綴り人の物語 2
「
何度も聞いた言葉に無反応でいると、怒鳴られた。
「返事!」
「……わかった」
何度も繰り返される行為は、
アクセサリーのように子供を連れて買い物に出かけるし、すでに飽きてしまっている凪は休みたくてたまらなかったが、ひたすら歩き続けられて足が痛いとも言うことすらできなかった。
母親の相手をまじめにすること自体が、疲労のひとつとなっていた。
父が帰っていないので、居間で小学校の漢字ドリルを埋めていると、母がエプロンをはずしながら言ってきた。
「凪ー、ちょっと買い物行ってくるから留守番お願い」
「…………」
無視してドリルの
「醤油が足りなくなるなんて……凪ー、お留守番ー! 返事しなさい、凪ー」
「わかった。行ってらっしゃい」
「
歳の離れた弟が、小さな布団の上でもぞもぞと動いている。とはいえ、今の凪には赤ん坊の面倒をきちんとみれるとは言えない。
「ねえおかあさん」
なんの感情もない瞳を、肩越しに向ける。
「おかあさんの『ちょっと』って、ちょっとじゃないよね?」
「ええー? なに言ってんの。あんた、ほんと変わってるわね」
その言葉に、相手をするだけ無駄だと感じて凪はドリルの作業に戻った。だが、弟も、妹の面倒もみなければいけない。命を相手にするのは、こわい。
凪の心配をよそに、ドアが無情に閉まる。
「……おかあさん、会話がつうじないな……わたし、おかしいのかな」
疑問ではない、確信の声。凪は家族になんの期待も
親の教育の指針は、うそをつくのはいけないこと。ひとさまに迷惑をかけるのはいけないこと。
なぜそれが、家族には該当しないのか。血の
料理を手伝えと子供の頃に命じられたが、教わったことのないことへ凪は対応できず、すぐに
それが
だが知恵をつけてからは、その教育指針に強く従うようになった。父の
父は食事に呼ばれれば食卓につき、食べるだけでほかはなにもしない。母親のことを名ではなく「おい」と呼ぶ。
おい、なんて人物は家族の中にいない。だが母親が文句不満たらたらでそれを許すものだから、それがほかの家族にも適応されるのだと、父親は勘違いしてしまっていた。
高校生になった頃、母が手が離せなかったため、父親が
凪は
「おい!」
「私は『おい』なんて名前じゃない」
冷たく言い放った凪は、それまでの彼らの教育で出来上がった姿であるにも関わらず、父は
「おかわりが欲しいなら自分でやれば。足がついてるんだから
父親は顔を真っ赤にし、なにか言いかけるが、押し黙った。文句を一切言わないなどと、約束できないとわかっているからだ。
「もうおまえには頼まん!」
そんな捨て
幼い頃は無邪気で表情もくるくると変わっていた。それが凪の両親の持つ「凪」の記憶だ。だがそんなもの、ただの願望だった。
たしかに凪は生まれつき無表情ではなかったし、これほどに感情を
大学生になっても、母親の嘘を
「凪が言ってたの。あっちにね」
両親と仲の良い家族たちと連れたって野球観戦に連れて行かれた時、凪はとうとう、自身の肩にかけられた母の手を、はたいた。
「私、そんなこと一回も一度も、言ってない」
驚いた母親に、さらに続ける。
「毎回毎回、言ってないことを言ったように言うのはやめて。聞いていたら私は必ず返事をしてる。言った気になるのもやめて」
お母さんみたいに苦労して欲しくない、それが母親の口癖だった。だというのに、この親は自分にされたことを娘に教育し、望みを
通う予定の学校も、友達も捨てて、願われた先に通った。大学までずっと、それを成し遂げた。もう充分に、母の願いは叶えたはずだ。対価として、凪は将来の己の姿を思い
世間知らずの田舎者。頭がいいだけのブス。小柄で邪魔くさい存在。おおむね、他人の評価はそんなものだった。
本当にうそで塗り固められた家族だった。
美しい妹はいじめにあいながらも、将来の道筋を
弟は長男としてより大事に育てられたが、彼が生まれるまでの
凪は気づかなかった。無意識に、「しにたい」と自身の勉強机に書いていたことなど。それは幼い凪からの、SOSだった。
小説家になりたいと
凪の世界は
どこまでも凪を縛る家。
そのせいで、凪は同級生と疎遠になるしかなかった。本来学ぶべきことを、なにひとつ学べずに、大人になってしまった。
化粧の仕方のひとつもわからず、母親のメイクボックスを眺めては
結局、なにになりたいかなど思いつかなかったため、就職活動もすることはなかった。ひととして当たり前にもつものを、凪は持つことがなかった。未来が
そんな凪が働くことになったのは、またも母が手を回した先だった。どう考えても凪には不向きの職場だったが、安定しているというだけで、凪はそこに
だから。
突如、凪に限界がきたことにも、気づくことはなかった。
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