第七幕

綴り人の物語 1


 これで最後だ。終幕は上がり始めている。

 そして……カーテンコールはない。

 終わりだ。本当の、終わりだ。行き止まりだ。

 さあ、天原凪あまはらなぎ……『つづびと』の物語を、はじめよう。

 

***


「助けに来た」

 そうささやき声が聞こえたのは一瞬で、夢の中へと意識が沈んでいく。甘美で残酷な、自分の軌跡きせき



 黒く短い髪。お世辞にも洒落しゃれているとはいえない服装。まだ小学校にあがっていない子供は、その喧噪けんそうの中でじっと見つめていた。

 幾重いくえにも響く玩具の音と、母であろう人物、父であろう人物、そのこどもたちのはしゃぐ声が、その売場うりばにはあふれていた。

 そんな中で、笑いもせずに凝視ぎょうしした先に飾られているうさぎをした人形に、目を奪われていた。可愛らしく、ふわふわしていて、赤い衣服を着た、赤い瞳の人形。

 低めの鼻。みにくいとは言えないけれど、普通とされる位置よりは下になるであろう容姿。肌は日本人らしく、黄色だ。そんな彼女の背後には、同じようなショートカットの女がいる。赤い口紅が目立つ、エプロンをつけた女は彼女の母親だ。

なぎ

 言いふくめるように、彼女に母親は言った。

なぎはお姉ちゃんなんだから、ときに譲ってあげられるわよね」

 なだめるような様子をふくんだ、ただの命令の言葉に、彼女の瞳の輝きが一瞬で消えてしまう。そんな変化に母親は気づきもしなかった。

 母親の顔を見たくないと言わんばかりに顔をうつむかせている彼女は、小さくうなずく。慣れた仕草を、母親でさえ……

 同じウサギの人形はほかにもあった。そちらは黒い衣服と瞳のもの。黒いうさぎは、赤いうさぎと違って在庫がたくさんあった。

「えらいね。さすがお姉ちゃん」

 誉め言葉ではないそれを、楽しそうに娘に向ける。母親が繋いでいる手の先にいる、もう一人の娘はなにが起こっているのか理解していない様子だった。姉とは似ても似つかない、色白の肌に、くりくりとした瞳をもつ、愛らしい娘だ。

 凪は、たった一つだからあのうさぎを選んだわけではない。鮮やかな赤色が可愛いと感じたから、自然と選んだだけだった。

 微笑む母親は赤いうさぎを妹に持たせる。凪はみずから黒いうさぎを手に取った。

 欲しいもの、ひとつだけ買ってあげる。

 珍しく選ばせてくれる言葉をいた母親は、すぐにそれをひるがえした。

 姉だから。それはただの言い訳だ。嘘をついた、言い訳。免罪符にもなりはしない。

 だが母親は、それがあたかも正当な、嘘をつく理由であるように妹に「レジに行こうねー」と笑いかけている。

 普段からなにかを欲しがることのない凪は、無意識化でまたり込まれた。は嘘を平然とつくと。

 いとも容易たやすく、母親を信じた彼女の心を踏みつけた。凪はがっかりしたわけでも、悲しみを感じたわけでもない。ただ、この母親は「お姉ちゃんだから」と言えば、と信じているのだと、感じただけだ。凪には理解はできなかった。

 母親からすれば、同じ人形に過ぎないが、明確な違いがあるというのにそれに気づきもしない。それが母親の成り立ちに大きく影響しているのかもしれないが、それとまったく同じことを、娘にいている自覚はないようだ。

 同じようなことは、何度もあった。

 祖母が二人に浴衣をつくるために反物たんものを選ばされた。妹と好みは違うので、そこでかぶることはなかった。……被ったのは、帯だった。

 赤い帯。だがその模様が違う。広げた折り紙のような、可愛らしい子供用の帯。

なぎちゃん、こっちがいいの?」

 甘ったるい声を出す祖母に凪はまったく期待などしていなかった。妹の怜も同じ帯の入った箱を指さしていたからだ。

「同じ赤色だし、こっちでもいいじゃない」

 聞き分けのない子供に向けているような、誤魔化ごまかしの言葉。色だけしか、同じじゃないのに。

「いいよね? お姉ちゃんだもの。また今度、欲しいもの買ってあげるから」

 この祖母も平気で嘘をつく。できもしない未来の約束を、たやすく、言葉にする。

 おとなのくせに、なんて無責任。

「おばあちゃんには、凪ちゃんも怜ちゃんも、大事な孫だからね」

 なぜ微笑みながら言っているのか。心からの言葉かもしれないけれど、凪にとっては身体からだみていく毒のようにただ、従うしかなかった。

 嫌だと暴れたところでなにも変わらない。彼女たちの優先順位は自分ではなく、妹だ。

 姉の自分から見ても、妹はかわいい。同じ親から生まれたのに、どうしてこんなに違うのだろう。とっていた栄養が違うからか? それとも、出来損ないとして、妹を輝かせるために産まれたのか?

 外から見れば、仲のいい家族。うそまみれの、家族。

 祖母は母をいじめ、母はその不満を凪にぶつける。抵抗することのできない凪は、言葉の暴力を振るっても何も感じないのだと……勘違いされていたのだろう。



 父は家族に無関心。仕事から帰れば居間を占拠し、テレビを占領した。凪の見たかったアニメは野球中継に変わり、なにも言わないだけ、嘘をかないだけマシにも思えた。やっていることは、凪から娯楽を奪っていることなのに。

 凪は家から逃げようとは一度も思わなかった。その年齢のこどもにしてはさとい部分があった。こんな田舎で家出をしたところで、すぐに飢えの苦しみがやってくる。寝床に屋根があるとは限らない。

 それに比べれば、我慢さえすれば衣食住が保証されているこの家が、少しマシだっただけだ。成長してから知ったが、産んだからには育児の責任が発生するという。義務教育があるのもそのためだ。

 だが、世の中には育児を放棄ほうきする親もいる。そんなことを知らなかったが、家の中でさええには苦しむのだから、こんなところを逃げ出したところで、なにかが変わるわけもない。ただのこどものワガママとして、勝手に、思われるだけだ。

 凪が一番よく接したのは母だった。父のいない間に自分が気になった番組が知りたいと新聞をかかげ、文字を教えて欲しいと願った。

 だが。

「読みたければ自分でなんとかしなさい」

 それが、母親の言葉だった。どうせ小学校に入れば覚えるという気持ちもあったかもしれない。だが凪は、「今」知りたかった。学びたかった。

 夕食の支度したくに戻る母親に背を向けて、凪は懸命に文字を憶えた。ひらがなしか読めなかった部分、やっとカタカナを憶えた部分、どうやっても読めない漢字の数々。同じ文字の形を反芻はんすうして、なんとか読めるようになった。ほこらしかった。やればできる、という言葉を実感した。

 けれどもそれを、

 まるで自分がそうするようにように、自慢の娘だと吹聴ふいちょうして回った。

 あなたはなにも、教えてくれなかったのに?

 凪にとって母親は我儘わがままで、すぐに癇癪かんしゃくを起こす、暴力だけを振るわない自己中心的な女としか認識されなかった。じぶんの考えこそが絶対であり、思い込みで記憶をじ曲げ、都合のいいようにありたいと笑う女。幸せでは、なかったのだろう。

 やがて祖母が、祖父が亡くなり、母の愚痴が少しでも減るかと思ったが、そうではなかった。不満の原因は、父親だった。確かに、家族とまともに交流しない。なにを考えているのかわからない男だ。

 だというのに、二人とも体裁ていさいをとても気にしていた。外面そとづらがいい、というやつだ。

(外ではすごく仲良くしてる……よくしゃべる)

 家の中と外との差に、凪はますます混乱していた。

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