2章 あやめながきね(6)

「これから先、私は君を泣かせる。多分ずっと」

 はっと彼女は息を呑む。


「けれど、離さない。君は私のものだ。泣こうと、逃げようと、嫌がろうと……。傍にいろ」

 彼は彼女を抱き寄せ、噛みつくように唇を吸った。


「苦しくても、私と一緒にいるんだ」


 彼女の全身から力が抜けていく。宿命だろうか、業だろうか……。何者かが宣告している。老いたる女たちの言葉は常に正しい。託宣の巫女のように。

 恋を手に入れられる女は少ない。持ち続けられる者は、もっと僅かだ。

 彼女は確かに恋を手にした。彼は愛しているという。それは真実だ。彼女も彼を愛している。


 でも。

 物語にも和歌にも現れる恋の闇。それがどれほど深く暗いものなのか、彼女はようやく悟った。



 倫子が女子を産んだことで、明子の身はほとんど忘れ去られたものになった。道長は変わらず通ってきてはいたが、毎日のよう、とはゆかなかったし、泊まらずに帰ることも多かった。その代償のように、彼は共にいる時間は、最高の恋人、夫であり続けた。先行きや物事を深く思い悩まないなら、理想的な生活であったかもしれない。子がいなければ、特に。


 雅信は、最後まで彼に懐疑の目を向け続けた。厳格で実直な雅信は、受領とも親しくやり取りをし、ときには乱暴な輩とも付き合う彼を胡散臭い人物、と受け取っていた。彼の周囲にはとかく人が集まりやすい。時折行き過ぎることもあったけれども、一方で、そういう彼を穆子は頼もしい性質と捉えた。現実的には、上級貴族であっても、地方豪族化した集団との協力・共益関係は不可欠だ。すでに形骸化し、一部では機能不全を起こしている律令体制のなかで、京から拠点を移さず権力を掌握するためには、現地での実働部隊はなくてはならない存在だったのである。


 その実際のところを、彼は穆子とその親族、家司や家人たちから学んだ。父である兼家も当然そういった輩を利用していたけれども、大部分は道隆、道兼が引き継いでおり、道長との付き合いは薄い。それに、兄たちはどこかで彼を「頼りない末弟」と思いたがっているようでもあった。自分たちの利益に目ざとく抜け目のない受領層をどう扱えばよいのか、穆子も倫子もよく弁えていたのである。これは、宮家の姫として育った明子には、及びもつかないところだった。


 岳父に遠慮しながらも、彼は高松第への目配りも忘れない。左大臣の婿となった彼には、より多くの人材が集ったけれども、彼は人となりと能力に見合った活用をするのが上手だった。計算高く、都合が悪くなればすぐに乗り換える者にはその場の利益を、そうでないものは胸襟を開いて登用する。そんな彼が信用するひとりに源高雅がいた。


 祖父に有明親王を持つ高雅とは、その父・守清と明子がイトコ同士の関係だ。有明と高明はそれほど年齢が離れていないのだが、明子は末娘とあって従甥従兄の子の方が年は近く、高雅が年上だった。皇統でいえば、光孝帝皇女を母に持つ有明は、嵯峨源氏三世の母から生まれた高明よりも格式が高い。しかし、藤原氏の主流と結ぶことができなかった親王子息・守清は、高明・盛明らに比べて官位に恵まれないでいた。


 道長と高雅がどこで知り合ったのか、明子は知らない。が、ごく若いうちからの関係らしいので、次兄である道綱と遊び歩いていたころではないか、と乳母子の小兵衛は推定した。彼は無駄口を叩かない。母方に堤中納言と呼ばれた歌人がいるので、決して文芸に疎い家系ではないはずだが、彼自身はそうしたものを得意とはしないようだった。倫子の娘に乳母としてついた女を妻としているということだったが、その前後関係については彼女たちは聞かされていない。抜け目のない男なのだろう、彼のおかげで、彼女は特に不備なく生活できている。


 娘が誕生した翌年、道長は右衛門督を兼任し、さらにその翌年には正三位を受けた。順調に官歴を重ねる彼ではあったが、夏になると父・兼家が薨去し、多少状況も変わった。とはいえ、彼は亡き兄たちと異なり、自分の息子たちへ万全な状態で権力を渡していたので、大きな混乱は起きない。ただ、息子たちの間では、次世代の覇権に向けて水面下の動きが活発になりつつあった。


 道隆の長女・定子が一条帝の中宮とされ、道長はその大夫となったものの、兄との関係は順調とは言えなかった。生母である詮子と道隆の間がしっくりと行っていなかったせいだ。


 兼家の生前から、彼は一条帝を家族の一員でもあるかのように囲い込み、たとえ新たな女御が入内したとしても、そうは馴染めないように気持ちを娘に向けさせていた。ときに、詮子を部外者であるかのように扱うこともある。長兄のなかでは、帝を産んだ詮子よりも現・摂政である自分の方が上席だと考えており、詮子にとっては、母后と臣下は並ぶものですらなかった。道隆にとって、彼女はいつまでも幼い妹のままだったのである。


 兼家の息子たちは緩やかにそれぞれの陣営に別れ、周辺の貴族たち、こと九条流は慎重に旗色を伺いつつ、ひとまずは摂政・道隆の下に集まる形になっていた。そのうちで、道長は詮子側であることが明白な数少ない公卿ではあったが、やはり末弟のすること、と問題にされていない。若干の緊張は生じていても、長男である道隆が健在であり、彼が兼家の跡を直接引き継いだ事実は大きい。それに年若い一条帝に、今日明日にでも御子を、という期待は早すぎたため、兄弟間の軋轢は未だ発生していなかったのである。


 明子は男たちの事情とは無縁なまま、ひっそりと高松第で過ごしていた。この頃から、徐々に道長の訪いが増える。ひとつには左大臣・雅信も高齢になり、道長への態度が和らいだことがある。孫娘の誕生以来、倫子は長く懐妊せず、道長が他の女に通っても文句を言いにくくなった。


 もうひとつは、やはり道隆摂政の内裏では、彼は真の中心にはなれなかったことがある。相対的に、時間にゆとりができた。監視の目が緩くなり、自身も公卿としての実績ができたことで、彼は堂々と行動するようになる。ある点では、彼の足場が固まったともいえる。


 その反面、明子にとっては妻の序列が八割がた決定したことも意味している。その結果、夫との逢瀬が頻繁になるというのは皮肉な話でもあった。


 封印を解くかのように、明子はすぐに子を成した。またもや一足早く倫子が二子を出産していたので、生まれた子は道長にとって次男となった。翌年、また翌年と立て続けに男子が生まれる。次男をいわお、三男をこけら、四男をすえと名づけた。


 年子の男子はやんちゃで、彼女は長い憂いを忘れることができた。乳母の決定は道長がおこない、高雅が連れてきた。彼女は高雅の妻のひとりで、鷹司第にいる長女の乳母とはまた別の女性だという。彼らの会話の端から、夫が帝や倫子、長女についた乳母と乳母子らと緊密に連絡を取り、人脈をうまく利用しているのだと、明子にも想像できた。長兄の全盛期とはいっても、彼はただ手をこまねいてはいなかったのである。高雅の妻が生んだ子は女子だったので、そのまま女童として高松第で明子の子とともに成長していった。


 ずっと道長を恨んでいた愛宮も、孫たちの可愛らしさに気持ちを優しくした。なかでも、明子の長子になる巌は利発で凛々しく、祖母を初め女房たちに愛された。


 ちょうど四男が生まれた年、道長は大きな転機を迎える。

 正月から体調の優れなかった道隆が急逝したのだ。彼は嫡子・伊周に跡を取らせたかったのだが、二十二歳の若造に摂関の座を渡すことは道綱・道兼でなくとも許せるものではなかった。強引な道隆のやり方のせいで、周辺貴族の心はすっかり離れていたのである。一条帝はといえば、愛妃である定子の願いを聞いて伊周に権限を与えたい気持ちもなくはなかったけれど、さすがにそうなったら政が立ち行かないだろうと少年帝といえども理解できている。代わりに頂点に立ったのは、兼家の三男である道兼だった。


 まずは順当に見えたこの配属は、脆くも数日で泡と消え去る。前年から流行していた疱瘡が本格的に猛威を振るい、道兼の命を奪ったのである。しかも、病に斃れたのは彼ひとりではなかった。体力の劣る高齢の公卿たちは次々と薨去しており、帝に最も近い公卿として残ったのは、実質的に道長と伊周のふたりきりだった。


 このとき、道長は齢三十。


 決して老練な政治家といえる年齢ではなかったけれども、伊周との経験の差は歴然としているうえ、出家し女院となった母后・詮子の意は道長にあった。姪ではあっても、高階の血を受けた娘が中宮になっている。ここに加えて、摂関の地位に高階の縁者を置くわけにはいかない。他氏の外戚を許さない―― それは道長たちのみならず、九条流、ひいては藤原氏北家の総意だった。

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