綴り人の物語 3


 壊れた彼女の姿は、恐ろしいものだった。

 色が認識できなくなり、大好きだった本が紙くずになり替わり、感情の落差が酷くなった。

 価値観がすべて引っ繰り返り、演じる能力だけが本能的に残ってしまった。家族や他人をだます能力。だから、彼女が壊れたことに、家族は数ヵ月が過ぎた。

 普段から演じた姿を見せていたのに、誰も、気づくことはなかった。

 娘がおかしくなっていることに、そっと、少しずつ距離を広げられていたことに、誰も気づくことはなかった。

 人間のふりをする、生物。

 相手の望む虚構を作り出す能力。

 コインの表は綺麗でも、裏側は傷だらけなうえ、色もせている。誰も裏側を好んでのぞこうとは思わない。それを彼女は無意識に利用した。

 空気を読むのが大嫌い。回りくどい会話が大嫌い。不快、不愉快なことと、そうではないこと、の二つに区分して記憶する。新しくなにかをおぼえる時、邪魔な記憶を引き出しの奥に入れて見えなくする。

 好きなことが消えた彼女は、そのことを悲しんだ。大好きだった本がごみにしか見えなくなった時、絶望していた。美しい景色を見ても、感情が動かないことに慣れていくと、悲しいという感情さえ、どうでもよくなった。

 できないことが増えた。今までできていたことが、突然できなくなってしまった。

 米をぐことが不可能になった。水を入れ、いざ手を使おうとしたら、力が抜けて座り込んでしまった。それを何度も繰り返し、愕然がくぜんとしたのは一瞬で、すぐさま誤魔化し方を考え、それを実行した。

 そうして、たくさんのを、別の方法を使って切り抜けていったため、彼女の崩壊は加速する一方だった。

 彼女は弱音を吐くことがなかった。冗談半分に嫌だと言うことはあったが、本気で嫌な時は相手を誘導した。そうしなければ、演じていると気づかれる可能性があったためだ。あくまで普通の、平均値の人間の感情をみせる。

 だから、壊れても、気づかれなかった。

 感情豊かだった心からほとんどがぎ落とされ、出来上がったのはガラクタだった。そのガラクタが、見た目だけつくろうものだから、人間のふりをするから、逸脱いちだつしないから、逸脱していても個性とみなされる範囲だから、だれも、だれも、気づかない。

 ふと、視線がれた瞬間、彼女の表情が消えていること。

 見られていない時、無意識に呼吸を数秒止めてしまうこと。

 誰も周囲にいない時にだけ、胸の酷い痛みで昏倒こんとうしていたこと。

 彼女は大衆向けの演者にはなれない。限られた空間のみ、人間を演じることができる。

 頭の回転が速いわけではない。彼女は少ない労力でいかに効率的にできるかしか、考えていなかった。母親を恐れなくなった時、父親の、当然のような横柄おうへいな振る舞いをけた瞬間、彼女はもはや、人間であることをやめた。感情が多ければ多いほど、両親は土足で踏みつけてくる。バラバラに壊れる未来は、遠からずやってくる。

 しかし外から見れば彼女は、変わっているが頭のいい地味なオタク娘、という姿になっていた。

 容姿がすぐれていないこともあり、目立つ妹にその方面を投げた。としの離れた弟とは適度な距離をとり、変わった人間であることを印象付けた。

 変わった人間というレッテルをみずかっていたことで、家族も他人も、ソレが彼女だと認識してしまっていた。

 物語の中に存在する、平凡とされる人種や、突飛すぎる人間ではなく、ほどなく変わっており、ほどなく平均的な人物。だからこそ、相手をだますことにけていた。……違う。相手がそう思い込んでしまうようにしていたのだ。

 己を守るために無意識にしたことだったが、母親はまったく気づかなかったこともあり、彼女という器にひたすら様々な酒や泥水をそそぎ続け、壁や床に叩き続けていた。人間が壊れるということを想像できない人種の、典型だった。

 動かない表情筋の代わりに、声を調節して感情を出す。アニメーションから彼女が学んだ技法だった。だから彼女はアニメオタクに見えるようになった。好都合だった。

 まさか他者をだますための技術をアニメから色々と吸収しているなど、誰も思わない。

 ドラマも参考にしたが、他人を演じる俳優たちの動きは真似ができないと切り捨てた。彼らはキャラクターを演じるうえで、どうしても誇張してしまう。普通とされる人間は、ドラマの中には存在していない。

 自身がドラマの中の人物のように笑えないため、演者を素直に尊敬はした。

 家族が寝静まった時間帯にアニメを観ては、声優の声を参考にしたり、えがかれる人間の動きを静かに可能かどうか確認していた。アニメのキャラクターの動きは、人間にできるように見えて、できないことが多い。

 アニメはパラパラ漫画と同じ手法で作られている。コマとコマの間を、人間の脳は勝手に補完する。錯覚を利用し、そして進化を続けるアニメも、よりアニメの中の虚構の存在を実在するような絶妙な演技であつみをつける声優も、どれもこれも、学ぶべきことで、尊敬できるものだった。

 破壊された彼女に残ったのは人間を演じるための補助的なものだった、それ。壊れないための、盾の一部。……皮肉なものだった。

 しかし作り上げたメッキは、はがれていくものだ。劣化れっかしないものは、存在しない。生物は老いていくものだからだ。

 感情の抑制よくせいがきかなくなった彼女は夜になると部屋にこもり、布団にくるまって、その中で悲鳴をあげ、嗚咽おえつし、涙を流していた。どうしようもないことだった。

 泣きたい時に泣けないのに。

 そんな声が聞こえてきそうなほど、壮絶そうぜつな姿だった。

 おそらく誰もが、逃げればいい、我慢しなくていい、助けを求めればいい、と容易たやすく言うことだろう。

 逃げるための資金を出してくれるわけでも、我慢をやめた先での保護も、助けてやると自身が手を差し伸べるわけでも、ない。自分ではない「誰か」が、手助けしてくれるかもしれないという楽観的な軽い言葉。自分と距離が遠い存在へ投げる、無責任な言葉。

 天原凪は、妹や弟が自分のようになることを防いでいた。結果的に妹には愚者扱いをされ、弟へ向けられる期待を背負うことで。

 母親の正常とは言いがたい言動や接し方、父親の無関心さから、彼らは親として不十分と判断した。

 そもそも彼女にとっては、親の態度がどんなものであれ、それは人間である以上はという考えであった。人間に正しさなどない。

 彼女の目線で見た世界は、とても単純化されたもので、すべての人間が等しく、多角形の生物に過ぎなかった。それ以上でも、それ以下でもない。

 だが、できれば善とされる部類にいるほうがいいだろうという判断だけで、彼女は母親の悪癖あくへきを指摘し、父親の非常識さを行動と言葉で拒絶した。

 彼女だけは、姉弟きょうだいたちの中で唯一ほとんど存在だった。他者からみれば恵まれているように見えただろうが。

 妹が母親と一緒に化粧を楽しんだりしても、そこにふくまれたことがなかった。本人も興味はなかったが、そもそも化粧品を揃える資金がなければ、教えてくれる人間もいなかった。彼女にとってはお洒落など、願ったところで叶うことのないものだった。

 妹も弟も守るのに限界があるため、できる範囲でしか、やらなかった。妹に馬鹿にされても、なんの感想も浮かばなかった。妹の中では、色気もない、愚図ぐずな人間だったことが痛いほどに伝わってきた。料理を手伝う妹のことを引き合いに出し、母親がなじってくるのも、慣れたものだった。幼い時に無理強いした挙句、突き飛ばして邪魔者扱いした事実は記憶にないらしい。

 そして。

 壊れた彼女を見つけたのは、としの離れた弟だった。

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