綴り人の物語 2


なぎー! お母さん、ちょっと買い物行ってくるからお留守番お願いねー」

 何度も聞いた言葉に無反応でいると、怒鳴られた。

「返事!」

「……わかった」

 何度も繰り返される行為は、億劫おっくうだった。それに、母の言う「ちょっと」は、三時間以上を示しており、自分の「ちょっと」の定義とは違うのだと何度も痛感させられるのは、しんどい。

 アクセサリーのように子供を連れて買い物に出かけるし、すでに飽きてしまっている凪は休みたくてたまらなかったが、ひたすら歩き続けられて足が痛いとも言うことすらできなかった。

 母親の相手をまじめにすること自体が、疲労のひとつとなっていた。けようとしたくても、それができないので、凪としては我慢するしかなかった。

 父が帰っていないので、居間で小学校の漢字ドリルを埋めていると、母がエプロンをはずしながら言ってきた。

「凪ー、ちょっと買い物行ってくるから留守番お願い」

「…………」

 無視してドリルの空欄くうらんを埋めていると、まだ勉強中だからというのもあって、母は声を荒げなかった。

「醤油が足りなくなるなんて……凪ー、お留守番ー! 返事しなさい、凪ー」

「わかった。行ってらっしゃい」

ときそうのこと、頼んだわよ」

 歳の離れた弟が、小さな布団の上でもぞもぞと動いている。とはいえ、今の凪には赤ん坊の面倒をきちんとみれるとは言えない。

「ねえおかあさん」

 なんの感情もない瞳を、肩越しに向ける。

「おかあさんの『ちょっと』って、ちょっとじゃないよね?」

「ええー? なに言ってんの。あんた、ほんと変わってるわね」

 その言葉に、相手をするだけ無駄だと感じて凪はドリルの作業に戻った。だが、弟も、妹の面倒もみなければいけない。命を相手にするのは、こわい。

 凪の心配をよそに、ドアが無情に閉まる。

「……おかあさん、会話がつうじないな……わたし、おかしいのかな」

 疑問ではない、確信の声。凪は家族になんの期待もいだいていなかった。求めてはいなかった。


 親の教育の指針は、うそをつくのはいけないこと。ひとさまに迷惑をかけるのはいけないこと。

 なぜそれが、家族には該当しないのか。血のつながっただけのなのに。

 料理を手伝えと子供の頃に命じられたが、教わったことのないことへ凪は対応できず、すぐに苛立いらだった母親に突き飛ばされ、その時に自身を出来損ないと思い、自分に失望した。どんくさい、のろま。なにもできないぐず。

 それが天原凪わたしという人物なのだと、思った。そう思いながら成長した。

 だが知恵をつけてからは、その教育指針に強く従うようになった。父の横柄おうへいな態度を拒絶したのを、家族全員が唖然あぜんと見ていたこともある。

 父は食事に呼ばれれば食卓につき、食べるだけでほかはなにもしない。母親のことを名ではなく「おい」と呼ぶ。

 おい、なんて人物は家族の中にいない。だが母親が文句不満たらたらでそれを許すものだから、それがほかの家族にも適応されるのだと、父親は勘違いしてしまっていた。

 高校生になった頃、母が手が離せなかったため、父親が湯呑ゆのみを凪のほうへった。「ん」と一言だけらして。

 凪は湯呑ゆのみ一瞥いちべつすると、食べ終えた自身の使った食器類を重ねて片付けを始める。父は激怒した。

「おい!」

「私は『おい』なんて名前じゃない」

 冷たく言い放った凪は、それまでの彼らの教育で出来上がった姿であるにも関わらず、父は異物いぶつを見るような目を向けた。

「おかわりが欲しいなら自分でやれば。足がついてるんだから横着おうちゃくしないで。量が少ない多いで文句言われたくないし、非効率すぎる」

 父親は顔を真っ赤にし、なにか言いかけるが、押し黙った。文句を一切言わないなどと、約束できないとわかっているからだ。

「もうおまえには頼まん!」

 そんな捨て台詞ぜりふのような言葉に、「頼んでないじゃない。命令って言うんだよ、それ」と凪が淡々とげると、父親は湯呑ゆのみを片手に立ち上がった。以降、凪は父親に無視されるようになった。

 幼い頃は無邪気で表情もくるくると変わっていた。それが凪の両親の持つ「凪」の記憶だ。だがそんなもの、ただのだった。

 たしかに凪は生まれつき無表情ではなかったし、これほどに感情をおさえた声など出していなかった。成長の過程……彼らが凪をこうしただけの話だった。

 大学生になっても、母親の嘘をかたる姿は変わらなかった。

「凪が言ってたの。あっちにね」

 両親と仲の良い家族たちと連れたって野球観戦に連れて行かれた時、凪はとうとう、自身の肩にかけられた母の手を、はたいた。

 大仰おおぎょうな身振り手振りで、愉快そうにお友達に嘘をかたるのが、まるで自分が言ったかのように虚構を振りかれるのが、不愉快だった。

「私、そんなこと一回も一度も、言ってない」

 驚いた母親に、さらに続ける。

「毎回毎回、言ってないことを言ったように言うのはやめて。聞いていたら私は必ず返事をしてる。言った気になるのもやめて」

 お母さんみたいに苦労して欲しくない、それが母親の口癖だった。だというのに、この親は自分にされたことを娘に教育し、望みをはばみ、不満のけ口として利用している。こどもじゃない。みたいなものだ。

 通う予定の学校も、友達も捨てて、願われた先に通った。大学までずっと、それを成し遂げた。もう充分に、母の願いは叶えたはずだ。対価として、凪は将来の己の姿を思いえがくことができなくなった。

 世間知らずの田舎者。頭がいいだけのブス。小柄で邪魔くさい存在。おおむね、他人の評価はそんなものだった。

 本当にうそで塗り固められた家族だった。

 美しい妹はいじめにあいながらも、将来の道筋をいられることはなかった。

 弟は長男としてより大事に育てられたが、彼が生まれるまでの窮屈きゅうくつな生活を知っているため、時々は手助けを出したが気休めにもならなかっただろう。

 凪は気づかなかった。無意識に、「しにたい」と自身の勉強机に書いていたことなど。それは幼い凪からの、SOSだった。


 小説家になりたいと漠然ばくぜんと考えていたが、よく読んでいたライトノベルの賞に応募したところで、落選の連続だった。

 凪の世界はせまく、経験も不足していた。読める本もかたより、家からの移動手段はバスだけ。また、バス賃も高く、小遣いを渡されていない凪は、ほぼ家に閉じ込められている状態で育った。

 どこまでも凪を縛る家。

 そのせいで、凪は同級生と疎遠になるしかなかった。本来学ぶべきことを、なにひとつ学べずに、大人になってしまった。

 化粧の仕方のひとつもわからず、母親のメイクボックスを眺めては不審ふしんになっていた。なにせ、学ぶべき書物もないし、携帯電話すら持たせてもらえなかった。

 結局、なにになりたいかなど思いつかなかったため、就職活動もすることはなかった。ひととして当たり前にもつものを、凪は持つことがなかった。未来がえがけないという弊害へいがいも大きな要因だったが、金銭がなくて困ることはあっても、最低限食べること、読みたい本が読めればそれでよかったせいもある。

 そんな凪が働くことになったのは、またも母が手を回した先だった。どう考えても凪には不向きの職場だったが、安定しているというだけで、凪はそこにつとめることになった。相変わらず母親は凪のこともなにもみていなかった。

 だから。

 突如、凪に限界がきたことにも、気づくことはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る