#腐敗した心 3




──コン、コン、コン……


 玄関の扉をノックする音がした。


「やあ、ミミ君」


 そこに立っていたのは、鮮やかな赤髪を二つに結んだ小柄な少女だった。


「こんにちは、せんせ!」


 身体をくいっと傾け、人当たりの良さそうな快活な笑みを浮かべながら、ミミは医師に挨拶した。


「今日もお迎え、ご苦労さま」


 医師がクッキー入りの袋を差し出すと、ミミの、くりっとしたはしばみ色の瞳が、キラキラと歓喜に輝く。


「えへへ、いつもありがと、せんせ!」


 黒のケープコートから、人形みたいな小さくてツヤのある、丸みを帯びた手が出てきた。ミミは、子犬みたいな愛嬌のある仕草で、クッキーを受け取った。


「食べ過ぎには注意、あと寝る前に食べるのはいけないよ。食べたらしっかり歯を磨くのも忘れないように」


「んもう! 先生はミミのことを子ども扱いし過ぎっ!」


 ミミは眉尻をきゅっと上げ、腰に手を当てて不服の意を示した。

 医師もつい、彼女の幼い容姿に引っ張られて、子ども扱いをしてしまう。


 だがその実、あどけなさを残す外見とは裏腹に、ミミはレガシィ教団の騎士だった。法と秩序の番人である。

 彼女はユリアの同僚とのことだが、医師に言わせてみれば、二人の性格は両極端と断言してよいほどかけ離れていた。


 ミミは、医師の背後に視線を送った。


「あれっ、先輩は?」


 いくら待っても現れる気配のないユリアに、ミミは痺れを切らして、奥の談話室へと向かった。


 案の定ユリアは、ソファーに座ったままで、帰り支度すらしていない。


「ほら先輩、早く帰りますよ!」


 こういう状況のときのために、ミミはいるのだ。


 入り口そばのコートハンガーから、黒い細身のコートと、群青色のマフラーを取ったミミは、ユリアに着せてあげた。


 無気力な状態で、されるがままのユリアと、マフラーを巻いてあげるミミの姿は、身体だけ大きな娘と、世話焼きな小さな母親のようだ。


「それじゃあ、せんせ、またね!」


「うむ、気をつけて帰るんだよ」


 ミミはユリアの腕を引っ張りながら、医師に別れを告げて、診療所を出ていった。



 夕方の時報を告げる鐘の音が、モーロリーブの街並みにおごそかに響き渡る。


 その都市──モーロリーブは、大陸北方の小国ルグテンの首都であった。

 舗装された石畳を走る路面電車と、整然と建ち並ぶ洗練された洋風建築。大規模な都市開発によって近代化が推し進められ、国内はおろか周辺諸国と比較しても、その都市の文明は一歩先をいっていた。


 ミミがユリアを迎えに行ったときと比べて、通りには人が格段に増えていた。そのほとんどが、街の南側に位置する工場地帯から流れて来ているようだ。

 缶詰め工場や、縫製工場が終業し、働き手たちが一斉に解き放たれたからである。その顔ぶれは実にさまざまで、女や子どもの姿も珍しくはない。


 家路につく人々の流れにのって、二人も、コツン、コツン、とブーツのかかとを鳴らしながら道なりに進んでいく。


 人や馬の往来が多い場所の雪は、ほとんど溶けてはいるものの、それでも、春とは思えない身体を芯まで冷やす寒さは健在だった。まもなく日が落ちるため、これ以上寒くなる前に、ミミたちも宿泊する宿へと急いだ。


「ほら、先輩、ちゃんと歩いてください。おぶって帰るのなんて、ミミには無理ですからねっ!」


 ミミの声に、ユリアは反応らしい反応を返さない。足どりはおぼつかず、まるで抜け殻みたいな状態だった。まあ、いつものことである。


「先輩、今日のカウンセリングはどうでしたか?」


「……。」


「そうだ、なにか食べたい物はありますか?」


「……。」


「明日にはモーロリーブを離れるんですから、この街の料理も、しばらくは食べられませんよ?」


 保護者然とするミミに対し、ユリアは頑なに口を開こうとはしない。いじけた子どもを相手にしているみたいだと、内心ミミは思った。


「明後日は、オリバーの結婚パーティですね。ミミが用意したドレスは気に入りましたか?」


 と、ユリアの耳に女性の泣き叫ぶ声が聞こえた。ふいに足を止め、通りがかった広場へと視線を向けると、そこには大勢の人だかりが出来ていた。

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