綴り人の物語 6

「ドッペルゲンガーかよってなるんだけど、人間って世界を見ちゃうから。あと、やたら相手をめたり、おとしめたりが多すぎる。めんどくさい」

「めんど……」

「めんどくさい。呼吸するのも、咀嚼そしゃくするのも、眠るのも、めんどくさいよ、姉ちゃんは」

「ね、」

「死なないよ。正確には、死ぬのも労力がかかるから、姉ちゃんには無理ってだけなんだけど」

「ダメだって!」

「まあ見栄っ張りの親は怒ったり、あと勘違い状態で悲しむかもだし、葬式にお金かかるし……姉ちゃんが死んだら骨とか灰とか全部海にいてくれない? 墓参りめんどくさいと思うから。海を見たら手を合わせて終わりだから、楽だよ。掃除もしなくていいし、花も飾らなくてオッケー」

「海に謝れ」

「かなり建設的なこと言ってると思うんだけど」

「気持ちはわかるし、楽だけど……うち、お墓あるじゃん」

「でもそれ、いつまで手入れできるのかあやしいんだよね。百年後はぼろぼろになってそう。墓石もどうせ壊れ物だから。

 あ、でも地球がそれまであるかもわかんないか」

 未来はいつも不確定だと言外に告げる彼女の表情はまったく変わらない。

 たくさんしゃべっていると、深夜の行動が嘘のように思えてくる。だがそれこそが、家族が誰も気づかなかった証拠である。

 会話のキャッチボールができることで、交流可能なように見える。感情に従って怒る、拒絶する、をしないから、性格も穏やかに思える。言葉はするどいが、飾る必要性がないからだろう。

そうくんは、姉ちゃんに死んでほしくないんだね」

「そ、そりゃ、それは……」

「うんうん。いいと思うよ。自分勝手な理想を押し付ける上司よりは、健全にみえる」

「どういうこと?」

「姉ちゃんの職場にさ、鬱病うつびょうの子がいるんだよ。職場のいじめでね。彼女の存在をみんな、無視するんだよね。ひどいよね」

「そんな……」

「いい年齢の大人と呼ばれる人間たちが率先してそんなことしてるのに、子供になんて、よく言えるよ」

「なんとかできないの?」

「姉ちゃんは普通に接してるけど、本人のいないところで悪口をたくさん言われてるの聞くし、やり方が陰湿いんしつだなぁ。大きな子供のいる、そこそこ地位のある人が一緒にやるんだから、下っ端は同調するし。

 こういうやり方で自分から辞職させようとするなんて、堂々と自分の子供に言えるわけないよね。相手が悪いってことにするんだろうなぁ。無責任な大人だ」

「その人、大丈夫?」

「いや、もう辞めそう。耐久は難しいかな。

 そもそもうつになったの、職場が原因だろうし。でも、いじめてる上司があの子の前で泣きながら『死ぬのだけはだめ』って言ってたんだよ」

「いい人じゃん」

「いじめてる人間って、都合よく記憶よね」

 弟が黙り込んでしまう。泣けば、同情すれば外側からはいい人、に見えなくもない。困惑する弟に、彼女は続ける。

「自分が加害者って意識がないから、世界が都合よく見えてるし、都合の悪い場面は削除される。それを責任のある行動って、誰が思うよ?」

「姉ちゃん、注意、した? その上司に」

「どうせ脳内で都合よく変換されちゃうよ。別の時はあの子の目の前で、『これだから精神疾患者をやといたくなかったのよ』って言ってたよ」

「はあ?」

「本音が出たなって思ったし、本当になんにも考えてないんだなって思った。

 職場の連中はあの上司は仕事ができるって言ってたけど、人間としては、見習う相手としては最低な人種じゃないかな。

 まあ老いていけば人間の身体からだも脳もおとろえていくから、そこからが恐怖だよ。できれば痴呆ちほうにならずに長生きして、生き地獄を味わって欲しいかな」

「そ、その、言われた子はどうだったの?」

「なにを言われたのか理解できてなかったかな。いい子だよ。あんな言葉を一方的にぶつけられたのに、反射で言葉を出さなかった。傷つけられる痛みを理解してるから、相手にそれをしないんだよ。

 諦めちゃってるのかなー……まあ会話できないよね、相手は同じ日本語使ってないもん」

 言葉通じる気はしないな、姉ちゃんも。

「あんなこと言って、あの子が腑抜ふぬけてる今だからできるんだろうけど……背後から刺されても文句言えないんだけど、そういう覚悟はないんだろうなぁ」

 都合の良い脳みそで幸せだろうね。

 むしろ感心している様子の彼女の言動は、これまでもそういう人間がたくさんいて、悪意をぶつけた相手から報復されずにのうのうと生きている、ということなのだろう。


 なぎの秘密を弟だけが気づいた。

 そして会話をするようになった。それはどういう感情であったによせ、凪にとっては見返りのないものであった。

 家族の誰からも与えられなかった、見返りを求めないもの。

 家族からの愛。同情だったかもしれないが、凪にはそう感じられた。それだけで良かったのだ。

 こんなに面倒なのに、と凪は思った。それにつき合わせてしまうことへの申し訳なさ。

 心の中で何度も言う。ごめん、ごめんね。

 声に出せば否定されるし、そうではないと言ってくれる。そんなものは、いらない。

 ごめん、ごめんね。


 そして他の家族の前ではずっと演じ続けた、ある時。

 赤信号に気づかず曲がって来た車が弟の運転する車目掛けて疾走してきた。弟はよりによって、その時、注意がそちらに向いていなかった。だから、代わりに見ていた凪は。

 助手席のシートベルトを外して、弟をかばうようにおおいかぶさった。抱きしめる。

 衝撃しょうげき身体からだを襲う。お願いです。お願いします。

 ごめん、ごめんなさい。私が死ぬこともできないから、こんなことしかできない。

 人間らしく楽しく会話できたこと。ありがとう。

 初めてきちんと会話ができたこと。嬉しかった。

 だれも見向きもしなかった私を、見つけてくれて……ありがとう。

 この人生はなんのためにあるのかといつも思っていたけど、途中で感情という色が麻痺まひしていったけれど。色もうまく見えなくなったけれど。それでも、それでも。

 ただ「待って」くれていたあの瞬間だけは、この人生の中で一番の宝物になった。

 一方的な、宝物。


 生きるべきは、私じゃじゃない。

 これは私の物語。『虚構』だらけの物語。『嘘』の物語。そして、天原凪の見てきた『事実』の物語。

 他者がどう思って、考えていようと、凪にとっては、凪の見てきた世界だけがの真実となる物語。

 誰にも知られなくていい。どこにでもある物語だ。こんなどうしようもない、希望すらもない物語は、必要ない。

 たった一つ、偶然でも、屋根から戻ってくるまで待っていてくれた弟への『恩返し』の物語。

 そして諦め、拒絶し、無理に納得させていた自分の人生を、少しでも意味のあることへと使いたいと『願った』物語。


 現れた魔法使いの呼びかけに応じ、私はまぶたを開いた。夢からめる時間だ。

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