第2話 傷だらけの狼
「おま、え……」
馬車から降りてきた人物は、エリーヌの顔を見て、衝撃的な表情をした。
父の暗黙の妾として迎えられたのは、クロエの母であった。
「初めまして、モニカさん、クロエさん。わたくしが主人の代わりにこの屋敷を切り盛りしている、ジュリエンヌ・カトレア・シャントルイユでございます」
エリーヌとクロエの表情には気付かない母が、正面に降り立った二人に、まるで手本のようなカーテシーをして見せた。
彼女には、先に二人の名前は伝わっていたらしい。
できれば自分にも事前に伝えてほしかった、とエリーヌは思ったが、今はそれどころではない。
「こちらは、娘のエリーヌ。エリーヌ、ご挨拶を」
そう言われて、エリーヌは驚きの表情を隠す仮面のように、微笑みを貼り付けドレスをつまむ。
「エリーヌ・リクニス・シャントルイユと申します」
幼い頃からの教養であるカーテシーは、彼女の動揺を隠してくれた。
顔を上げ、クロエの顔を見ると、彼女もまた表情に冷静さを取り戻していた。
「わ、わたし、は……ゲホッ、ゲホッ!」
「母さん!」
紹介を受け、自分も何か言おうとしたのであろうクロエの母が、咳き込んで蹲った。
その姿はやつれていて、健康的なクロエの面影はあまりない。
だが、唯一その面影を残した瞳が、爛々と輝いてエリーヌの母を見ていた。
「ここではお体に障りますね。お話は中でしましょう。エメ、カミーユ」
『はい』
ジュリエンヌは侍女を呼び、クロエの母の介護を頼んだ。
エリーヌは再びクロエを見たが、彼女は侍女と共に母の介助をしている。
普段横になって安静にしているというクロエの母を、屋敷の一室のベッドまで連れて行った。ここに来るだけでも、苦労しただろう。
思いの外容態の悪い彼女を横たわらせようとしたところで、彼女は体を支えていた侍女を振り払った。
「せ、世話なんかいらない! どうせ、私たちの事を見下して……ゲホッ!」
「母さん!!」
ジュリエンヌに掴みかかろうとする彼女を、侍女と共にクロエは抑えた。
「暴れたら身体に障るから、落ち着けって!」
クロエに抑え込まれ、クロエの母はベッドに倒れこんだ。
「あ、あぁ、クロエ……ごめんなさい。こんな、こんなことに……」
そう言って、顔を覆って涙を流しながら、抵抗を止めて侍女にされるがままになった。
エリーヌは察した。恐らく、彼女は先ほどのクロエとエリーヌの表情に気づいたのだろう。
きっと、普段クロエから学園の事を聞いていた彼女は、現状を悟ったのだ。
「……また、落ち着いてから、お話をしましょうか。エメ、あとはお願い」
「畏まりました」
ゆっくりと話せる状態ではないと判断したジュリエンヌは、クロエの母を侍女に任せ、その場を後にするようだ。
「お母様。先にクロエを、屋敷の案内に連れて行ってもよろしいでしょうか。どちらかが勝手を分かっていた方がよいでしょう」
「そうね。でも、今は彼女の側に居たいでしょうから」
エリーヌの言葉に対しそう言ったエリーヌの母に、クロエは向き直った。
「いえ、大丈夫です。案内をお願いします」
彼女とエリーヌが考えていることは同じらしい。
「分かりました。母は部屋に戻ります。何かあったら、言ってちょうだい」
気疲れしたのだろう。
エリーヌに後のことを任せ、彼女は部屋に戻った。
好都合であった。
***
「あちらが書庫。そして、ここがあなたの部屋よ」
先ほど母に宣言した通り、エリーヌは侍女を一人とクロエを連れて、屋敷を歩き周った。
どこに何があるかを教え、クロエはそれを黙って聞いていた。
「さあ、部屋に入って」
エリーヌは最後に彼女の部屋となる場所に彼女を招き入れた。
彼女が中に入り、自分も中に入ったところで、最後に扉を閉めようとした侍女に言った。
「少し、外してくれる?」
侍女は一瞬、驚いたような表情をしたが、小さく礼をして、何も言わずに外に出た。
エリーヌはそれを見て、扉の鍵を静かに締めた。
「……おい」
この時を待っていたと言わんばかりに、息を吐いたエリーヌの襟首をクロエが掴んだ。
「これは、どういうことだ」
掴みかかって、表情を歪ませるクロエを、エリーヌは涼しげな表情で見る。
「どういうつもりだ……言え!」
恐らくクロエは、平民派閥を堕とすためのエリーヌの差し金だと思ったのだろう。
「いくらわたくしが貴族派閥のトップに立っているからといって、上級大臣である父の愛人を選ぶ権利はありませんわ」
そう言って、自分の服を掴んでいるクロエの手を退かす。
「運命の悪戯……ほんの偶然。わたくしも、まさか貴女が来るとは思わず、驚いたのです」
エリーヌがそう言うと、クロエは苦虫を噛み潰したような表情をした。
当然だ。彼女が置かれている現状は、彼女にとって決して面白いものではない。
ただ単純に、敵対している相手に面倒を見てもらうことに対する、屈辱的な思いからではない。
クロエはこの現状を、エリーヌの策略だと思っていたのだ。
彼女を己の手中に収め、完全に支配し敗北を認めさせるための策略である、と。
つまり、クロエをリーダーとしている平民派閥、その敗北が必至の状況であるということ。
「どのような経緯で、貴女はここに? お父様が提案したとは聞きましたが」
エリーヌがそう聞くと、クロエは俯いて、顔に影を落とした。
「……母さんの病気が治らないって医者に言われたんだ。それを聞いたお前の父親に、唐突に『うちに来い』って言われた」
彼女は悔しそうに、己の腕をさすった。
「母さんに断る気力はなかった。娘の私も迎え入れると言われて……母さんは了承したんだ」
「……なるほど」
クロエにとって、長く母と時を共にできるのであれば、面倒を見てくれる人間が誰であるかなど知る必要もなかったのだろう。
そして、エリーヌの父もまた、クロエの母であるモニカをなるべく秘密裏に迎えたかった。身分差が大きいので、醜聞になる可能性もある。
恐らく、自分が誰であるかはクロエにまで伝えていなかった。
エリーヌにとっては、鴨が葱を背負って来たようなものである。
「……はっ」
先ほどまで悔しそうに顔を歪めていたクロエだったが、今度は自嘲的な笑みを浮かべてエリーヌを睨んだ。
「良い身分だな。こんな広い屋敷で、良い服を着て、良い生活をして」
用意されたクロエの部屋は、エリーヌの部屋とさほど変わりない広さをしている。
天蓋付きのベッドに、鏡の付いたドレッサー。装飾の施されたクローゼットに、本棚や机も十分すぎるほどにある。
そんな部屋の中で、彼女の涼やかな声が響く。
「母さんがどんなに身を削って働いたって、こんな生活送れなかった。だから、
そう言って、彼女は拳を壁に叩きつけた。
その力は弱々しく、響くほどではなかった。
エリーヌは、彼女をよく見た。
長いストレートの黒髪に、青く輝く瞳。優れた容姿を持っているが、服装は着潰したであろう物を繕って着ている。手は荒れていて傷だらけ。
その上、こんな仕打ちと来た。
狼は、置かれた環境の厳しさを一身に受け、傷だらけであった。
「ねぇ。ちょっとこちらに座ってくださる?」
エリーヌはそう言って、窓際に置かれているテーブルと椅子を指示した。
クロエは怪訝そうな顔をしながらも、エリーヌが座った対面の椅子に腰かけた。
「ふふ。素直に言うことを聞いて下さるのね」
「チッ!」
そう舌打ちをして立ち上がろうとしたクロエを、エリーヌは手で制した。
クロエは不満そうにしながらも、再び席に着いた。
「例えばわたくしが、学園にこの状況を広めれば、貴女の平民代表としての評価は堕ち、派閥は瓦解してしまうでしょうね」
「ああ、そうだよ! お前にとっては、チェックメイトも同然だろ!?」
敵の
そうだ、エリーヌにとっては王手である。
「では、わたくしがこのことを広めなければどうでしょう?」
「……は?」
唇の前に人差し指を立ててそう言うエリーヌを、クロエは間の抜けた顔で見た。
「わたくしが学園にこのことを広めず、貴女も口を閉じる。そうして誤魔化せば、今のまま均衡を保てます」
茶目っ気のある表情でそう言うエリーヌに、クロエは鋭い視線を向けた。
「……それ、お前にとってどんなメリットがある? あるいはそうしないことで、お前にどんなデメリットがあるってんだ?」
そう、エリーヌの提案には、エリーヌにとって、ひいては貴族派閥にとって何の益もないことである。
むしろ、彼女がそうすることは、自分を慕っている貴族派閥への裏切り行為だ。
「あら。貴族派閥にはメリットがありませんが、
エリーヌはそう言って立ち上がり、手を差し出した。
見開かれた青い瞳を、その対となる赤い瞳で真っ直ぐと見つめる。
「わたくしは己の派閥を裏切って、貴女を守ります。ですから、貴女も己の派閥を裏切って、わたくしに協力する。そうしましょう?」
「誰がそんなこと……!」
クロエは差し出されたエリーヌの手を振りはらった。
エリーヌはそんなクロエの鋭い視線を真っ直ぐ受け止める。
「平民派閥が堕ちれば、今度は貴族内での派閥争いになるでしょう。そうなれば、蹴落とし合いの争いしか起きない」
現に貴族は、他者を下に見ることによって、己の権力を主張している。
「蹴落とすしか能のない者は、その場に留まるだけで何も成長しない。でも、貴女は違う。貴女は実力でもってわたくしに追いつこうとし、高みを目指している」
エリーヌは思った。
ただ実力で這い上がり、自分に追いつかんとする者が、こんな悪運程度で落ちるのは勿体ないと。
これは彼女のただの感情で、下に心が付く何かだ。
「せっかくなら、競う相手は選びたい」
エリーヌはそう言って、彼女を見上げるクロエの頬に、片手で触れた。
「その選択肢に、わたくしは貴女以外思いつかないの」
クロエの青い瞳が、大きく開かれる。
月光を浴びて、彼女の瞳は輝いた。
「ね? だから……」
エリーヌは笑う。
「狼さん。貴女、わたくしの忠犬になってくださる?」
魔女が契約を持ち掛けるように、囁くような声で、彼女はそう言った。
「わたくしにだけ、その牙を抜いて? わたくしも貴女にだけは、決して刃向かわないから」
「んだよ、それ……」
「ただ、『協力しましょう』と言っているだけよ」
契約を持ち掛けられた狼は、その顔に悔しさを滲ませつつも、魔女の赤い瞳に射抜かれて、口を開いた。
「…………わかった」
満月が輝く夜の元、敵同士の彼女たちは、そんな歪な協力関係を結んだのであった。
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