2章 あやめながきね(5)

 やがて、また春が来る。


 訪れが稀になった道長も、桜を携えてやってきた。が、明子はもう心をひとつにして眺めることはできない。彼女を気にして、労わる道長にも遠慮が認められ、そうさせてしまう自分という存在が疎ましくもある。


 皐月になり、時鳥の初音が聞こえるようになった。高松第でも端午の節句のために菖蒲あやめが数多く持ち込まれ、下男たちが軒から葉を垂らしている。女房たちはそれぞれ薬玉を作っているのだが、明子は手にすることもせずに、その風景をぼんやりと眺めていた。


 こうした細工を彼女は得意とし、神に奉じるほど美しい、と道長も感心したものだ。たった一年ほどの同居生活なのに折々の行事に彼の影を見て取って、彼女の憂いは深くなるばかりだった。支度の材料は道長が予め手配させたものである。午後も遅く、さらに高雅が贈り物を手にやってきた。


「まあ……。とても長い菖蒲の根ですわ」

 検分した伊勢が娘である小兵衛と顔を見合わせる。乳母は主を気遣い、他家に仕えていた我が子をこの春に呼び寄せていた。


「殿は、お忘れではないのですね」

 すっかり気が弱くなった伊勢はそっと袖で涙を拭いた。けれども、明子はとてもそんな気分になれない。返事を待っている高雅に、これをと一首認めて渡す。


 この日に、女たちが腰につけて長さを競う菖蒲の根で、ふだんは隠れている部分であっても、貴女を長く長く想っている……、そう彼が伝えようとしていることはわかっていた。鷹司第でも節句の準備で慌しいことだろう。その喧騒のなかで、彼は隙を見て、密かに彼女に想いを届けたのだ。


 でも、それが何になるでしょう。

 明子は目を伏せた。

 彼は、ここにはいない――。


 鷹司第で、そわそわと高雅が戻るのを待っていた道長は懐かしい恋人の書蹟を目にして、少年のようにときめいた。紙についた香も、彼女のものだ。


長しとも知らずやねのみながれつつ

     心のうきにおふるあやめは


―― 貴方の愛が永遠に続くなど、わかるものでしょうか。貴方の仕打ちに、声をあげて泣き伏すだけの私ですのに……。


 そうまではっきりと、彼は責められたことがなかった。会えば彼女は、いつも寂しそうに微笑んで、一言でも彼を詰ったりはしなかった。


 信じてはいない。

 彼は知った。


 彼女は、彼の約束を信じられなくなっている。理解してくれていると思っていたのは、彼の独りよがりだった。


 道長はすぐにでも駆けつけたいと立ち上がりかけ、近くに倫子がいると思い出して、はっと腰を下ろした。鷹司の妻はちらりと夫の背中を盗み見たあとで、大きくなってきた腹を気怠そうにさすって、「私、気分が悪うございます。母上に来ていただいてもよろしいでしょうか。休みたいのです」と助け舟を出す。


 彼は、ああ、そうしなさい、私も中将と約束があった、と取ってつけた言い訳をして、そそくさと支度を始める。


「本当に隠し事の下手な方」

 道長が出かけた鷹司第で、倫子は面白そうに笑った。

「お優しいことですわね」

 わざわざ夫の外出を後押ししてやった倫子をからかうように、赤染衛門が言う。


「あら、いいのよ」

 最初から、あの方と私とはそういう約束なのだし、とは口にしない。他人に理解されるとは思っていない。

「私だって男子に生まれていれば、かの方のような女君を娶せて欲しいと思うもの」

 さすがに、ご冗談ばっかり、と赤染衛門たちも返して本気とは受け取らなかった。


 京の北東、ほとんど端にある鷹司第と、三条にある高松第では内裏から見た方向はかなり異なる。その違いは、多忙によって左大臣宅を中心にしがちな道長の訪問を妨げてもいた。しかし、直線距離でいえば、それほど遠いわけではない。


 目立たない牛車を使って、さも四条の方へ向かうよう細かい配慮もしつつ高松第に着いたころには、もう辺りは暗くなっていた。


 先駆けも送らなかった彼は、彼の訪問に慌てる門番に命じて強引に門を開けさせ、明子の居る寝殿に急ぎ歩く。早くも寝所で横になっていた彼女は、すわ夜盗の類かと怯え震えた。


「明子」

 乱暴に帳を上げて浸入したのは夫だった。

「殿……」


 ほっとした次に、連絡もなくどうして、と戸惑う彼女を彼は抱きすくめようとしたが、予想外の強い力に押し返される。

「いやっ」

「どうした、明子。私だ」


 彼女が咄嗟に反発したのは、彼が身を包んだ狩衣のせいだった。慕わしい感情が沸き起こると同時に、別の女のつけた薫香は彼女に激しい拒否反応を起こした。


「なぜ、いらしたのです……」

 彼女はぽろぽろと涙を零した。


 普段の訪いでは、倫子を思わせぬよう気をつけてくれている。それを省いて逢瀬を優先したくらいに彼は慌てていたのだが、彼女はそう取らなかった。いや、理性ではわかっても、香りという生々しい残滓によって心は彼を拒んだ。


「このまま捨て置いてくだされば、世間も私など忘れて尼になれますものを……」

 ついぞ出なかった恨み言が零れる。


「君を見捨てることなどあるものか……。ああ、不安にさせたことは謝ります。けれど」

 彼女は、いいえ、と首を振った。そうではない。謝罪が欲しいのではない。


「いいのです。貴方にとって、鷹司の方はきっと大事な方になりましょう。児も私からは去りました。貴方の情けに縋って、据え置かれるのには耐えられません」

 愛情を拒絶する彼女の言葉は、彼の心をも切り裂いた。


 信じないというのか、と彼は呟いた。違います、と彼女はなおも拒む。

 とっくに終わっている。この結婚は、もう意味がない。彼女はそう感じていた。ならば、自由にして欲しい。彼女は涙ながらに願った。


「もう、お父さまの許に……、いきたい……」

 漏れ出た明子の嗚咽に、彼は激高する。

「だめだ」

 彼女を諦めて、彼女を手放して? この願いを叶えるべきだろうか。一瞬の迷いののち、強く反動した。


 そんなことは許さない。

 彼は強引に引き寄せる。彼女は驚いて悲鳴を上げ、それを聞きつけた乳母たちが近づくのを、「来るな!」と強く恫喝した。

 常に優しく扱ってきた彼の、突然の豹変を彼女は畏れる。それも彼を余計に高ぶらせた。こんなに想っているのに、彼女には通じない。


 無理やり組み敷かれた明子は、初めて夫の異なる一面を見た。その身を貫く痛みは、むしろ胸のうちにある悲哀が形になったもののようだった。彼は、とうに彼女を傷つけ、切り裂き、粉々にしている。


 白い肢体を力で蹂躙して紛うことなく彼女が自分のものであると確認すると、彼はようやく身体を離した。いつものように優しく髪を撫でることもない。その雌を抱きたいという雄の欲求に従ったまで、恋し合った夫婦の姿とはとうてい言えなかった。

 空は白みかけており、彼女の涙も枯れている。


 この人を帰さなければ。何か理由を作って出てきたのだろう。左大臣殿が気分を害されるやも……。

 こんなときまで彼の立場を気遣ってしまう。彼女はふっと自嘲した。自分の心でさえ、思うに任せない。


「恋人を……、妻にする男は愚かなのだそうです」

 誰から聞いたのだったろう。賢い男は、そうはしないと。恋を求める女も、やはり愚かなのだろうか。


 そうか、と彼は背中を向けて胡坐をかき、脱ぎ捨てた衣服を手繰り寄せる。あやめも知らぬ恋もするかなとはよく言ったものだ、とひとりごちた。

 別れられるのなら、そうするのが利巧だ。


 明子ものろのろと起き上がり、小袖を簡単に整えると、夫の身支度を手伝った。こんな酷い朝に、そんな当たり前の動作をしていることが不思議だった。壊れたものを元の位置に戻していく……。そんなことをしても直せはしないというのに。


 そう、恋人を妻にする男は、愚かだ。

 彼は首のとんぼ玉を留め、明子の手首をぐっと掴んだ。


 ならば、私は京で最も愚かな男になろう。

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