綴り人の物語 4


 白と黒の世界で、部屋のドアのところから小さく声がかけられる。

「ねえ、ちゃん……」

 その声音こわねが耳に入った瞬間、彼女はくるまった布団を捨て、窓を開いた。そして外へ逃走したのだ。身体能力は平均以下だというのに、窓枠をつかみ、屋根の上へと器用に逃げてしまった。

 何重にもブランケットや夏用布団も使ってあのひどい悲鳴や嗚咽おえつの音を、なるべく遮断しゃだんしていたのに。

 身体中からだじゅうが震え、視線をあちこちに動かす。バレた。

 屋根から落ちたところで、打ちどころが悪くなければただの骨折で終わる。痛いだけで延命するなら、落ちるだけ無駄だ。だが、落ちたら落ちたで、かまわない。

 彼女はそのまま屋根の上に居座り、空が白んできて道路に車が増えてきた頃に室内に戻ることにした。田舎の二階建ての家屋の屋根の上にいたところで、通報されてもおかしくない。結局のところ、彼女はただ様々なことが「面倒」になった結果だけをみて、大人しく自室に窓から戻った先で、静かに座って待ち受けていた弟と目が合った。

 相変わらずモノクロの世界で、そこに予想もしていなかった人間がいて、首をかしげた。

そう

 短くらす彼女は、優しい声で言う。

「今日学校でしょ? 早く自分の部屋に戻りなよ」

 弟が、それを聴いて涙をぼろぼろとこぼした。鼻をすすり、流れる涙を何度も手の甲でぬぐう姿を、彼女は唖然あぜんながめていた。

「ここにいたら母さんに怒られるよ」

 さらに言葉を重ねると、こらえきれなかった弟は、とうとうひざかかえて顔を隠してしまった。どうして泣き止んでくれないのか、彼女は理解できなかった。

 どうしようかと途方に暮れ、タオルケットをクローゼットから出してくると、弟の頭に落とす。ふわりと頭をおおったそれは、泣き止むまで使われることはなかった。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた弟を母親が探していたため、彼女は変わらない手腕でだまし、体調が良くないようだと退しりぞけた。

「なんで」

 にごった声で、タオルケットを引っ張りつつ、弟がいてくる。

「いつからなの」

「なにが?」

 あまりにも感情の入っていない返答に、弟は動きを止める。

「ごめん。びっくりした?」

 声を調整するものの、弟は信じられないという表情で凝視ぎょうししてくるだけだった。まずいな、と感じてしまう。

「姉ちゃん、いつからこんな状態なの」

「…………うーん、半年はってると思う。あんまりおぼえてないんだ。ごめん。憶えられないんだよ、ごめんね」

 記憶が欠損してしまうことを明かすのは、答えを返すうえで必要だと判断した。

 ただの事実なのに、弟が顔をゆがめる。

「……そうくんはなにも悪くないよ」

「なんで姉ちゃんこんなになってるのに、母さんも父さんも気づかないんだよ!」

「あんたも気づかなかったじゃん」

「っ、わらう、なって……」

「よく見なよ。笑ってないでしょ」

 声だけだ。

 その異質な姿に、弟は声を出すことができなくなったようだ。逆に、彼女は弟の言動に困惑してしまう。

「ごめん。もう部屋に戻ったほうがいいよ。仮病のことは姉ちゃんがなんとかするから」

「…………」

「じーっと見ても、なにも変わらないよ」

「だから……?」

「ん?」

「だから、姉ちゃん食べる量減ったの……?」

「まあ面倒だなって思ったし……。食べる意欲があんまりなくて。無理に詰め込んだら吐いちゃうしね」

「…………おちょこに入るくらいの量だったじゃん、ごはん」

「米をむの、面倒で」

「なんだよそれ……」

「まあ人間いつか死ぬものだから、あんまり気に病まなくていいよ。どうせ治らないしね」

「え?」

 信じられないという瞳で問われる。

「で、でもそれ、精神疾患だろ……? 薬で治るんじゃないの?」

「うーん。それ、治ったと勘違いしてるだけだと思うよ、姉ちゃんは」

「は?」

「だって、壊れたものが、壊れる前に戻ることはないじゃん。壊れたカップを、接着剤で無理にくっつけてるようなものじゃないの? 飲み物が飲めればべつにいいでしょ」

「でたよ……腹に入ればみな同じ脳……」

 泣きそうな顔で笑うものだから、彼女はまゆをひそめた。なのに、笑い声がれた。

「ツッコミ……。元気でた?」

「元気は出ないけど、少し落ち着いた」

「そっかぁ」

「姉ちゃん、病院行かないの?」

「どうやって?」

「――――え?」

「姉ちゃん、車持ってないよ?」

 状況の異常さに弟は初めて気づかされたようだった。

「……ときちゃんが、くるま……もってるのに……なんで姉ちゃん、持ってないの?」

「……ときの車、父さんと母さんが買ってあげたんだよ?」

「え……」

「姉ちゃんはバス移動でいいんでしょ。まともで可哀そうな子に物を与えるほうが、気分が楽になるんじゃない?」

「それ……おかしい、じゃん」

「おかしいから、お姉ちゃん、おかしくなってるでしょ?」

 目の前で口元だけ笑みを浮かべる。まさに親の異常さを固めた存在に成ってしまった彼女は、常に金欠だった。一本しかないバス会社に決して安くない交通費を支払い、家に金を入れ、カードの支払いで薄い給料は消えてしまう。しかも、その支払いは母親が彼女のカードを使ったキャッシュローンの返済にあてられている。

「大丈夫大丈夫。気づいたところで、どうにもできないよ」

「うっ」

ときなんてさ、この間なんて言ったと思う? 母さんが姉ちゃんの小食を少し気にしてたみたいでさ、まさか声が聞こえてるとは思わなかったんだろうね。

 、って。

 そう言ったんだよ、あいつ。笑える。心配させないように頑張ってるのにさ、こっちは。毎回食べては吐くほうが、もっと心配かけるじゃん」

「っ」

「ほんとあいつ、勘違いをよくも堂々と言えるもんだよ、あんな自信満々に。あの自己中さ、母さんにそっくりだよね」

 辛辣しんらつな感想に、弟の視線が泳ぐ。

「あいつもあいつで苦労してるんだろうからなにも言わないけどさ、自分だけ苦労してるなんて勘違いはなはだしい。ほんと、想像力が貧困なやつほど、世界の中心は自分なんだよなぁ」

 どうでもいいけど。

 そのつぶやきがすべてだった。すでに嫌悪などという域を超えている。

 彼女にとって、妹は単なる「妹」という記号でしかなく、なにかを与えるべき存在ではなくなったのだ。一時期盾になっていたことが無駄と思えるほどに。

そうくんは知らないだろうけどさ、昔はもっと酷かったんだよ? ばあちゃんとじいちゃんも生きてた頃もさ、姉ちゃんはときのお下がりばっかりでさ」

「それ、逆じゃん」

「だよね? でもさ、うちはそうだったんだよ。ばあちゃんも母さんも、姉ちゃんを可愛がるふりして、ときを大事にしてた。ははは。

 父さんもじいちゃんも、見て見ぬふり。我関せず。ほんと、どいつもこいつも、自分だけが可愛いんだからさ。大人は子供の目標にならなきゃいけないのに。あんなの、大人失格だよ。あんなやつらが、まともな子育てなんて、できるわけないじゃん」

 だからさ。

「少しでもまともな? 人間の育て方して欲しくてさ、姉ちゃん頑張ったよ」

 だから。

「まあ、耐えられなかったのは……申し訳ないけどさ。二十年以上も耐えたんだから、そりゃ壊れるって」

 弟の瞳が大きく見開かれ、つ、と涙が流れ落ちる。

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