第12話 二人目

 料理人含め大人という大人が屋敷中を捜索したためか昼の用意が間に合わず、サンドイッチにスープという実に簡単な食事がお昼となった。別段まずいわけでもなかったが……何ならサンドイッチとしてはかなり美味い部類だったが(たまごサンドが絶品だった)、しかし誰の顔も明るくならなかった。そもそも時曽根兄妹の空気がよくない。それにこれが終わればまた大規模な捜索が始まる。本来の仕事以外の大きな案件は誰の肩にも重たかった。自然、ため息も出る。

「悪いな。飯田」

 僕の隣でサンドイッチをんでいた時曽根先生がつぶやく。

「思ったより厄介ごとだった」

 僕は笑った。

「東京帰ったら旨い酒でも奢ってくださいよ」

 先生も笑った。

「ああ」

 こういう時独身は楽だな。

 そう、誰にも聞こえないように先生はつぶやいた。

「子は親の弱点だ」

「まったく」

 独身同盟、ここに結成である。

「屋敷の中で探していない場所はないんですか」

 しかしあまり悠長にもしていられない案件なので、僕は真面目にそう訊ねた。先生は返す。

「誰がどこを探したか分かってねーからなぁ」

 今朝から屋敷にいる人間はほぼ全員、手当たり次第に捜索していたから、誰がどこを担当したのか分からなくなっているらしい。

「じゃあ、こう仮定しましょう」

 僕は先生の方に向き直った。

「主たる部分は全員がタッチしてると思うんです。すなわち生活圏。この屋敷で日常的に使われる範囲は……」

「まぁ、俺が想像するに、地下室と屋根裏を除いた一階から四階までだろうな。全部が全部使われているわけじゃなかろうが、使用人たちの控室は一階、食堂は二階、俺たち主人の個室や子供部屋、プレイルーム、大人向けの娯楽室、待合室、主人たち用の談話室、いわゆる母屋の機能だな。それらは三階と四階に集中している」

「と、なると人の目が行きにくそうな場所は地下室と……」僕が言い淀むと先生が続ける。

「屋根裏だな」

 先生が天井を見つめる。

「死角になっている可能性は確かにある」

 と、先生は近くにいた執事らしき、身なりのちゃんとした男性を呼んだ。布施さんとかいう、さっき根岸さんの証言を引き出した人間だ。

「屋根裏は、探したか?」

 先生がそう問うと、布施さんはうっかりしたような顔をした。

「特に人は手配していません。誰かが探しに行った可能性はありますが……」

「きちんと確認したわけじゃないんだな」

「ええ」

 先生はちょっと考えるような顔になってから布施さんに告げた。

「食後、探しに行く。布施さんも来てくれるか」

「は」布施さんは恭しく一礼するとその場から下がった。僕は楽しみにとっておいたもう一つのたまごサンドを頬張った。



 そんな重たい空気の昼食の後、僕と先生が食堂の傍で雑談をしていると、布施さんが鍵の束を持って現れた。ひどく深刻そうな顔をしている。先生が訳を訊ねた。

「おう、どうした」

 すると布施さんは答えた。

「屋根裏部屋二号室の鍵がないのです」

 布施さんは不安そうな顔を先生に近づけた。

「もしや瑠香様か動真様がそこにいるのでは……」

 先生も深刻な顔になった。

 と、その時……時曽根先生と布施さんとの間に重くて鈍い空気が流れたその時、僕の鼓膜を何かがくすぐった。僕はそれにたまらない不安を覚えて、耳を澄ませた。


 ……ひねりこ、ひねりこ、ひねりこやあ


 あの唄だった。

「先生……」

 と言いかけると、その唄は急に小さくなった。聞こえなくなる。まるで最初から、何もなかったかのように。

 時曽根先生が「どうした?」という目線を投げてくる。僕は首を傾げた。

「聞こえませんでした?」

「……何がだ?」

 押し黙る。何も、何も聞こえてはこない。

「いえ、何でも」

 ただの空耳……だろうか。

 すると先生が気を取り直したようにつぶやく。

「行くか」

 かくして僕たちは屋根裏部屋を目指して動き出した。



 三階以上の建物にはエレベーターをつけなきゃいけないんじゃなかったか。

 何となくそんなことを考えていると、僕の思考を読んだのか布施さんが、「エレベーターがあちらにございます」と短く告げた。先生が「知ってるよ」とつぶやいた。

 布施さんに導かれるまま進むと、廊下の片隅に分厚いドアがあった。脇にはボタンが。あれがエレベーターか。

 そう思っているとやはり布施さんがボタンを押してドアを開けた。中は、それなりに規模の大きなオフィスビルにあるのと同等の、なかなか広くて立派な造りになっていた。金のかけ方が違うな、と僕は思った。

 三人で乗る。布施さんがボタンを押す。

「人が乗れるエレベーターは四階までしか届いておりません」

 布施さんが静かにそう告げると、ドアが閉まりワイヤーがリフトを引っ張り上げる音が響いた。

「四階からは階段で参りましょう」

 ほんの数秒でエレベーターは四階に着いた。僕たちは急ぎ足で下りると、階段を目指して素早く歩いていった。

 下のフロアと違い、四階から屋根裏へ行く階段は古くて絨毯も敷かれていなかった。だからだろう、手入れが行き届いておらず、一歩踏み出す度にぎしぎしと床板が軋んだ。埃もしっかり堆積していて、先生と布施さんが歩いたところに足跡がくっきりつくくらいだった。僕たちの足跡以外ないことから、ここの階段を上った人間は直近いなかったことが想像できる。

 そんな、ところどころ痛んだ木製の階段をぎしぎし上る。何だか『学校の怪談』に出てくる旧校舎みたいだと思いながら先に進んでいくと、地下室と同じような狭くて細い廊下に辿り着いた。ここにも埃の絨毯。足跡はない。地下室と違うところは、ところどころに窓があり、明るい日差しが床を四角く切り取っていることだった。先生が口を開いた。

「二号室の鍵がないと言ったか」

 布施さんが頷く。

「じゃあそこに行ってみるか」

 先生がつぶやくと布施さんが先立って歩いた。歩調から察するに、二号室というのは廊下の突き当りにある部屋のようだった。

 部屋の前に来る。

 木製の小さなドア。床と戸板との間に僅かな隙間があるが、そこから光は差し込んでいない。ゆえに中に人はいない。なのに。

 ドアノブに布施さんが手をかけ、揺する。開かない。鍵がかかっている。

「いかがいたしましょう」

 布施さんが不安そうに先生を見つめる。暗に「ドアを壊していいか」ということを訊いているようだった。先生もそれを察したのか、すぐさま許可を出した。

「姉さんには俺が言っておく」

「では」

 布施さんが肩を丸めて数歩下がった。僕は体を固くした。

 布施さんは大柄というわけではないが、成人男性の平均的な体格は十分満たしていた。

 そんな体が何度も戸板に当たる。三回目の突進。ぎしりと板が軋んだ。

「もう少しだ」

 先生が声を上げると、それに力をもらったのか布施さんがさらに体を丸めて勢いよくドアに突っ込んだ。果たして四回目で戸板は大きく傾いた。

「よし、押し崩そう」

 今度は先生がドアを蹴る。そうしてやっとのことで、ドアは開いた。三人でゆっくり中に入る。

 先生は壁を撫でて照明のスイッチを探した。すぐさま、パチリと音がして明るくなった。

 壁を見た。柱の一部であろう、でっぱり。それから小さなシャッター。非常灯のような壁付けのランプ、ブレーカーボックスに、何故かおもちゃのようなデザインの大きな置時計。

 そうして部屋を眺めていた僕たちは、すぐに硬直する。

 部屋の片隅。

 そのあまりの衝撃に、僕は自然とそれから目を逸らした。呼吸が荒い。呼吸が、荒い。

 腰くらいの高さはある大きな壺、ちょっとした木箱、それらの凸凹は被せられた一枚の布によって滑り台のように足元まで伸びていた。そして、その先に。

 小さな木箱の傍、それに被さった布の端を踏むようにそれはあった。見るも無残なそれを僕はじっと見つめた。

 まるで、壊れたおもちゃのような。

 だらりと投げ出された小さな四肢。

 赤いシャツ。

 短く切り揃えられた髪の毛。

 それが生えたキャベツくらいの大きさの頭は、あらぬ方向に向いていた。壊された赤ちゃん人形だと言われれば大いに納得できただろう。

 先生が止めていた息を吐き出す。

 その時になってようやく、僕はそれの正体を認知する。

 冷たくなった、動真くんの骸……。



「嘘でしょ。ねぇ、嘘でしょ」

 報せを聞いてまず真っ先に崩壊したのは、やはり沙也加さんだった。彼女は刹那、発狂した。

 あはは、と笑っている。

 しかし目に浮かんだ涙はもう限界で、すぐに決壊した。

 不気味な笑顔と零れるだけの涙がひどくアンバランスで、僕は思わず、うっとりと凝視した。

 人が壊れる時の、何と美しいことか。

 無神経だと罵られなければ、僕は危うくメモを取っていたところだろう。その場を表現できる適切な言葉を探して、それをメモ帳に書き留めていたことだろう。それが小説家としてのさがだ……物書きとしての業だ。いや、この時僕ももうおかしくなっていたのか。混沌と狂気の渦に飲まれていたのだろうか。

 時曽根沙也加に続いて、今度は一照氏が崩壊した。膝をつき、うずくまり、やがて咆哮を上げた。誰もがその様子を静かに見ていた。

 布施さんが運んできたその憐れな子供の死体は、隣の部屋のテーブルに置かれていた。検死をしたのはもちろん柊木医師だった。

 しばらくしてそのドアが開き、中からやってきた柊木医師は手短に告げた。

「頸椎損傷が死因です。死亡推定時刻は今から三時間から四時間前……八時から九時頃のことでしょうな」

 全員が息を止めながら、しかし嘆息した。

「静真くんと同じ死因です。頸椎を損傷したのと同じタイミングで気道と大動脈が閉塞したでしょうから、意識は一瞬で落ちたでしょう。それが救いと言いますか……」

 沙也加さんの、絶叫。

 楓花さんがその背中を擦りに行く。しかし沙也加さんはそれを突っぱねる。

「何よ! あんた喜んでいるんでしょ。静真と動真が死ねば遺産は瑠香と登也と千花に流れる。だからそうよ、だから……」

 それから沙也加さんはヒステリーを起こした。

「あんたらだ! あんたらが静真と動真を殺したんだ!」

 そう、楓花さん、利喜弥さんを指す。しかし沙也加さんはすぐにその怒りの矛先を、利喜弥さんの妻、里佳子さんにハッキリと向けた。

「あんたが……あんたでしょ……許さない……許さない!」

 里佳子さんに掴みかかろうとした彼女を、夫の一照さんが止める。

「沙也加……沙也加……よそう。もうよそう」

「何よっ、この臆病者。卑怯者。あなたはそうやっていつも、子供たちより自分のことばかり……」

「沙也加」

 大きな声が響いた。女性の声。凛とした声。

「おやめなさい」

 ゑいかさんだった。彼女は険しい表情のまま沙也加さんを律した。

「これは時曽根家を襲った危機です」

 今度は打って変わって静かな声だった。

「時曽根家一丸となって立ち向かわなければなりません。それを何ですかあなたは。兄妹のせいにして」

「うるさい!」

 沙也加さんはまたも叫んだ。

「姉さんには分からない!」

「いいえ。分かります」

 ゑいかさんはきっぱりと告げた。

「子供を失うのは辛い」

 ここで沙也加さんの糸が切れた。

 声にならない声を上げて。

 床に蹲る。そして床板を何度も殴る。

「……もう一つ、発見が」

 柊木医師が、場の空気を読みながらつぶやく。彼は一つの鍵を取り出した。

「動真くんの手にありました。どこの鍵か分かりますか」

「前川」

 布施さんの声に一人の使用人が前に出る。地下室の捜索の時に旧洗濯室の鍵を持ってきたあの人だ。

「どこの部屋の鍵か分かるか?」

 前川さんはその質問に応えるべく、柊木医師から鍵を受け取って、しばし眺めた。それから告げる。

「……屋根裏二号室の鍵です」

 空気の硬度が増す。つまり動真くんは鍵を持ったまま、屋根裏の部屋の中で死んでいた。

 布施さんが、周囲の様子を見ながら一言告げた。

「警察が来るのは、今夜十時頃になりそうだとのことです」

 それから続けた。

「それまでは駐在所の石島さんが警護に当たってくれるそうですが、何分彼も一人、できることは限られます。つまり……」

 自衛を、求められる。

 彼は暗にそう告げた。

 そして恐慌に陥ったのは、今度は利喜弥さんの妻、里佳子さんだった。

「瑠香……瑠香」

 虚ろな目で我が子を探し始める。

「瑠香、どこなのあなた。いったいどこに……瑠香!」

 楓花さんが登也くんと千花ちゃんを抱き寄せた。二人の子供は、狂い始めた大人たちを指を咥え、じっと見ていた。

「瑠香を探そう」

 先生が口を開いた。

「これ以上ひどくなる前に」

 先生のその言葉を受けてから、僕は窓の外を見た。

 いつの間にか、雪が静かに降っていた。

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