ヨミヤミヒメ ~黄泉の女神は闇に病み~

【読んで応援❗カクヨムコン】亘理ちょき

第一部

01 凪と紗名

「ハッ、ハッ、ハッ――」


 走る。

 木々が鬱蒼と生い茂る山の中、道なき道をひたすらに走る。


 息を切らしながら振り返った先に見えるのは、真っ黒な影。

 すでに日も落ち暗闇に包まれた視界の中で、なおはっきりと分かる黒い影。


 あれは一体何なんだ。


 人の形をしているようで、人ではない何か。


 『あれ』に、捕まってはいけない――本能が、遺伝子がそう告げる。


 泥だらけの足元も、顔にかかる蜘蛛の巣も、もはや気にしてなどいられない。むしろこちらを見失ってくれることを願って、自ら進んで藪の中へと突っ込んでいく。


 だが――


 どれだけ走ろうとも、振り切ることは出来なかった。

 影はこちらの速度が落ちればそれに合わせて速度を緩め、速度を上げればその分速くなる。

 一定の間隔を保ちながら付かず離れず追ってくるその様子は、まるで獲物を追い詰めて楽しんでいるかのようだ。


「くっ……!」


 焦りと苛立ちが、吐息とともに漏れ出す。


 だが、あと少し――もう少しで山を抜け、人里に出られるはずだ。疲労は極限に近いが、そこまで行ければ、きっと――


「――――!!」


 突然、何かに足を取られて斜面を転げ落ちる。

 すぐに体勢を立て直し、再び走り出そうとして――足が前に出ないことに気が付いた。


 はっとして足元を見ると、黒い影の一部が触手のように伸びて自分の足に絡み付いている。


 細く、長く、絹糸のように伸びた影がまとわりつくその様は、質感といい強度といい、まるで真っ黒な毛の束のようだ。


「!?」


 次の瞬間、強烈な力で一気に引き寄せられ、視界が激しく揺れた。

 抗うことなど許されない、圧倒的な力の差。ぬかるんだ地面を無造作に引きずられながら、諦めの感情が心の中に広がっていくのがわかる。


 動きが止まって一秒、二秒――

 もう逃げ出す気も起きない。


 すぐそばで聞こえる何者かの息遣い。目を閉じて寝転んだ体勢のまま、ただじっと『その時』を待つ。


 やがて――風が枝葉を揺らす音に混じって、静かだがやけに通る声が響いた。


「今回は――ここでおしまい」




「――――!!」


 蝉の声と、見慣れた自室の風景。

 閉め切った部屋には西日が差し込み、気付けば汗が滴となって流れている。


「なん……だよ……」


 八尋やひろなぎは大きく息を吐くと、ベッドから身を起こした。


 以前から時折見る悪夢だ。細かい部分は覚えていないのだが――毎回同じ内容をなぞり、同じところで目が覚める。


 日々の生活において特に何かストレスを抱えているでもなく、身体的にもいたって健康。なぎ自身、悪夢を見るような要因には心当たりがない。


 だが、最近は以前にも増してこの夢を見る頻度が増えてきている気がする。何かの暗示だとでもいうのだろうか。


「ふぅ……」


 ベッドに再び身体を投げ出す。


「体……だりぃ……」


 あんな夢を見ていたのだ。頭も体も全く休まっていないのだろう。

このままもうひと眠りしてしまいたい、そう思って目を閉じたその時だった。


なぎーー!! なぁーーーーぎぃーーーー!!!!」


「……うぅ」


 屋外から能天気な声が響き、なぎが小さく呻く。

 よろよろと立ち上がり窓を開けると室温にも増して熱い風が吹き込み、湿気をはらんだ緑の匂いが部屋いっぱいに広がった。


「みっこたちもう来てるよー!! 早くー!」


 浴衣姿でこちらに向かって手を振るこの少女の名前は平坂ひらさか紗名さな。隣家に住む幼馴染だ。

 『隣家』と言っても神社であり、紗名さなはそこの一人娘である。


「早くしないと『鏡送かがみおくり』始まっちゃうじゃない!」


「そんなに焦んなくても目と鼻の先なんだから……」


 八尋やひろ家は紗名さなの実家である千守ちもり神社の敷地の一角を占めるように存在する。

 何故このような区割りになったのかはわからないが、これまで特にトラブルなどが起こったこともなく、両家の関係はいたって良好であった。


 そしてこの両家に同年同日に生まれた、なぎ紗名さな

 二人は幼いころからまるで兄妹のように育てられてきた。


「ほら早く! はーーやーーくーー!!」


「うるっせーなー、聞こえてるっての」


 矢のような催促にぼやきながら着ているものをその辺に脱ぎ、その辺に落ちている別の服を着る。


「財布、よし。スマホ、よし」


 最後に寝癖を手で撫でつけると、なぎ紗名さなの待つ炎天下へと足を踏み出すのだった。






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