなんか口に合うんだよ、紅茶とかお茶より」

「そ、そうか。ま、まあ、違いが分かるってこと……なのか?」


 言葉は曖昧だったが片瀬は満足げに、「そう、それ」と頷き、カップを傾けながら俺に問う。


「で、何してたの? 部活は?」

「部活には入ってない。そっちもか?」

「うん。私も入ってない。先生には入りなさいって言われたけど」

「まあ、言われるよな。どっか入れって。……どうやってかわしたんだ?」

「んー、頭よくないから、勉強したいんですって」


 その模範的解答に、俺は驚きの声を上げる。


「へ、へえ、偉いじゃないか。じゃあ、勉強してるんだな?」

「え? してないよ。なんで?」

「?」


 再び噛み合わなかった会話に俺は眉根を寄せ、結構な頭痛を覚えてしまった。


「えーと、すまん。もう一回、聞いていいか? 勉強……してる?」

「……? だから、してない。やだな、心配しなくても赤点取ったことないよ」

「どうすればいいんだ……。ほんとにしてないやつだぞ、これ……」


 頭を抱える俺のリアクションが不服だったらしく、片瀬は不満げな口調で問い返してくる。


「じゃあ、史也はどうなの? 部活に入ってないんだよね?」

「部活には入ってない。ただ、クラブには入ってる」

「……? なにそれ」


 片瀬は知らなかったのか、と俺は思いながら答えた。


「特に理由はないけど、部活には入りたくないって生徒のために、二週間に一回、放課後に教材のDVDを見れば、それでオッケーになる、『映画鑑賞クラブ』っていうのがあるから」

「そんなのあったんだ。……えー、それ、楽そう」

「実際楽だ。ただ、クラスに馴染めなかったり、部活について行けなかったりした生徒の受け皿クラブみたいなものだから、アクの強いやつが多いぞ」

「うーん、それでもやっぱり二週間に一回のレポートより、よさそう」


 その楽さを追求する姿勢はいいんだが、こうも前面に出されると、「もうちょっと、控えなさい」という気持ちにもなってしまう。


「ま、征士みたいに半ば勝つことが義務みたいになると、それはそれで辛いと思うけど」

「あー、全国ベスト8以上ってやつ?」

「個人的には全国制覇くらいやって欲しいんだが」

「うわ、めちゃくちゃ言ってる」


 俺はショルダーバッグからA4用紙の束を取り出し、答えた。


「その程の才能だよ、アイツは。地方大会のエースで止まってもらっちゃ、困るんだ」

「?」


 含みのある発言に片瀬は首を傾げていたが、ふと俺の手元のA4用紙へ視線を落とす。


「なに? それ」


 A4用紙には拡大された譜面が印刷してあり、右上には曲のタイトルが記されている。

 その曲名に覚えがあったらしく、片瀬は少し身を乗り出して用紙を覗き込み、俺はボールペンを手に用紙をテーブルへ置いた。


「アプリ内で著作権フリーの曲を、譜面に起こしてる人がネットでいたから」


 彼女は五線譜や音符、記号などを眺めながら、難しい顔になった。


「でも、ほとんどの曲はノーミスでクリアできるんだよね?」

「けど相手が片瀬なら、それだけじゃ足りないと思って。省ける手間は省きたいんだ」

「手間を……省く?」


 意味を掴みかねた片瀬が曖昧な口調で呟き、俺は解説する。


「例えば、四拍子の曲だったら」


 周りに人がいるので、俺は小さく、ぱち、ぱち、ぱちと三つ、手を叩いて見せた。


「次に四つ目の、『ぱち』が来る展開は読めるだろ?」

「う、うん」

「だから、『あ、これは四拍子の曲だな』って理解できていれば、極端な話、ゲーム画面を見なくても、どのタイミングで音符が来るのが分かるってこと」

「……じゃあ、その分、考えなくて済むから余裕が生まれる?」


 俺はうん、と頷く。


「それは曲が三拍子であっても変わらない。まあ、そのルールを『ジャック・ボックス』で崩してくるから、対応が大変なんだけど」


 片瀬はブルーマウンテンを口へ運び、やはり難しい顔のまま、問いを投げかけて来た。


「まさかそれ、全部覚えようとしてる?」

「フリーな限りは」

「でも、スコアに影響あるの?」

「ないよ。意味があるかと言われれば、ないものだと思う」


 俺の返答に彼女は不可解そうな口調で、再び問う。


「じゃあ、なんで」

「意味はないけど、やった分だけ度胸が付く。繰り返しになるけど、片瀬を相手にするっていうのは、そういうことだから」

「……?」


 片瀬は納得がいかないような、状況を飲み込めないような表情になる。

 それは、そうだろう。

 今までのやり取りから察するに彼女は、『見える』いう事実を積極的に周囲へアピールしてこなかった。

 おそらく、避けてきた。

 そのためか、他者と自分を測る物差しを持たず、反則じみた自身の力に自覚がない。

 理由や経緯を俺は知らないし、口を挟む資格もない。

 だから、伝えておきたい言葉は一つだけ。

 俺は視線を譜面へ落とし、指先でそれをなぞりながら片瀬へ言う。


「三日後。最初の勝負の日まで、できる限りのことはやる。だから」


 彼女は静かに、こちらを見返してくる。


「覚悟はしておいてくれ。簡単には勝たせない」


 その俺の言葉をどう受け取ったのか、片瀬は目を瞬かせた後、自身の指先を絡め、「くすっ」と悪戯っぽい微笑みを口元へ浮かべて見せる。


「じゃあ、楽しみにしとく。こっちこそ、楽には勝たせないから」


 そして残っていたブルーマウンテンを飲み干し、視界の先で青く輝く空を臨み、呟く。


「あー、苦いなー」


 言葉とは裏腹にその口調は楽し気で、譜面を走る俺の視線に思わず力が入ってしまった。

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