7章:哀しみは嘘をついたのだ




 堀田睦成にとって、愛するという行為は、嘘っぱちか、嘘つきがつくった妄想だと思っていた。


 祖父は厳格な人で近寄りがたい雰囲気だったし、祖母は物置のような人間だった。


 父親は卑屈で間抜けで周りの目ばかり気にするど阿呆だったし、母親は売女だった。


 祖父は病気で死んだ。悲しいとも何とも思わなかった。


 祖母は階段から落ちて死んだ。鉢植えに頭をぶつけたそうだ。


 父親は中学に上がる頃に家から消えた。たぶんもう戻っては来ないんだろうなと思った。


 母親は現在別居している。同じ事を毎日飽きもせず言ってきて、同じ物を投げる。ガラクタの機械と同居しないで良いのは一人暮らしのいいところだ。


 その人たちから受け取ったものと言えば疑ぐりぶかさぐらいだった。役に立ったことは未だに無い。


 そんなろくでなしの下でも、案外いい男が育つようだ。自慢だが家族以外の周りには恵まれてきた。


 彼の上司は人を見た目で判断しなかったし、同僚や部下は少し頭がわるいが、いい奴らだ。


 順風満帆…とまでは行かなかった。


 この風体だ。少なくとも一ヶ月は仕事などできない。仕事ができないということは、給料が支払われないわけで、給料が支払われないということは、仕送りができないということで、仕送りができないと…まあ、言わなくてもいいか。


 ここ数年はいい調子だった。母親とは祖父や祖母の墓参りの際会ったくらいだ。だけど、仕送りが滞るとどうなるかは分かってる。


 面倒事はごめんだ。もうすでに面倒事に片足を突っ込んでるが…。


 とりあえず。そう思い堀田はスマホを取り出し母親へ電話をかけた。


 1…2…3コール目で電話に出た。電話越しでも分かる、酒臭い声が耳に響き渡る。


 堀田の言いたいことが理解できた瞬間、電話越しで家畜の死ぬ間際のような声があらわになった。




「そろそろ退院するんだって?」


 堀田は、近くで文庫本を退屈そうに読んでいた多崎くんに話しかける。多崎くんは、顔を少しこちらへ向けた。


「はい、体調が良くなっているので。でもまだ検査のためにしばらくはここに居ますけど」


 そしてすぐに目線を文庫本へ戻した。


「へえ、あんなに血を流してて、そんなに早く治るんだね」


「え?」多崎くんはまたもや面を上げた。


「何で堀田さんが僕の怪我の具合を知ってるんですか?」


 堀田は、頭をポリポリかいてこう言った。


「入院当初、多崎くん意識なかったろ?そん時に君を轢いちゃったカップルが謝罪兼お見舞いで、ここに来たのよ。君の親にすごい勢いで謝っててね。男の金髪がブンブン揺れてね、あれは笑ったなあ」「はあ」答えになっていない答えで当惑する。


「で、その時俺、カップルから事故当初の現場を見せてもらったのよ。状況を説明するために撮ってたんだろうねぇ」あっけらかんとした様子でこんな事をいうので、多崎くんも少し戸惑ってしまった。


「ふつう、人の事故の写真見ますか?」


「まあまあ、でもほんとに大丈夫なの?」堀田は目つきを真面目にしてこういった。目つきだけ真面目そうにしても、目の奥がいつも通りなので彼には威圧感なんてものが微塵も感じられない。


「大丈夫ですよ」でもそれが彼の長所なのかもしれない。


 暫く黙って、堀田は、口を噤んてたものを振り払うように話しかけた。


「あのさ、今日って確か愛子ちゃんと会う日だったよな」急にそんな事を言いだした。ここ数日急激に仲が深まり、夜に恋バナなんかもしたので、愛子さんのことも今日彼女に会うことも堀田は知っていた。でもなぜ今そんなことを?


「少し時間あるけどさ、早めに会いに行ってあげたら?ほら、こんなとこじゃ話も盛り上がらないだろうしさ」


 何か意図があるような気がしたが、先ほど愛子さんからメッセージが届いて、向かっていることを知ったのでちょうどいいと思いベッドから立ち上がった。


 怪我したのは右肩から腰にかけての上半身なので車椅子も杖も多崎くんには必要ない。


 ただ歩き出すという強い意志が必要で、それに時間がかかるからもう少しあとで出ようとしていたが、何やら事情があるらしい。


 多崎くんは黙ってその事情を飲み込んだ。


 少しゆっくり目に歩き出し、ゆっくりと扉を開けて出ていった。彼の姿を堀田は惜しげに見守ってから、少し深呼吸をした。


 母親が病室にやってくるのだ。恐らく金をせびりに。この部屋の他の入院患者には悪いが、多崎くんだけは巻き込みたくなかった。


 だが丁度今日は人が多崎くんと堀田しかおらず、病室は今、一人を遺して無音となっていた。


 段々と蒸気が舞い上がる。顔は暑く火照っている。動機と息切れが交互に起こる。浅く息を吐く。落ち着かない。一対一で話すなど、それこそ何年ぶりか。


 母親恐怖症は、いまだに治っていないみたいだった。


 その時、病室のドアが勢いよく開いた。中に誰がいたとしても、またそれを知っていたとしても、こんな調子で開けるのだろう。こういうところが、はっきり嫌悪を催した。


 悠然とした顔立ち。それも、冷静さから来るものじゃない。何が起こっても、自分の思い通りになるという、絶対的な自信から来る悪意のある冷静さ。


 前会ったときとは違い、真正面から捉えるその懐かしい顔は、自分が思っていたより何も抱かなかった。


 母親は、まっすぐ堀田の方へ歩いていきこう言った。


「生まれたときから迷惑かけてばっかりね。あんた」




 母親は開口一番、嫌味を言う癖がある。それはいつまでも変わらない。


「で、いつになったら返せるの?」母親は俺からの仕送りを『返済』と呼ぶ。母親曰く、今迄の貸しの返済らしい。


「医者からは2ヶ月は安静にしてろって…」


「1週間で出ろ。ここの人たちに迷惑をかけないで。職場の人にもね」もちろん私にも、とは言わなかった。言う必要もないからだ。


「でも、俺肉体労働だし、身体が資本っていうか…」「んなの知らないって、てかあんた、何時までそんな事やってんの?早くロクな仕事に就けよ。あんただけじゃないんだよ、金が必要なのは」


 口を少し噛む。駄目だ。やっぱり話が通じない。母は俺の金しか求めていない。俺の体のことなんてどうでもいい、でも死なれても困る。だから、こんな無茶なことを平気で吐ける。


「無理だって…骨も折れてんだし、こんなんで仕事なんてできねーよ。だから、」ここまで言ったところで止めた。母親が置いてあった花瓶を持ち上げたからだ。何をするかはすぐ理解できた。その後言うことも。


 そして、予想通り花瓶は手元からすっぽり抜け、派手な音と派手な色を散らし、床に飛び散る。


 母はそれを見つめてからこう言った。


「は〜〜〜〜〜〜っほんっと使えない息子。こうも役立たずだと自分の子かも怪しいわ」


 そしてバッグから煙草を取り出し、百円ライターで火を着けた。感情を高ぶらせると、疲れることを理解しているので、母は怒りたくない時、こうやって目に付く者を割ったり投げたりして、その後煙草を吸う。本当に迷惑な親だ。死ねばいいのに。


「あんたってさ、昔っからそうだったよね。頭も要領も悪くて、私か父さんに殴られて、それなのに全然懲りずにまたやらかす。あんた、金を稼がないんだったら、死ね。首を吊って死ね」


 灰皿が病院にあるわけ無いのに、周りをキョロキョロ見渡してから煙草を地面に捨てて、足で踏む。


「取り敢えずさ、今月末に私の口座に五万振り込んどいて、首吊る前にしろよ」


 そう言って母は病室から出ていった。その間、俺は黙って下を見つめているだけだった。一体、この地獄はいつまで続くんだ。


 毎月、仕送りという名の徴収があり、母はそれを塵溜めに使い、俺にすることと云えば、暴言、破壊、暴力。…つまらない人生だ。こうも俺は逆らえないのか。仕事を始めた当初、母親に逆らってみたことがあった。大声を張り上げて、「おれはあんたの操り人形じゃない」と。


 母親は本気で包丁を降ってきた。土下座して、許してもらったけど、あの時の切り傷はまだ消えてない。


 あんなことをしておいて、未だに母は、俺が母に対し恩が在ると本気で思っている。


 愛情も、感謝も与えず、悪意と痛みだけ与えて、それが本当に子育てだと思っている。大した自信家だ。苦しいなんて思ったこと無いくせに。少なくとも、そんなところを俺に見せたことなんかないくせに。


 堀田は先程の母の言葉を脳で反芻していた。「金を稼がないんだったら、死ね。首を吊って死ね」


 馬鹿め、本当に、俺が、死んだら、困るくせに。でも、本当に、困るんだろうか…?俺が、死んで困るのは、俺だけか…?


 同僚は、悲しむだろう。後輩だって…いや、仕事の進行度が滞って、腹を立てるんじゃないか?


 …そんな事あるはず無い。職場の人たちは、皆んな信頼に値する人だ。俺を信頼してくれる人だ。そんな人達を一方的に疑って、なんて俺は最低な人間なんだろう。どうせ、さっきの母親の言葉で、イライラしているだけだ。人に当たり散らすなんて……俺は母親と同じことをしている?


 母は、物に当たって、俺は人に当たって…一緒なのか?俺と母親は結局同じような人間なのか?母親の血が俺の赤い鼓動に流れていて、その細かな屑の粒子が、俺の心臓へ送り込まれて脳を蝕んでいる…?


 頭が混乱している。母親恐怖症の発作だ。俺のせいじゃない。俺は悪くない。悪いのは俺の親だ、祖父だ、祖母だ。そうか、祖母は母親に殺されたんだ。そうに違いない。だって、俺の中の善性は、祖母から受け継いだんだ。何もできないくせに、文句を垂らすことだけ一人前の愚者の正義。そして、俺の中のまた、悪的な部分はあの鬼のような祖父から受け継がれたのだ。世間様にだけ媚びへつらう、人間の屑。死んだほうがマシだ――あ…死んでるのか。


 分かった。そうだった。俺は被害者じゃなかった。俺は加害者だった。知らぬ間に人を傷つけていた。同僚も、後輩も、多崎くんも…。俺のせいで人が苦しむ。すまない。ごめんなさい。ごめんなさい……嗚呼、死んで詫びたい。だが、駄目だ。死んだらまた他の人に被害をかけるだけ、俺は死んだら駄目なんだ。俺は生きて、苦しみながら生きていかなきゃならないんだ。


 俺は誰かの為に生きていかなければ…死ぬことも許されないのだ。


 堀田は、不意に立ち上がった。包帯はまだついているが、歩けないこともない。


 まずは、このゴミを片付けなければ。看護婦さんになんて説明をしようか。すみません、立ち上がるときに間違って割ってしまいました。よし、これでいこう。


 母が散らかしていった残骸を片付けようとしゃがむ。しかし、毛布につっかえて転んでしまう。頬を花瓶の破片で切る。


 痛い。ああ、やっぱり俺は駄目な奴だ。こんなのだから人様に迷惑をかけるというのだ。


 水と血がボトボトと滴り、混ざり、溶ける…。


 平気だ、これくらい。痛くないように、笑顔になってみた。地面の水面を見て確認する。そして驚いた。俺の苦笑いが、その時に口元にできたしわが、母親とそっくりだったから。きもちわるい…。醜悪さとは、こうも人の不快感を刺激するものなのか。


 その時、ふと、気づいた。母親が開け放していった扉に。閉めていない。そこから廊下が見えた。そして、その廊下から、男の子が覗いていた。


 俺は、ああ、恥ずかしいところを見られたな。と思った。だが何かがおかしい。あの少年は俺の手元の花瓶ではなく、俺を見つめてきている。と云うより…俺の顔面を……。


 目と、目が、激しく空中で打つかる。虚空と空虚がこの病室の扉の線と線の間、四角の境界から、あちらから、こちらへと。じいっと覗き込んできている。


 それは、真っ黒な黒。目元から垂れだす、沈黙の淡い一雫。誠実と苦しみが、此れをもって娶されたように感じる。


 なんだ、これは、そうか、俺は、俺は…………


 おれはほんとうは長生きなんてしたくなかったんだ。


 男の子は母親の声とともに廊下の、俺の居る病室から去っていった。


 そしてそれと同時に扉が勢いよく閉まった。


 それはまるで、母親の閉め方に似ていた。固く閉ざされた扉は初めより古びた気がした。


 堀田は、立ち上がった。そして花瓶を細かく足で踏みつぶした。ギプスの硬い側面でゴリゴリとひねり潰した。その音が妙に心地よく、妙に耳に残った。その音は、事故を起こした時の、骨が削れる音に似ていた。


 ここじゃだめだった。俺の居るべき場所はここじゃなかったんだ。俺はいつからか、平穏に暮らして真面目に仕事をして、そうやって生きていくことがまるで全てみたいに思っていた。


 当に滑稽であった。呼吸をするみたいに、人に戯言を述べ説教して、それが正しいことだと、本気で思っていたのだ。


 もう俺は何もしたくなかった。ベッドで眠ることも、このまま立ち尽くすことも、考えることも、総てが億劫に感じた。


 その時、コンと音がなった。後ろを振り返ると、いつの間にか空いていた窓の枠に烏が止まっていた。


 それを見て堀田は急に、なぜだか急に、どうでもよくなった。


 窓に手をかけた。風が、鳴った。恐ろしい風。


 ころされたくない。







 外はまだ朝の匂いを感じた。朝露が太陽の光を吸い込み放つ、昼時の心地よさ。


 こんな日は、外に出るに限るだろう。堀田さんのような重患者ならまだしも。


 しかしだな、実のとこ自分は近ごろ何がしたいのかがわからなくなっていた。


 堀田さんの言った、「早めに会いに行ってあげたら?」という言葉。それはたぶん僕が邪魔だったから言った言葉なんだろう。でももしかしたら、別の意味があったかもしれない。例えば安心させてあげろ。それはどういう意味?


 もし愛子さんが自分のことを――もしだが好きになっていてくれたとして何が自分にはできるだろう。何を与えられるだろう。その事を、実はずっと考えていた。僕のお見舞いに愛子さんが来てくれたときから、もしかしたらと。


 愛とは、いったい何なのだろう。何と云う行為で何と云う意味を持ち、そして、どこからどこまで信じていいのだろう。


 不安とは不理解である。不理解とは未知である。そして、愛情のうえで、考えうる多くのことは未解像の延長線の上にある。


 どうせいつか別れるのだったら。そう考えて出来なかったことが一体どれくらいあるのだろう。しかしまた、そのことについて思ったことがある。僕はもしかしたら愛子さんとは何も望んでいないのかもしれない。


 恋慕の持たない愛をずっと求めていた。


 感情のない関係を欲していた。


 それってそんなにおかしいことだろうか。その為に誰かを傷つけてしまっても僕は何も傷つかない。誰も文句は言わない。そうだとしてもするべきでは無いのだろうか。


 すると、ふと声をかけられ、前を向いた。


「やあ、愛子さん」


「それ、やめない?」


「何が?」


「その呼び方よ。前から思っていたけど、それって何だかおかしい」


「君の口調もね」


「元気を取り戻したのなら、よかったわ」


 彼女はベンチに座った。僕の隣に座って、数秒黙って、遠くの空を眺めて、何か考えていた。


「あのね、言いたいことがあって」


「そりゃお見舞いに来たんだものね」


「そうじゃなくて、いや、そうなんだけど」


「どうしたの?」


 彼女は足を組み替えて。


「えっと…」また前を向いて。


「血を吐いたの」


 僕は驚いて隣を見た。


「え?いつ?」


「昨日…学校の帰り道にね、咳をしたら」


「それって…」大丈夫なの?と言おうとした。けれど止めた。大丈夫なわけ無いからだ。もし自分がそうだとしてそんな事を言われて、違うとしか言えないだろう。


「…気の毒だね」


「フフッアハハ…それだけ?」


「…ごめん」


「いいよ、別に。何か求めていたわけじゃないし」


 じゃあ何を求めてここに来たんだろう。


「じゃ何で来たの」


「そうね。会いたかったから?」


「それじゃ好きみたいじゃないか?」


「好きよ」


「え?」


「好きよ?」


 空気が止まった。とめどなくあふれていた時間の流れが、一つ間を、一つの言葉を置いてすぐに流れ出した。


「そうなの」


「そうなのよ」


 僕は泣いた。なぜだか流れ出して、そのまま止まらなかった。


「何で泣いてるの?」笑って彼女が言った。


「わからない。わからない…」


 目元から垂れだすそのしおれた涙のかたまりが、少しずつ太ももにたまっていった。


 ここにいつもあったはずの理性はどこへ行ったんだ?頭にいつもあったはずのちゃんとした律する心が何処かへ捨ててしまったかのようだ。


「どうしてこんなになっちゃったんだろう?」


 僕がどうしてそんな事を彼女に言ったかは分からない。でもそれが何故この場で飛び出たかは分かった。僕はどうしようもなかった。あふれてくる涙を止める手段を持たなかった。


「何でそんな事を言うの?」


「分からないけど、多分、分からないからじゃないかな…」


 その時、自分の頭上で、何かが開く音がした。


 そして、それは目の前に落ちてきた。


 どしゃっと云う音とともに地面に落下した。


 それは、その時はよくわからなかったのだが、正確に言うと少し後から理解したのだが―――それは堀田さんだった。二階の自分が入院していた部屋から墜ちてきたことがわかった。


 この時点では、僕らは何もしゃべらなかった。


 少し時が経って周りの歩いていた患者が先生と呼ぶ声で気がついた。僕は隣を見た。愛子さんを見た。愛子さんもこちらを見ていた。


 涙は、もう止まっていた。

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茈色の血を舐めろ 静谷 清 @Sizutani38

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