第27話 来ないで

 何も言わなかった。


 ただ何も言わずに私を見つめた。

信じられないように私を見つめる瞳が微かに揺れる。

ずっと動じなかった彼女の中の固い何かが、同時に揺れたような気がした。


 ふとその瞳を見ていると泣きたくなることがある。


 それがなぜかは分からない。

分からないけれど、怖いほどに整ったその顔に見つめられると何か込み上げるものがあった。

それが恐怖なのか喜びなのか疑心なのか、それ以外か、はたまたそれが混ざったものか、私はそれすら分からない。


 ただ確かなのは、それが喉元まで込み上げると私は泣いてしまうということ。


 私が嗚咽を漏らしても麗香は何も言わない。

頭を軽く押されてそのまま彼女の肩の上に顎を置くと、もう涙が止まることはなかった。


 情けない、だらしない。今の私を形容する言葉がいくつあるかなんて考えたくもないほどに、私は弱かった。

けれど麗香はそんな私を抱きしめてくれるから、勘違いしてしまう。


 今まで無理矢理飲み込んできた寂しさや孤独感を全て麗香が満たしてくれるんじゃないか、と。


 パタパタと誰かの足音が聞こえて、「あ、すみません」と麗香の低い声が私の肩を震わせた。

「駐車場に黒のワゴンカー停まってたら、所有者を会場から出してください」

「......え?」

「兄なんです。出所後で精神が安定してないみたいで、暴れそうなので。TOONSのマネージャーに警備員を出して欲しいって言っといてください」

「......え、あ、分かりました。TOONSの麗香さんですよね?」


 「......はい」

どすの利いた声が響く。

分かったら早く行け、と言うように。

「分かりました。伝えておきます」

そそくさと去っていく足音が聞こえた。


 泣きじゃくるメンバーに抱きつかれながら冷静に出所後の兄の話をする麗香は、スタッフの目にどんな風に映ったのだろうか。


 スタッフや出演者の声が飛び交うステージの裏で、しばらく泣いていた。


 その間麗香が口を開くことはなく、私を抱いた腕を離すこともなかった。

麗香の生ぬるい体温に一層頬を濡らす。

怖いくらいにその温もりを手放したくなかった。


*


 「かよちゃん?!」

控室に入った瞬間、最初に私を見て声を上げたのは胡桃だった。


 「どうしたの?!何があったの?!」

幸に言われて気づく。

涙は止まっても、涙の跡と鼻の赤みというのは中々消えないことを。


 心配そうに私を見上げる胡桃を見て微かに罪悪感を覚えた。

ずっと昔の思い出を引きずっている私が悪いのに、どうしてこうも迷惑をかけてしまうのだろう。


 口を開きかけて、すぐに閉じる。

事情を話したらまた泣いてしまいそうだったから。


 喉まで込み上げた熱いものを無理矢理飲み込む。

いつもように喉がぎゅっと痛くなり、私は苦しさに涙を浮かべた。


 情けない。


 「あたしのお兄ちゃんと会ったんだけど、あんまり良い関係じゃなくて、思い出しちゃうことが色々あったんだよ」

妙に冷めた声で麗香が言った。


 これ以上掘り下げてはいけないと察したのか、胡桃は「そう......」とだけ言って私から離れた。


 「......大丈夫?」

心晴が眉を顰める。

あんまり優しくされると言うつもりのないことが口から溢れ出てしまいそうで、私はそれを塞ぐように「大丈夫。メイクはもう一度してもらうから、申し訳ないけど」と言った。


 「......そうじゃないけど......大丈夫?フェス出れる?」

「うん」


 強く頷いた。

それだけは成し遂げなければならない、迷惑だけはかけたくないから。


 「まだ時間あるよね?」

幸が時計を振り返って「あと二時間」と呟く。


 「ありがと。ちょっとお手洗い行ってくるね」

躊躇うような足音は聞こえても、私を引き止める人は居なかった。


*


 鏡に映る自分を見つめる。

泣き腫らした顔はアイドルには到底見えなくて、今にも壊れてしまいそうなロボットのようだった。


 柔らかいオレンジ色の光が優しく私を照らしても笑顔にはなれない。

笑顔は作れない。


 声にもならない声を上げて、乱暴に髪を掻き上げた。

最近の私はおかしい。

とにかく苦しい。苦しくてたまらない。

笑いながらも、冗談を言いながらも、どこか息が上手く出来ていない気がする。


 取り込んだ酸素が、その瞬間にどこかから抜けていってしまっているような。

そんな気がした。


 「知ってる?」

聞き慣れた声が響いた。


 「トラウマって動悸とか呼吸困難とかの症状が出るらしいよ」

私の隣に来るのが当たり前かのように現れて、麗香は洗面台に腰を掛けた。

また、心臓が大きく飛び跳ねる。

ドキドキなんて可愛いものじゃない、私はその姿に恐怖すら覚えていた。


 「お嬢さん、最近元気がないのはそのせいですか?」

膝に頬杖をついて茶化すように言う。

「......違うよ」

「へぇ?」

何が言いたいの、と尋ねるように片眉を上げた。

悪戯な表情から目が離せない。


 「......もし私より可愛い子が......麗香に近づいたらどうしよう」

あれ、私何を言ってるんだろう。

意識していないのに言葉がぽろぽろとこぼれる。


 麗香の表情を見ることすら恐ろしい。


 「......そんな子いないよ」

「いるよ。私より可愛くて、麗香のこと好きだったら、どうしよう」

「いないよ、佳世乃」

「いるの。そうしたら麗香の一番は私じゃなくなる」

「佳世乃」

「じゃあ私はどうなるの?こんな人間愛してくれる人なんて絶対に居ないし、目の前から麗香が居なくなったら、私はどうすればいいの?私は誰の一番になればいいの?私はいつまでも好きな人には好きになってもらえないの?もし麗香がその子と海外にでも飛んでいって、結婚したらどうすればいいの?私は麗香とどうでもいい女の子の結婚式に行かなきゃいけないの?麗香が他の女の子とキスするところを、どんな気持ちで眺めてればいいの?私は___」


 「佳世乃」

現実に無理矢理引き戻すように、強く肩を掴まれた。

「落ち着いて、佳世乃」


 「私......私___麗香が好き、麗香が私に優しくすればするほど好きになっちゃう。でもいきなり捨てられたらどうしようって、凄く不安に___」


 強引に胸ぐらを掴まれて、今までで一番激しく唇を奪われた。

隙を与えずに舌がぬるりと滑り込む。

拒否したいのに、その感触に脳が溶かされて何もできなくなってしまう。


 怖いほどに気持ちが良い。

彼女が私に快楽を与える度胸が張り裂けそうになるのに、やめられない。

だって私はそれほどに光井麗香が好きだったから。


 「馬鹿なこと言わない。」

荒い息遣いの間に、言葉を滑り込ませる麗香。


 「あたしは何年も何年もずっと待ち続けてきて、やっとハグもキスも全部受け入れてくれたのに、どうしてあたしが佳世乃から離れなきゃいけないの?冷静になりなよ、佳世乃。あたしは佳世乃のこと気持ち悪いくらいに好きなんだよ」

背筋がゾクゾクと震える。


 少し前までは怖かったその瞳に灯る炎が美しく見える。

もう死んでも良いから、燃やし尽くして欲しかった。


 「分かる?」

流されるようにこくりと頷く。

麗香は私の耳に顔を近づけると、耳たぶを優しく噛んだ。

小さく声を漏らすと、麗香は私の反応を楽しむようにもう一度噛む。


 「ファンの声が聞こえてきたら、耳を触って。そうしたらあたしを思い出してね」


 どこかで聞いたことがある。

人の噛み癖は、幼少期の愛情不足が原因だと。


 ___きっと麗香は、そんなこと知らないと思うけれど。

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