2章 あやめながきね(9)
息子の悶々とした気持ちを、さらりと解きほぐしてしまった倫子を、道長は半ば呆れたような顔で見ていた。妻の教育方法には、まるで叶わない。
「殿は、まだこちらにご用事でも?」
遠まわしに邪魔にされ、道長はすごすごと退散する。倫子たちが落ち着いたとなれば、明子たちのことが気に掛かり、近衛御門に行く、とさも仕事でもあるような口ぶりで鷹司第を後にした。
そこでも道長は拍子抜けすることになる。父を迎えた巌君は、深々と頭を下げ、兄上ならびに鷹司の母上に大変失礼をしました、と謝ったからだ。面食らった道長は、わかればよい、年長の兄を立てるのだぞ、と短く諭すに終わった。
しばらくすると、近衛に鶴君の文を携えた使者がやってきて、おそらく倫子が指導したのであろう、未熟ではあるけれども、兄として弟の才を褒める和歌を渡す。
何と行き届くことか。
明子は驚きつつ、息子にお礼の返歌をするように勧めた。異母であっても、兄弟がいがみ合うのは悲しいこと。そうならぬよう早くにわだかまりを解いてしまう。幼いうちから習慣づけていれば、悲劇は避けられるかもしれない、と彼女も思った。高松第で見聞きしたような、惨い結末を我が子には味あわせたくなかった。
それでも、以来、巌君は変わってしまった。明るさのなかにも翳が感じられるようになる。童舞は子どもの出し物ではあったけれども、近い未来に大人の仲間入りをする彼にとって、いち早く経験した競争社会の一端だった。軽率なところも落ち着いて、とても思慮深くなっている。彼の態度は弟たちにも影響し、傍流の子として生まれた意味を理解していってるようだった。
子どもたちの成長は、明子に罪悪感を背負わせもする。母としての力不足な自分が歯がゆかった。
翌年、明子の後見となっていた詮子が亡くなった。彼女の運命を大きく変えた人だった。彼女の行為は、感謝するべきなのか、恨むべきなのか、ついに彼女には判断できず仕舞いだ。子ども好きな人ではなかったけれど、息子たちを連れて道長が参上した際などは、それなりに優しい言葉を掛けてもらったという。理解され難い、孤独な女性ではあった。
その翌年、明子は五女を、二年空いて六男を産んだ。四十での出産は不安もあったものの、周囲も慣れており、滞りなく赤子は誕生した。
小若と呼ばれる赤ん坊は成長して幼児となる。着袴の儀を控えて準備にせわしない時分に、道長は明子へ予想外の縁組を持ちかけた。小若を倫子の養子としたい、というのだ。
明子は狼狽した。
倫子も新年早々女子を出産している。陣痛が始まる前、倫子に「もし、この子が娘だったら、約束をお守りくださいね」と告げられて、道長は何の話か即座には思い出せなかった。よもや五年以上昔に口にした戯言を今頃持ち出すとは考えもしなかったのだが、倫子は本気だった。世迷言と一旦は捨て置こうとした道長も、よくよく検討すれば、悪くない話と考えを改めた。
道長は、兼家の末子である。順調に出世していた兄たちに代わって内覧の地位を手にしたのは、ほとんど偶然の賜物だ。長徳元年の激変は、現在もはっきりと覚えている。疫病の大流行のなか、彼が助かったのは年齢もあるだろうし、強運もあっただろう。運命としかいいようのない、こうした交代劇は過去に何度も起きている。嫡流たる倫子の男子はふたり。もうひとり男子がいても良いと道長も思ったのだ。
夫の言葉には説得力があった。元服時から、子どもたちの出発点は異なっている。倫子の生んだ長男・頼通と五男・教通は正五位下、明子の生んだ次男・頼宗、三男・顕信、四男・能信は従五位上に叙せられた。出自の良い貴公子たちは、父や祖父の地位に応じて一定の叙位を受ける。その蔭位という制度によって、子どもたちがみな最低でも従五位下を得ることはわかっていた。倫子の息子たちが飛びぬけて高位なのは、同母の姉に中宮を持つためである。明子の息子たちの従五位上ですら、通例よりはひとつ高い。
けれども、彼らは道長の子だ。出世において比較とするのは兄弟であり、この差は嫡流・傍流を形のうえで明らかにする印ともなっていた。
小若は、さらに遅れて彼らに続くことになる。それがどれほどの不利になるのか、彼女とて知っている。嫡流のきょうだいに囲まれ、愛されて弟として引き立てられるためにも、倫子の申し出はありがたいくらいだった。ただ、別れるつらさを別にすれば。
このころには、明子は倫子を充分すぎるほど信頼していた。彼女は滅多にいるような女性ではない。小若を大事に育ててくれることは間違いないだろう。せめて袴着は我が手で、と夫に頼み、彼女は養子縁組を承諾した。
儀式ののち、数ヶ月かけて子どもたちだけで鷹司第に幾度か泊まりに行かせ、向こうのきょうだいたちとも馴染ませた。息子はあどけなく、「鷹司のお姉さまにいただいた」と明子に唐菓子を分けてくれたりした。その意味も知らない息子の笑顔で、つい涙ぐむ。そんな母にびっくりした小若に「母上、痛い?」と顔を覗き込まれ、愛らしい仕種にまた涙が止まらなくなるのだった。
その日は、何でもないようにやってきた。方違えで何日か、鷹司の母上のおうちに泊らせていただくのですよ、と明子が伝えると、彼は生まれたばかりの妹と遊ぶ、と興奮した。彼にとって年下のきょうだいは、倫子が生んだこの六女のみで、「兄君」という新しい役割が気に入っているようだった。
乳母のほかに女童をひとりつけることになっており、彼女には事情は伝えてあった。少女は五女の乳母子であり、姉とともに女童になっている高雅の娘だ。
「私の代わりに、小若を見守ってあげて」
明子がそう頼むと、幼いながらに決意の表情で、こくりと彼女は頷いた。思えば、明子が実父・高明と別れたのも、この女童と同じくらいの年齢だった。それよりも小さい息子は、母をどの程度覚えていてくれるだろうか。
「お守りします」
少女は一生懸命約束した。
「必ず、お守りします」
こんな幼女ですら、私より凜としている。しっかりしなければ、と明子は心を奮い起こして、彼らを送り出す。小若が鷹司第に去った後、明子は簀子の端近まで寄り、暗くなるまで牛車の去った方向を見つめていた。
倫子の意図は、半年経たないうちに近衛に住む者たちにもはっきりと伝わるようになる。以前から折に触れて兄弟姉妹たちの行き来はあったのだが、小若を理由に倫子は頻繁に明子の子どもたちを招待した。
姉たちには、「小若が寂しがっているから」、兄たちには「母君に様子を伝えて欲しい」と言って。
小若を仲立ちにすることで、きょうだいたちの関係を滑らかにし、お互いに親しむように配慮している。最初のうちは、近衛の上さまからお子を奪われるなんて、と憤慨していた者たちも、そのやりようを前にして見方を改めた。明子は、鷹司殿はそのような方ではありませんよ、と窘めていたのだけれど、愛らしい末の子を連れて行かれた、と感じる古女房は少なからずいたのだ。長く仕える者ほど悔しがったのには、小若が明子によく似ているという事情もあった。
お任せしたのは、間違いではなかった……。
寂しい反面、母としてすべきことをできたという安堵も彼女は感じていた。
倫子の思惑も、すべての面で上手くいったのではない。元服を済ませていた頼宗、顕信、能信の三人は老練な大人たちに揉まれながら、嫡流との差を自分たちなりに処理し始めていた。みな年が近いことも影響している。けれども、大きな衝突にはならず、少なくとも表面上は平穏に日々が過ぎた……。数年して、顕信が突如出家を遂げる、その瞬間まで。
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