『』の物語 4

 せきが止まらないのか、彼女はこちらに視線だけ向けてくる。苦しそうにしながら、追い払うような仕草しぐさをされる。

「なにをしている! 呼吸ができない、手ぬぐいを」

 無理やり奪うと、血の混じったものを吐き出す。続けて数回咳き込むその背中をさする。

五月蠅うるさいっ!」

 別の部屋からこの場所まで届く怒声は、先ほど鬱陶うっとうしいと言っていたものと同じだ。

 彼女はすぐさま奪われた手ぬぐいを取り戻そうともがいたので、渡す。口元にり、何度も咳き込む。どう、すれば。

 知らなかった。こんなに酷い病状だったなんて。

 呆然としながら、腕の中に閉じ込める。少しでも、隠そうとするその咳の音を、遮断する手助けができればと、そっと、そっと、手に力をこめる。

 こんなにちいさくて、本当に嫌になる。すぐ死んでしまうし、そう、どうせ死んでしまう結果は変わらないのに、なにを……しているのだ、自分は。

 人間が助けをう『神』は、存在しない。神の名を持つ自分にも、運命の結果に割り込む力はない。

 簡単に手の中でつぶれてしまう、つぶしてしまうことができる命。ここで殺したほうが、いいのでは……でも、でも、ころしたく、ない。おかしい。人間を滅ぶべき、なのに。

「……なぎさ、さん」

 どうにもできない。ただ、抱きしめることしかできない。どれだけ長い命をもっていても、強い力をもっていても、結果だけは変えることはできない。

 やっと少し楽になってきたのか、荒い呼吸をしながら、手ぬぐいをゆるい動作で口から離す。あぁ、あかい。

 そうだ。春の名前。

 目を見開く。手が震えた。

「どうせ、次の春まではもたない、から」

 かすれた彼女の声に、ど、と冷や汗がでる。

 来るべきではなかった。自分がひとではないと彼女は知っている。やはりここで命のを吹き消したほうがいいのではないか。

 ちがう。ちがう!

 こんなに苦しんでいるのに、ひとではないモノの力を彼女は借りたいなど、思っていない。

 そでから金平糖のびんを取り出す。一粒、星の形のそれを取り出して、ゆっくりと指先に力を入れる。軽く破損した金平糖はさらに小さくなった。

「甘いから」

 それだけ言うのが精一杯だった。彼女の口へと運ぶ。これくらいの大きさなら、飲み込むのにそれほど力はいらないだろう。

 こくりとのどを鳴らした彼女は小さく笑った。

「ほんとう。あまいわね」

「………………」

 いま、自分は。

 視線を彼女の胸元に向ける。目をらすと、その魂に、傷がついているのが見える。やってしまった。自分の血を。視線を巡らせ、自身の指にる。血が。

 ま、待って……待ってくれ。そんな、つもりでは。

 血が流れ続けている自身のことを、忘れていた。どうせ消え失せるからと頓着とんちゃくせず。

 唖然あぜんとして彼女を、腕の中の彼女を見下ろす。ここでころしても、だめだ。魂を消滅させないと、彼女は……延々と、人間に転生してしまう。人間だけに、転生してしまう。

 様々な生き物に魂を使いまわす、ひとの世界。だというのに、人間『だけ』に転生させるなど、魂に負荷がかかりすぎる。それなのに、消し去らないと、終わらないのに。

 どうしよう。

 ただ、元気を、いつものように、すこしだけ、そんな。

 だめだ。

 それだけは、だめだ。

 なぜだめなのか、わからない。くるしい。

 不思議そうに見上げてくる彼女のあごをすくい、唇を重ねる。驚きに目を見開くその瞳をみつめながら、自身の魂を流し込む。こうするしかない。

 恋慕れんぼなどない。感じない。

 彼女は次の春までもたないだろう。運命を変えることはできない。それはわかっていた。だから。

 そこまではこの世界の人間の滅亡を、待ってやろう、と思っていたのに。

 死んだ先まで、縛り付けてしまった。広大な魔族の管理下の、人間がまだ生き残っている『世界』のどこかへ、彼女の魂は永遠に移動させられる。神族しんぞくの管理している『世界』にから。

 人間ごときの、瞬きの人生を、こうして自分の魂で補強すれば。

 唇を離すと、彼女がまばたきを繰り返した。

「そんな……色をしていたのね、きれいなすみれいろ……」

 なにを呑気のんきなことを言っているのか。ずっと人間として苦しむことになるのに。

 いずれ摩耗まもうして自然消滅することも可能だったのに、それもできなくしてしまった。自分の魂を混じらせて、追いかけるしかない。魔族に見つかっては、保管されてしまうかもしれない。神族に傷つけられた魂など、やつらが見逃してくれるとは思えない。

「どうしてそんなに苦しそうなの……?」

「くるしい? ……よく、わからないな」

 温度のない自分の声に、腕の中の人間が戸惑っている。

 『結果おわり』は変わらない。では。

「……なぎささん。いがないなら、その残りの寿命、もらいたい」

「どうして……?」

「どうせキミは死ぬ。それが『いま』になるだけの話だ。ボクに寄越よこせ」

 了承の返事を待たず、口づけを落とす。魂に刻まれた、今の彼女の残りの時間がこちらに移動する。彼女の身体からあから力が抜け落ち、そして、息すら、心臓の音すらしなくなった。

 涙が一筋流れ落ちていることに、自分は気づかなかった。動かなくなったそれを、一度だけ強く抱きしめて、離した。ごとん、と倒れる。

「これで家族からわずらわしく思われることもない。それを望んでいたんだろ」

 突き放すように言い、立ち上がる。力が格段に落ちているが、これで少しだけもちそうだ。

 時間をあめのように伸ばし、自身をだまして……キミの魂を壊しに行こう。

「これを愛とは呼ばないな」

 そのつぶやきを落として、彼は黒を脱ぎ捨て、時間の流れの中へともぐった。


 そして、『見つけた』。

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