2章 あやめながきね(8)
巌君は父親の言葉に、とても張り切った。
もともと、彼は道長の快活さと明子の繊細さを兼ね備え、和歌の才能にも恵まれた少年であった。少し前ならば中将実方、最近ならば中将頼定を思い起こさせるといえば適切だろうか。成長した暁には内裏女房たちが放っておかないだろう“今業平”になると、女たちは口を揃えて予言した。そんな艶めいて華やかな性質がある。
習ってみると舞の師匠が言葉を尽くして褒め称えるほど、彼はその道の才にも恵まれていた。少年が練習をしていると、邸宅中の女たちがそっと見物しにやってきたくらいに。
父上が褒めてくださるような、そんな納蘇利を御覧にいれます、そう無邪気に頑張る息子を微笑ましいと思いつつも、「当日は、兄君の晴れの舞台。お邪魔になるようなことがあってはなりませんよ」とはしゃぎすぎないよう、釘を差すことも忘れない明子だった。
弟たちも連れてきなさい、と道長は苔君と葉君も伴わせた。ふたりの世話をするため、乳母子も一緒だ。明子の息子ふたりは表には置けないものの、女房たちが控える御簾のなかに座らせて、兄たちの勇姿を見せてやろうという父親らしい思いやりだった。
「行ってきます、母上!」
元気に袖を振って出かけていた兄弟は、夕方、濡れた犬のようになって肩を落として戻ってきた。
あまりに様子が尋常ではないので、何があったのか乳母子に尋ねるけれども、彼女も涙ぐんでしまって話にならない。後から到着した付き添いの家人によれば、巌君はうまくやりすぎてしまったのだ、という。
本番の二日前、試楽のときから兆候はあった。童が舞い、帝あるいは上卿が感嘆して褒美を取らせる。それは一定の約束ごとだ。童の技能によるものではなく、場を用意した公卿への褒美であり、身分の上下でやり取りされる協力関係の確認儀礼に過ぎない。試楽では一条帝は慣例に従い、長男・鶴君を褒め称えた。舞の出来を心配していた道長も、随分と安心していたそうだ。
ところが、舞そのものは次男である巌君の方が遥かに優れていたのである。鶴君が劣っていた、というよりも、巌君が上回りすぎたというのが正しい。しかも、巌君は道長に似たのだろう、本番に強い性格だった。
賀の当日、少年は天人が宿るがごとく見事な舞を見せた。同席した公卿たちをはじめ、覗き見の下仕えに至るまで、みな感動の余り涙を堪え切れなかった。長男は下賜された衣を受け取ると、恥ずかしそうに引っ込んでしまったが、次男はそれを肩にかけ、優美にもう一差し舞ったという。
一条帝は過ぎ去りし時代に息づいていた、雅びな宮廷文化を感じ取ったのだろう。若い主上は感激を抑えきれず、その気色を見て取った右大臣・顕光が進言し、巌君の師匠・多吉茂に殿上人となる従五位下を与えた。破格の加階ではあったが、一条帝にとっては、明子の後見たる母・詮子の顔を立てる行為でもあった。
それが、道長を怒らせたのだ。
明子は心を痛めた。巌君に他意はない。そんなことは誰もがわかっている。巌君は、ただ父に褒められたかっただけなのだ。
巌君は、沈黙によって親なるものを拒絶している。浮かない表情で黙り込む兄に代わって、「父上は、ひどい」と吐き出したのは葉君だった。
「兄上はすごかった。みんな、泣いてた。すごかったから」
涙を堪えて搾り出す弟の頬を、苔君が突いた。
「変なの」
「何だよ!」
子どものくせに、どこか醒めた目をしている苔君は、からかうように、「だって」と答える。
「おまえは父上に一番似ているもの。父上そっくりの顔で、ひどいって言うからさ」
「似てない! あんなやつに似てない!」
父君にそのような言い方をして、と乳母が諌める。明子は、「おいで」と巌君をさし招いた。弟たちの手前ためらいつつも、彼は大人しく母の近くに寄った。
「この四十賀は、父上にとって大切なお仕事。もうすぐ一の君も元服なさるだろうから、立派な姿を大人の方々にお見せしたかったのよ」
「わかっています」
ふてくされたように巌君は呟く。
「でも、貴方もちゃんとできるとお見せしたかったのね。貴方は悪くはないのよ……。私のお父様は、おふたりともとても音楽にも文芸にも秀でた方たちだったの。貴方がひとりで寂しくないよう、見守ってくださっていたのね。きっと、お祖父さまたちが張り切りすぎてしまったのだわ」
明子はそっと長男を抱きしめた。別に、と顔を背けた巌君だったが、母の香りを嗅いでいるうちに強張りが緩んで、大粒の涙を零し始めた。
「私も見たかったわ……」
次いで葉君が、「なんだよ」と拗ねていた苔君も大声で泣き始める。明子は取りすがる息子たちを抱きしめた。彼女にはそれしかできない。
道長の怒りは、むろん、息子に対するものではない。子どもゆえの出過ぎた面もあったが、決定的にしたのは顕光の余計な一言だった。よくぞ、台無しにしてくれた、いつものような失態で事は済まさない、と呪わしくてならない。
顕光は伊周が失脚した機を狙って、娘・元子を入内させ女御としている。つい数年前までは定子と並んで寵愛を受けていたものの、昔日の勢いはない。しかし、その過去を忘れられない彼は、定子亡き後の後宮で再びの夢を見ている。
派手に感情を表したのには、周囲の公卿たちの迷いを防ぐほかに、倫子への意思表示もあった。世間には序列というものがある。中宮の同母弟であり、年長でもある鶴君を弟たちが軽んじることになったら、将来は再び兄弟で酷い争いになる。それは望んでいなかった。
宴の最中、倫子の機嫌伺いに御簾のなかに入ると、妻は几帳を立てた向こうで彰子とともに談笑している。とはいっても、表面で気分を害していないと判断するのは危険だ。
「今、中宮もおっしゃっていましたが、高松殿のご子息は、三人ともとても可愛らしゅうございましたね。もし、あの方に、新しく男の児ができるようでしたら、ぜひ養い親になりとうございます」
いきなり何を言うのか、と彼は意表を突かれた。
「私には男子がふたり……。もうひとりくらい、よいとは思いませぬか。ねえ、お頼み申し上げましたよ」
よくわからぬまま、ああ、と彼は生返事をする。意外性に満ちた婚儀から十数年が過ぎても、彼女には相変わらず不思議な部分がある。
さすがの倫子も顕光の差し出がましさに不愉快を覚えていた。けれども、翌朝には、どうでもよいこと、と道長に任せる気になっている。彼女が注意したのは、実子の心持である。土御門第に泊まった道長も翌日にはわざわざ鷹司第にやってきた。が、未だに苛ついた素振りの夫は放置して、彼女は鶴君を居間に呼んだ。
「昨日の舞、よく頑張りましたね」
はい、と息子は頷く。彼は素直な性質だ。
「けれど、人は弟君の舞に心を揺さぶられたようです。貴方はどう思いましたか」
少年は一瞬取り繕おうとするごまかしの表情を浮かべたけれど、母の鋭い眼差しで断念した。
「羨ましかったです。私には、あのように舞えないから」
倫子は、そうですね、と満足そうに頷き、「そんなことはないぞ」と取り成そうとした道長を、「少しお黙りください」とぴしゃりとやっつけた。
「それで、貴方はどうしますか」
鶴君は首を傾げた。どう、とは。
「巌君の舞は天与のもの……。貴方が真似ようとしてできるものではありません。妬みますか」
「いいえ!」
真面目な長男は、慌てて否定する。
「すごいと思います」
彼女は微笑んだ。それこそ、望んでいた回答だった。
「そうですね。素晴らしい才のある弟を誇りに思わなければ。貴方は兄君なのですもの。そうやって、自分にはないものを認めて賞賛できることも、とても得がたい資質なのですよ」
はい、と鶴君はやっと気の晴れた様子になって、そのように伝えたいです、と答える。では、弟君に文をお送りしましょうね、と彼女は提案した。きっと、大変な失敗をしてしまったと思って深く傷ついているでしょう、と教えると、少年はやっと自分だけでなく、弟もつらいだろうことに気がついた。
他人を利用して本意を遂げる。それも政治だけれど。
ゆえにまだ十ばかりの子どもたちを当て付けに利用した右大臣が、倫子は憎かった。
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