きみは光
花森ちと
ひまり
最後に、きみをみていた。
きみは私の憂いに差した光。若葉から舞い降りた、あたたかな木漏れ日。
きみを苦しめるものはすべて消してやろうと決めていた。
はじめてきみをみたのは、もうずっと昔の冬。
あれは駅の構内。時刻は真夜中にも近いのに、人波が途切れることはなかった。
私はどん底にいた。金もない。女も、家族さえもいない。
寂しかった。社会から放り出されて、生きた心地がしなかった。
今だって、何も持ってはいない。だけど、あのときよりは満たされている。
きみが現れたのだ。
あれはスクランブル交差点。私は夜道を彷徨っていた。
停止した車がなにも出来ない俺を今に轢き殺そうと鼻息を荒げていた。社会の内側にいる人びとの足音が俺を責め立てていた。誰も、俺を、否定しないでくれ! 誰か、俺を、殺してくれ! 寒さに喘ぎながら夜道を駆けた。ひどい孤独を潰してしまおうと夜道を駆けた。対岸の、月明かりに照らされた窓ガラスに映る俺をみたとき、あまりの惨めさに怯んでしまった。死んでしまいたい。消えてしまいたい。死んでしまいたい。消えてしまいたい。
「きみの苦しみをすべて消してあげる」
「きみは私の憂いに差した光。若葉から舞い降りた、あたたかな木漏れ日」
気がつくと、頭上にLEDビジョンで歌う少女を見つめていた。
秋葉原で売っていそうなセーラー服を着て、髪はひとつにまとめている。ちいさな身体には少し大きいアコギを抱えて、微笑みながら歌っている。少女の歌が、真っ黒な街に溶け込んでいく。黒が薄れることはなかった。だけど、俺の思考回路は止まり、頭のなかは少女で染まっていた。
これを聞く間抜けなツラをした少年少女らを思い描く。反吐が出る。10代向けの薄くて青い曲。なにも考えて生きていない10代向けの阿呆な曲。それなのに、彼女には惹かれるものがあった。なぜだかわからない。
鼻の奥がツンとして、瞼を開くと海のなかにいるように塩辛かった。
それから、貪るように彼女の曲を聴いていた。
彼女の曲をすべて聴いた。彼女の曲は虚栄を張るために、今いちばん知られている曲しか無いことになっていた。だけど、彼女のSNSを隈なく探ると別名義で曲をたくさん出していた。どれも淡白で面白みのない曲ばかりだった。だけど、それで良かった。仮にもし彼女に才能があったとしたら、より遠い存在になってしまうから。
彼女になりたかった。彼女に一目置かれたかった。彼女の曲調を真似して曲を作った。彼女の言葉遣いを真似した。彼女の所作を真似した。滑稽な男だと思うだろう。今、私を生かすのは彼女しか居なかった。
彼女は「鹿子ひまり」という。
本名は川口陽茉梨。山形県出身の高校1年生。趣味は虹色の綿あめを食べること。音楽活動のために上京し、年末年始と盆に実家に帰ることが楽しみだそうだ。実家にはメスのゴールデンレトリバーがいて、レモンという名前。レモンの背はおひさまの匂いがするのだと、ひまりは笑って話していた。ひまりは、東京の、郊外の、古いアパートにひとりで住んでいるらしい。
東京の、郊外の、古いアパートを、私は既に見つけていた。ひまりの家の窓ガラスに映る景色を、私は知っていた。よく見慣れた風景だった。なんと、ひまりの家は私の自宅からすぐ近い場所にあったのだ。
ひまりの玄関には黄色の花が鉢植えに植わっていた。花は初夏の日差しに照らされている。ひまりは学校にいるらしい。中から物音は聞こえなかった。
「――警察、呼びますよ……?」
聞き慣れた声がした。振り返ると私立高校のブレザーに身を包んだ少女がいた。ひまりだ。
心臓が強く脈打っているのを感じる。言葉が出ない。人と話をするのはいつぶりだろうか。それでもひまりと話したい。ひまりに私を知ってほしい。
「わ、私、あなたに会いに来たよ。あなたの曲に救われたの。だからお礼を言いにきたんだ。本当にありがとう。私、あなたのおかげで死ぬのを諦めた」ひまりの目は見れなかった。ただ、自分のことばかりを考えていた。「それから、私、決めたんだ。あなたを苦しめるものは、なんでも消してあげようって。これってあなたの曲の歌詞にもあったよね。私は本気だよ。だから、困ったことがあったらなんでも言ってね」
「きもいよ、おじさん。頭おかしいよ……」ひまりの声は震えていた。ひまりの目を見ると、彼女は泣いていた。
「それじゃあ、死んでください。二度と私の前に現れないでください。お願いします。消えてください」
薫風が私たちの間を通り抜けていった。途端に、雲の影が私を覆い隠した。ひまりは皐月の光に照らされて、白く健気に輝いていた。きみは私の憂いに差した光。若葉から舞い降りた、あたたかな木漏れ日。
ひまりは暖かく、やさしい女の子。春の新芽のような、やわらかな私の光。
彼女を苦しめるものはすべて消してやろうと決めていた。だけど、この瞬間から、ひまりを苦しめるものは私になってしまった。
「わかった。地獄に堕ちてもたぶん私はあなたに救われると思うわ。それじゃあ、さよなら。元気でね」
最後に、きみをみていた。
足元では人びとの雑踏が聞こえる。上から見下ろした社会は何よりも阿呆らしく思えた。
手元のスマホを見やる。暗闇のなかで液晶画面から輝くきみは、あの日みたきみの怯えた顔とはまったくちがう表情だった。やわらかに笑い、歌っている。
きみは私の憂いに差した光。若葉から舞い降りた、あたたかな木漏れ日。
きみの苦しみがすべて無くなりますように。
きみは光 花森ちと @kukka_woods
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