終章 ここから また はじまるんだ


−翌 日−


俺は病院を退院した後、事情が事情だけにコバヤシが気を利かせたのか、とりあえず今日の補習は休んでいいという、連絡をもらい、自宅の部屋で横になりながら、とりとめもなく、天井を眺めていた。


−タカハシ君 本当に諦めていいの −


ヤノのその言葉だけがエンドレスにリピートしていた。

俺はこのまま家にいても息が詰まると思って、ジャージにサンダルという格好で家を出て当てもなく外をぶらつくことにした。相変わらず外はホットプレートの様に暑くてセミはもう断末魔に近い位叫んでいる。


−俺は 本当はどうなんだ? どうしたいんだ? −


答えのない問いを永遠とグルグル頭の中で回転させながら、ふと気づくと俺は、小学生時代に通っていた柔道場の前にいた。あの頃はよかった。全てが単純でバカの俺でも、理解できる世界だった。

今ではどうだ。柔道で人を殺めて、柔道しか取り柄のない俺はまさに伽藍洞だ。

放心状態で門の前で立ち尽くしていると、俺は背中を思いっきり、バン、と叩かれた。俺は驚いて、振り返るとこの柔道場の師範である、タニグチ先生が満面の笑みで立っていた。


「タカハシ、ひっっさしぶりだなぁ、元気にしてたか?いいから上がれ上がれ。」


と、半ば強引に俺はもう、上がるまいと思っていたに柔道場の敷居をまたいだ。

懐かしい畳と、汗の匂が立ち込める道場には、夏休みだからだろうか、小学生から高校生までの学生たちが、一生懸命汗を流していた。彼らの顔には、覇気と、ある意味不屈の魂が現れていた。


− そう、今一番、俺にはないものが彼らにはあった –


俺は眩しいものを眺める様に、その光景を見ていると、タニグチ先生は


「タカハシ、お前はバカだ。」


と、いきなり突拍子もないセリフが聞こえてきた。ただ、責める様に言うのでなく、穏やかに諭すような口調だった。だが、ただでさえ混乱している俺はその意味がつかめずにさらに混乱しているとタニグチ先生は


「例えばだ、車で行き交う道路がある。そこには仮に横断歩道があるとする。横断歩道の信号は赤だ。それを無視して、強引に渡って、ひかれたら、100パーセント車が悪いと言えるか?」


俺は、この問いにどう答えていいか、戸惑っていると先生は


「責任は半々イーブンなんだ、いいか、タカハシお前は責任感が強いから、100パーセント自分が悪いと思っていると思うが、それは間違いなんだ。あの試合は俺も見ていたが、イノウエは受け身がちゃんと決まってなかった。あれは、ちゃんと決まっていれば、そんなことにはならなかった。第一タカハシ、お前は、試合中にナイフでイノウエを刺したか?」


俺はあの試合の光景を思い返しながら、強く左右に首を振ると先生は


「お前はちゃんと、礼によって試合を始めルールに則って戦った。そこに何か相手に対して引け目に感じる、違反はあったか?」


俺は、戸惑いながら、そして救いを求める様に、先生の瞳をただ見つめて


「いえ、ありませんでした。」


と、だけ、呻くように言葉を吐くと先生は


「なら、柔道を辞める理由にはならない。タカハシいいか、明日からまた俺の道場に来い、そのひよってふにゃふにゃになった根性を叩き直してやる。いいな。」


と先生は、また俺の背中をバンバンと叩いた。俺は暗い雨雲から一条の光が刺したかの様に先生を見て


「先生、俺はもう一度、柔道をやってもいいんでしょうか?」


それを聞いた先生は腹を抱えて、大笑いしながら


「お前にはそれしかないんだろう。いいんだよ。世界中の他の奴らがダメだと言っても俺は許す。

だからタカハシ、自分の望む人生を歩め。ほかの奴らは気にするな。

何はともあれそれがお前の人生なんだから。俺はお前を信じているし、何かお前に指さすようなことをする奴は俺がぶん投げてやる。」


と、言い終わった後の先生の瞳は強い意志と俺に対する信頼の気持ちが伝わってきた。俺は自然と、救われたような思いでいつの間にか目から涙がこぼれていた。


「先生ありがとうございます…ありがとうございます…」


泣き崩れた俺を見ながら、先生は、笑いながら真剣な瞳で


「将来のメダリストが泣くもんじゃない。」


と、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


− 翌 日 –


俺は、柔道着に着替えて朝の五時に家からランニングを始めて、一時間ばかり走り終えた後、タニグチ先生の道場に入った。その時間は先生が一人、道場で訓練しているのを俺は昔から知っていた。先生は、俺が来たのが、わかると


「タカハシ、おはよう、もう準備運動を済んでいるよな。俺もちょうど今、終わったところだ。組手の練習をするぞ。」


俺は、もう二度とすることはないと思っていた、柔道を今再びしようとしている。そう、これが俺の全て、もう人生と言っても言い過ぎではないものだ。補習が始まるぎりぎりまで俺は先生にコテンパンに投げられ続けられたが、不思議と悔しさや痛さは感じられなかった。むしろ投げられるたびに、俺の心の鎧が一つまた一つとはがされ落とされるような気がした。


俺の柔道は、そして人生は


− ここから また はじまるんだ –

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