第28話 弱らせないで

 ステージの上ではかなり知名度のある歌が演奏されていて、観客席から割れるような拍手と歓声が飛び交っていた。

あまりに大きな反響に思わず唾を飲み込む。


 私達が数万人の前に立ったところで何人が叫んでくれるだろうか。

顔がよく見えないほどにたくさん居る人達の中で、私達目当ての人は何人居るのだろうか。

そう考えてしまうと恐ろしいほどの寒気が走った。


 幸が私を振り向き、私の分けられた前髪をそっと撫でる。

「さっきよりメイク、いい感じかも。もう泣かないでよ」

苦笑いの中に滲んだ優しさを掬い取って、「頑張るね」と笑って答えた。


 前の出演者の足音が聞こえる。

ちらりとステージに目をやると、男性アイドルグループが観客席に手を振りながら反対側のステージ裏へと抜けていった。


 幸が決意の込もった目でこちらを見る。

スタッフのサインを確認して、一歩踏み出した。


 私達を見て上がった歓声を聞き、身体を支配していた緊張の糸が一気に緩む。


 とびきりの笑顔を作って手を振りながらの登場。

 聞き慣れたイントロ。もう間違えない立ち位置。麗香の歌いだし。

それに初めて聞く掛け声が加わって、ようやくファンの存在意義を理解する。


 私達のデビュー曲はファンの歓声と、手拍子と、掛け声が足されて初めて完成した。


 ___私が一瞬耳を触ったことに気づいたファンは、きっとそう多くない。


*


 控室に入って真っ先に水を飲んだ。

この暑さが興奮のためか気温のためかは分からないけれど、汗の不快感をも吹き飛ばしてしまうくらいの達成感が私の頭を支配していた。


 湧き上がるような歓声を思い出して、噛みしめるように水を思い切り飲み込む。


 麗香は衣装とセットになっていたベレー帽を乱暴に取り、真っ赤な顔を顰めながらペットボトルを手に取った。

喉を鳴らしながらパタパタと衣装と肌の間に空気を送り込む麗香。

衣装の下に隠れた白い肌が見えてしまいそうで、咄嗟に目を逸らす。


 「お疲れ」

そう言って笑ったのは心晴だった。

珍しい行動に思わず笑みをこぼす。

その笑顔があまりに眩しいから、愛おしく思えてくる。


 「あんたも可愛くなったね」

麗香は心晴の頭を雑に撫でた。

一瞬胸に滲んだどす黒い感情を振り払うように、水をもう一口飲み込む。

面倒くさい女にはなりたくない。


 心晴は鬱陶しそうに麗香の手を払うと、小さく息を呑んで迫真の表情を作った。

「写真は?!ブログに載せるやつ!!撮らなくていいの?!」

「......裏で撮ったやつあるでしょ。もうそれで良いよ、面倒くさい。」

幸の予想外のコメントに胡桃が笑う。

「思ったより適当。まぁリーダーが良いって言うなら良いよね」


 「そういえば佳世乃、イヤモニ大丈夫だった?ずっと耳気にしてたから、心配だったんだけど」

「......うん。大丈夫だよ、何も問題なかった」

我ながらぎこちない答えになってしまったと思う。

恥ずかしさでスカートを握りしめる。麗香の顔が見れない。


 「そう?なら良いけど、なんかあったら直前でも良いから言ってよ」

優しい言葉が私を責める。


 「大丈夫......あ、えっと、そうだ」

慌てて話題を逸らそうとして大切なことを思い出す。

荷物の中に入れた小さな保冷バッグから、二本の大きなジュースを取り出した。


 「いるかなって思って持ってきたんだけど飲む?紙コップもあるよ」

心晴は真っ先に目を輝かせて「コーラ欲しい!!」と大きな声で言った。

笑いながらコップにコーラを注ぐと、心晴は口角を緩ませてコップに口をつけた。

「大好き!!マジ天才だと思う」


 「ありがと佳世乃!!私もコーラもらっていい?」

「かよちゃんありがと、めっちゃ助かるよー。えっと......じゃあ、胡桃はオレンジジュースもらうね」

次々と手を上げるメンバーのコップにジュースを注ぎ込む。


 「乾杯しよー」

胡桃は柔らかい声でそう言って、コップを軽く掲げた。


 「えっと......うーんと......」

リーダーの肩書を背負って乾杯の音頭をとろうとする幸。

幸は視線を落としてしばらく思考を巡らせた後、爽やかな笑顔で「......乾杯!!」とジュースが零れそうなほどに勢いよくコップを掲げた。


 小さく笑ってコップに口をつける。

麗香は私のコップを手に取ると、許可もなく口をつけて美味しそうにジュースを飲み込んだ。


 今更間接キスがどうとか気にしないけれど、麗香が何も気にしていないというのもそれはそれで気に食わない。

ため息をついて返却されたジュースを呷る。


 麗香だって私と同じオレンジジュースを飲んでいるのだから、私のコップで飲む必要はないのに。

上がりかける口角を戻して、麗香を見つめた。


 私の方なんて少しも見ずに広げる余裕の笑みが癪に障る。


 不満に思いながら麗香を見つめると、ふと目が合った。


 麗香はニヤリと不敵に笑って、私の耳たぶを爪で軽く挟んだ。

咄嗟に口を手で塞ぐ。


 私を見て麗香は一層楽しそうに笑った。


 それでも腕を組まれると、私はそれを振りほどくことは出来ない。

私は弱い。悔しいほどに弱いのに、もっと私を弱くさせる麗香が憎らしかった。


 「ねぇ、知ってる?」

麗香が視線を戻して甘い声で尋ねた。


 「今日、デビューしてからぴったり五ヶ月なんだよ」

「......えっ、もうそんな?」

心晴が素っ頓狂な声を上げるから、私は思わず笑ってしまう。


 「日にちは分かってたのに!!」

悔しそうに顔を歪める幸。

「今日だって分かんなかった......」


 「え、そんなの気にしてなかった」

「私も」

胡桃に同意すると、彼女は私を見て困ったように笑った。


 「皆そんなことも把握してないの?」

茶化すような声色が耳をくすぐる。

麗香はこれ以上ないほどに憎たらしい笑みを浮かべた。


 「本当、呆れちゃうよ」


 感心したように声を漏らす心晴。

顔を顰める幸。苦笑する胡桃。


 私達が初めてフェスに出演したこの日を締めくくったのは、意外な人物の意外な一言だった。

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