9. ツーク・ツワンクに陥った時の対処法
「そんなことってある……?」
ゲーム提案から三日後の放課後。
校舎と食堂の間にある渡り廊下で、俺と片瀬は顔を合わせていた。
耳をすませば、グラウンドや校舎から春らしい賑やかな歓声が聞こえて来る。
雪の降る地方都市だからこそ、その盛り上がりは本物で、雰囲気の明るさが心地いい。
「なのになぁ……」
その一方で、頭を抱える俺の口調は冬風と変わらないほど冷たい。
手には片瀬のスマートフォンがあり、俺のプレイした曲がノーミスでクリアされている。
「結構、難しいんだね。二週間で間に合うかな? 最高難易度だと」
眉根を寄せる俺に気付いていないのか、片瀬は率直な口調で聞いて来た。
俺は内心の動揺を悟られないよう努めながら、問い返す。
「ちなみにこの曲、ノーミスまで、どのくらい練習した?」
「五回くらいかな。ゲーム内通貨を使えば、もっと練習できるんだよね?」
「あ、うん……そうだな。うん……」
思わず目元を押さえてしまった俺に対し、あくまで彼女はきょとんとするばかりだ。
これは、『見えて』もいなくて、普通に才能でやれるタイプだなあ……と頭痛を覚えてしまう。
「えっと、どうかした?」
「……最悪の事態は起こるもの、と考えた方がいいケースだと思って」
俺の言い草に片瀬は不満げに唇を尖らせた。
「なにそれ、特撮映画の怪獣みたいじゃん」
「となると、アプローチだよなあ。勝てない敵に出会ったら、どうするか、と」
「あ、無視した。……どうするって、どういう意味?」
なおも不服そうな片瀬だったが、俺の言葉に引っ掛かるものがあったらしく、小首を傾げて見せた。
「そうだなあ……。チェスでツーク・ツワンクって言葉があるんだけど、聞いたことは?」
「ううん、ない。なにそれ」
「ざっくりだけど、『今、自分が何をしても局面が悪くなる状態』のことだ。チェスに限らず、ゲームでこういう状況は珍しくないけど」
「例えば?」
「身近なところだとトランプとかやってても、そういうことはあるんじゃないか?」
その指摘に片瀬は少し考えてから、答えた。
「それは……あると思うけど。でも、具体的にどうするの? 『何をしても悪くなる局面』で」
「いくつか手段はあるけど、その一つは片瀬も知ってると思うぞ?」
「私も?」
俺がそう告げると片瀬は難しそうな表情になったが、やがて降参、と両腕を開いて見せる。
「例えば大貧民で、どうしようもない局面になった時とか。……で、その対処法は」
解答を待つ片瀬の顔に真剣さが増し、俺は続けた。
「パスをすること。進んで、手番を相手に回すんだ」
彼女は意表を突かれたような表情で、「あ」と頷く。
「そういえば、始める前にルール確認するね、大貧民。八切りとか」
「それで状況が変わることもあるからな。……だからパスだって、立派な戦術なんだよ」
「そっか。単純に場を回すだけじゃないんだね。……大事なのは考え方、かあ」
そう呟いた片瀬の表情はやや硬いものだったが、やがて、「ふむ」と唸って言う。
「うん、今の話で、分かった」
「え、何を?」
「油断できないってこと。そのつもりはなかったけど、改めて」
その答えに俺は努めて、不敵な笑みを浮かべて見せた。
「ああ、大いに警戒してくれ。……ちょっと、やってみたいこともあるし」
「じゃあ、それを楽しみに。……ところでさ、もう一つ聞いていい?」
「何?」
俺は何気なく返答し、片瀬が不意にこちらを向いて言った。
「なんで、片瀬? 水帆でいいって言ったじゃん」
「ぐっ!?」
予想外の角度から鋭い攻撃が飛んできて、言葉に詰まったが、更に彼女は追撃する。
「私、史也って呼んでるのに」
「それは……。いきなり名前呼びっていうのは、やっぱり……」
「……嫌だった?」
「嫌ってわけじゃないけど、男子なら誰でも抵抗あると思うぞ……?」
「うーん、そういうものかなあ?」
「そもそも急に名前で呼んだら、みんながまた騒ぐんじゃないか?」
「あー、それは困るけど。まあ、仕方ないってことか……」
歯切れの悪い口調だったが、とりあえず納得はしたらしく、それ以上の追及はない。
俺が胸を撫で下ろし、片瀬はちょっとぼんやりした後、どこからか手の平サイズの包装を取り出した。
「……? お菓子か?」
「うん、チョコレート。好きなんだ。頭使ったし、史也も食べる?」
「どこから出した?」
俺の問いに、彼女は指先でブレザーの左胸のポケットを指す。
「そんなところにお菓子隠し持ってるやつ、初めて見た……」
片瀬は不思議そうに、きょとんとする。
「え、なんで。ポケットじゃん」
「普通、サイドポケットに入れるんじゃないか?」
「大事なものを入れても、バレないから」
「分かるような、分からないような……」
俺は首を傾げてしまったが、要らないと言うこともできず、それを受け取る。
チョコレートの甘みが口に広がり、それを味わいつつ、一息ついた頃、片瀬が小さく呟いた。
「……もう少し早く会ってたら、桜を見ながら話せたのにね」
その指摘を受けて彼女の視線の先を追うと、校庭の隅に花の散った桜があった。
片瀬の口調と同じ様にどこか寂し気な雰囲気で、人気のなさがそれを際立たせており、俺もその光景を見ながら言葉を返す。
「……でも、たまにはいいんじゃないか? 誰も見てない分、独占できると思えば」
俺の返答に彼女は少し驚いた様子だったが、やがて静かに目を伏せ、頷いた。
「そうだね。確かにこれはこれで特別感があっていいかも」
片瀬はそう呟き、上機嫌な様子で春風に吹かれるままチョコレートを口へ運び、後ろ髪を揺らす。
そして、俺は改めて厄介な難敵とぶつかってしまったと痛感し、ため息をこぼしてしまった。
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