「博之ー。ちょっと、博之ー!」

「えっ!」

 遠くからお母さんの呼ぶ声がすると思ったら、そばでは目覚まし時計が鳴り響いていた。

 僕は慌てて起床し、着替えて、学校へ向かった。幼い頃からいつまで経っても自分一人でまともに朝起きることができず、しょっちゅう遅刻しそうになっている。


 授業開始を告げるチャイムが鳴り、国語の枝村先生が教室に入ってきた。

「えっと、この前どこまでやったかな?」

 先生はいつものように教科書をめくって一番前の席の人に前回の授業のとき終わった箇所を確かめ始めた。

「先生」

 僕は手を挙げた。

「ん?」

「教科書を忘れました」

「ああ? なんで他のクラスから借りてこないんだ? 忘れたらそうするように言ってあるだろ」

 先生は怒り気味の表情になった。

「すみません。今、気づきました」

 本当は、貸してもらえるような関係の相手がいないのだ。

「ったく、しょうがないな。隣に見せてもらえ」

 先生は冷たく言った。

「はい」

 僕はお願いしますと頼む気持ちで頭を下げて、横の席の中島さんに顔を向けた。中島さんはすごく嫌そうに、でも先生に言われたから仕方ないという様子で、僕たちの席の間に教科書を叩きつけるようにして置いた。

「ハー」

 ほおづえをついて、大きなため息を吐いた。

「すみません」

 こんなつらい思いをするのがわかってるんだから忘れないようにすればいいのに、朝起きれないことといい、駄目な僕を自分でも嫌になる。


 休み時間になり、席でぼーっとしていると、クラスメイトの盛田くんが僕のところに来た。

「よー、佐原くん。教科書忘れちゃって、相変わらずだねー」

 別に仲が良いわけでもないのに、馴れ馴れしい態度で僕にまとわりついてきた。

「うん……」

 できればどこかに行ってほしい。いつも人の嫌がることをしていくんだから。

「ねえ、暇なんだけどさ、何か面白いことない?」

 僕は黙っていた。何がきっかけで嫌なことをされるかわからないから、できるだけ何もしないほうがいい。

「おい、あるだろ? 面白いもの。わかってんだよ」

「え?」

 しゃべらないと怒りそうな気配を感じ、僕は声を発した。

 すると、盛田くんは小声で言った。

「お前、ゲームワールド持ってきてんだろ?」

「え?」

 今度は素で言葉が出た。なんでそれを。

「清家から聞いたんだよ」

 清家くんは別のクラスの人で、どうしてか僕がゲームワールドを持っていることを最近知ったらしく、自分に貸すために学校に持ってくるように僕に命令したのだ。嫌だったけれど、断ると何をされるかわからず、仕方なく持参したのだが、どうしてそれを他の人に話しちゃうんだろう? 盛田くんと友達なのかもしれないけれども、黙ってるほうが清家くんにも都合がいいというか、安心なんじゃないのか?

「みんなに言っちゃおうかなー。いい?」

「いや……」

 わかってるくせに。僕は動揺しているのを悟られないほうがいいと思い、平然といった感じで首を横に振った。でも、表情には不安がはっきり表れていたかもしれない。

「じゃあさ、あそこに寺井いるじゃん?」

 教室の後ろの窓の近くで、他の何人かの男子たちと楽しそうにしている寺井くんを指さした。

「あいつ、すぐにでしゃばって、ムカつかねえ? あいつのこと殴ってくれたら、黙っててあげるよ」

「え? でも……」

 そんなこと、できるわけない。それに、もしやったとしても、言わないでくれる保証もない。みんなに知られたら、先生まで伝わってゲームワールドを取り上げられるかもしれない。その場合、後で返してはもらえるだろうから、僕にとっては助かる面もある。だからみんなにしゃべる気なんてないのかもしれないけれど、従わないと違う嫌なことはするだろう。

「大丈夫。もし怒ったら、すぐに助けてあげるからさ」

 絶対に嘘だ。

 少しの間じっと口を閉ざしていると、盛田くんは不機嫌な感じになった。

「早く行けよ。休み時間終わるだろ。バラされてーのかよ」

 そうだ。考えてみたら、清家くんみたいな人は僕からじゃなくてもゲームワールドを手に入れるくらい難しくはないだろうし、盛田くんがみんなに言い触らして、先生に取り上げられる結果になったって、別に構わないのかもしれない。あるいは、盛田くんだけがそういう認識なのかも。

「わかったよ」

 バラされたくないので仕方なく、僕は寺井くんのもとへ近づいていった。

 でも、やっぱり無理だ。寺井くんは盛田くんみたいに嫌なことをする人じゃないけれど、かといって僕に優しくもないし、それ以前に誰が相手だろうといきなり殴るなんてできるわけがない。

 そう思って振り返ると、盛田くんが僕のカバンを勝手に開けてゲームワールドを出しかけて、今にもみんなに見せびらかそうとしていた。

 僕は覚悟を決め、背後から寺井くんの肩の辺りを叩いた。

「あ?」

 そんなにというか、ほとんど痛くないだろう強さだったけれど、寺井くんは腹立たしそうにこっちを向いた。

「何やってんの?」

「いや、何でもない」

「何でもないじゃないだろ。叩いただろうよ」

 寺井くんは威圧的に僕に詰め寄った。

「ごめん。ちょっとぶつかっちゃって」

「嘘つけ。どうやったらこんなふうにぶつかるんだよ」

 寺井くんは僕がやったように、そして僕よりも強く、僕を叩いた。

 すると寺井くんに対して、一緒にいた久松くんがしゃべった。

「やめとけ。ほっとけよ」

 続けて僕にも声をかけた。

「あっち行ってろよ、お前」

 汚い虫でも追い払うように手を動かした。

「あ、うん」

 久松くんは僕を助けてくれたわけじゃなく、つまらない奴に時間を取られたくないという意識だったようだ。

 それでも助かった。僕は寺井くんたちから離れた。

 あれ?

 自分の席に目をやると、盛田くんがいなくなっていた。捜すと、少し先にある本人の机に移動していて、僕の席を指さした。

 それでまた自分の席に視線を移し、着くと、見えていたけれど机の上に僕のノートが一冊、ペンを挟んだ状態で置いてあった。盛田くんがノートを開けというジェスチャーをするので、ペンがあるところをめくると、「次は好きな女子に告白をしろ」と書かれてあった。

 ……もー。

 僕は盛田くんに顔を向けて、首を横に大きく振った。すると、盛田くんは僕のカバンを持っていて、中からまたゲームワールドを出そうとした。僕が「やめて」という動きをすると、「じゃあ行けよ」という身振りを返してきた。

 観念して一瞬行きかけたけれど、やっぱり無理だと思い、立ち止まった。今度は本当に絶対に無理だ。盛田くんはちょっと大きな声で話せば僕の耳に届く距離にいるが、敢えて言葉は発さずに「行け」と口を動かした。続けて「行けよ」と、口に加え手でも示し、僕に告白しにいくよう命じた。

 それでも直立不動でいると、盛田くんは腹が立った様子で、おそらく本気でゲームワールドを取りだそうとした。

「おい、みん……」

 そう声も出しかけた。

 ところがそこで、ゲームワールドを持った盛田くんの手を誰かがつかんだ。

 驚いた顔で、盛田くんは振り返った。

「黒川」

 手首をつかんだのは、別のクラスの生徒である黒川くんだった。

「何だよ、お前」

 そう口にした盛田くんに、黒川くんは冷静に答えた。

「返してやれ」

「ああ?」

「返してやれって言ってんだよ」

 黒川くんはつかんでいる盛田くんの手首を強く握りしめたようだ。盛田くんの表情がゆがんだ。

「何なんだ、てめえっ。ふざけんなよ!」

 盛田くんは黒川くんの手を振りほどいて、突っかかった。

「ケンカしてえなら、やってやんぞ、コラ!」

 大きい声で、教室にいる生徒たちは一斉に静かになって注目したものの、関わったらやばいと判断したようで、何事もなかったように元通りしゃべったりしだした。

「おい!」

 再び盛田くんは黒川くんを威嚇した。

「やめとけ!」

 廊下から声がして、ドアのほうを見ると、それは清家くんだった。清家くんは黒川くんと同じクラスだ。

「なんでだよ?」

 声をかけられた盛田くんが清家くんに不満そうな表情をした。

「木塚たちがゲーセンの外で誰かにボコられたって話したろ? どうやらその相手、黒川だったみたいだ」

 え? もしかして、塾でパトカーのサイレンを聞いたやつかな。

「マジで?」

 盛田くんの顔が青ざめた感じになった。木塚って人は知らないけれど、「たち」って言ったから、複数の人を相手にしたってことだよな。

 ずっと冷静な黒川くんは、盛田くんから僕のカバンを奪うと、僕を見て、上に向けた人差し指をクイクイと動かした。

「来いよ」

「え?」

「これ、要らねえのか?」

 僕のカバンを示した。

「あ、要るけど……」

 それで近づいていくと、黒川くんは「一緒に来い」といった様子で廊下に出て、さらにどこかへ歩いていくので、後をついていった。

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