2章 あやめながきね(4)

 帳が掲げられ、衣擦れの音が清かに聞こえた。上品な香りが届く。しかし、女は褥の脇に控えて、衾に入ろうとしない。どうした、と彼は彼女を見上げた。


「左京大夫様におかれては、大変にご不興のご様子」

 滑らかで艶っぽい声だ。言葉とは反対に、面白がっているようでもある。左大臣の娘は彼よりもふたつばかり年上と教えられていた。その余裕だろうか。未通女おぼこのくせに、と彼はむっとする。


「この婚儀をご本心ではご了承されていないことは、よく存じております。とかく、縁談はままならぬもの」

 他人事のように軽やかに彼女は告げる。彼は、この女、なんだ? と身体を起こした。

 倫子は薄っすら微笑んでいる。


「貴女も、私が気に入らぬと?」

「それは、まだわかりませぬ。何しろ、床もご一緒にしておりませんもの」


 随分な余裕に彼は首を傾げた。深窓の姫君ともなれば大抵は臆病で大人しい。とかく刺激に弱いのだ。相思の間柄で初夜を迎えた明子であっても、彼の腕では未知の恐ろしさで震えていた。倫子の落ち着いた態度はどこから来ているのだろう。もしかして、すでにどこかの男と通じており、それを隠すための結婚なのだろうか、と邪推までした。


「大夫様がお疑いのようなことはありませぬ」

 ふふっと彼女は笑った。

「こうお考えくださいませぬか。私は左大臣の長女です。両親の期待、兄や弟妹への責務は大変に重い……。夫には立派な上卿になっていただかなければ困るのです。大夫様も、そうではございますまいか」


 はっきり物を言う女だ、と彼は若干辟易しながらも、「そんな大望は持ち合わせておらぬな」と答えた。彼女は、どうでしょう、と嘯く。


「最近、兄君はお若いご子息を少将になさいましたね。前の葵祭で、父君は仲のよろしい弟君右大臣をどうなさいました? 同じことは起きないと? ご存知のはず……」


 彼はここ数ヶ月の鬱屈をずばり言い当てられて、どきりとした。いつまでも独り身で遊んでいる仕様のない末弟だった彼は、結婚によって兄たちの競争相手になり得る存在へと、その本質を変えた。周囲が意識するとせざるとに関わらず。

「どうしろと……」

 私を、と彼女は詠うように告げる。


「ご利用なさいませ。私と親族は、きっと大夫様のお役に立ちましょう。父上が記録してきた過去の行事や有職故実……、有能な文官や国守たちとの縁もあります。私たちは、大夫様を全力でお手伝い致しますわ」


 貴族の婚姻とは、彼女が明言したように本来はそういう異なる利益集団の結びつきである。しかし、そうはっきりと言葉にする者はいない。姫であればなおのこと。

 彼は返事に詰まったけれども、それは彼女にとっては答えたのと同義だった。衾を上げて、すっと、褥に入ってくる。父親の反対などものともしない強い意志。自分で運命を選び取る毅然とした姿勢……、それらは彼の知っているどんな女にも発見できない資質だった。


「すごい姫君もいたものだな」

 半分呆れて呟くと、彼女はむしろ挑発をした。

「道長様は私に相応しいほどの方でいらっしゃいますか」


 生意気だ。けれども、彼女を、おもしろい、と思っている彼もいた。

「手を組む、というわけか」

 ええ、と彼女は彼の手を自分に導きながら頷く。恋は求めない。彼女の欲しいものは、そこにはない。


「貴方を、もっとも高き極みにお連れ致します」

 彼は野心家ではないけれど、彼女は心の奥で眠っている何かを揺さぶって目覚めさせる。いいだろう、と彼は決めた。姉の命じたように、この一家を食らおう。自分の血肉としよう。この姫は、そこらの女とは違う。


「だが、初めは」

 まずはこの新しい女の身体に挑んで、我がものとすることから始めることにした。


 欲望に醒めやれば、残した妻を思い出す。彼は夜も暗いうちに鷹司第を後にした。姫君の世話をしに来た若い女房が、「あのように慌しく」と憤慨してみせる。

「名残惜しくお戻りになるのが礼儀ですのに」

 詮のないこと、と倫子は微笑み、もうひとりの女房が差し出した手を取る。そんなことはどうでもいい。契約は成された。


「おやめ。口の軽い女房は姫様の格を下げます」

 でも、赤染衛門殿、と彼女は不服そうだ。

「気遣いは無用よ。きっと、私たちはうまくいくわ」

 倫子は初夜を済ませたばかりの姫君とは思えないほど、落ち着き払って場を宥めた。


 道長は一度実家に立ち寄り、衣服を改めて明子の許に向かった。残り香を感じさせたくない、という心配りだったけれども、それも却って彼女の胸を締め付ける。そんな気遣いなど、これまで必要なかったからだ。彼は眠気と戦いながら妻の悲哀が和らぐよう慰めたけれども、彼女を包む身体は他の女を抱いたものだ。ふたりの仲は変化したと、彼女は悟っていた。


 三日間の妻訪いが終わっても、道長はすぐには鷹司第には転居しなかった。左大臣の娘をないがしろにはしなかったものの、彼はどちらにも通うよう気をつけて日々を配分した。鷹司第では時勢はこちらにあるとして、遠まわしな当て付けをするお付きの者もいないではなかったが、彼はそ知らぬ振りで聞き流す。そのうち、そういった顔は倫子の側には侍らなくなった。


 母親がしっかりと娘を後見している分、倫子の周辺はきちんと統制が取れており、了見の狭い者や礼儀を弁えぬ者が長く居ることはなかった。その代わりに、少し息が詰まるような隙のなさを感じる。

 一方、明子の屋敷は苦労を経験した者も多く、女主人を娘や孫のように大切にしている。そのせいか、穏やかで暖かな雰囲気に包まれている。が、政治の込み入った話はできない。

 彼は意識しないまま、ふたつの邸第を使い分けるようになっていた。


 そうやって彼は環境に慣れていったが、明子には徐々に心労が積み重なっていた。年が明けてすぐのこと、彼女は倒れてしまう。赤子は助からず、この子のため、と張り詰めていた彼女は心の糸が切れてしまって、道長の慰労の声もほとんど届かなくなった。今は、少しそっとして欲しいと乳母に伝えられた道長は、勢い鷹司第の滞在が増え、ほどなく倫子の妊娠が判明する。


 道長は、中納言になっていた。

 充分に夫の世話ができないうえに、倫子側に子どもまでできたのでは鷹司第に同居をしない理由はない。言い訳を心苦しく思いながらも、道長は使いをやって高松第に置いていた私物を取りに行かせた。使者は求婚の際も役目を担った高雅だった。


 ちょうど明子の見舞いに来ていた愛宮は激しく憤り、悲しみ、娘の代わりに和歌を書いて送った。娘の痛みを少しでも突きつけてやらなければ気が済まなかった。

「こんなに早く見捨てられる運命だったのなら、あのとき無理に尼にしてでも止めるのだった……」


 その嘆きを聞きながら、明子も母の懸念の通りだったと思い返した。物語のようなことは、そう起きるものではない……。恋など、渡り鳥のようにすぐ飛び去る。


 参議を飛ばして公卿に上ったことで、道長の身辺は忙しさを増していた。明子の様子は気に掛かってはいても、医師でもない自分ができることはあまりない。それよりも、今は効率よく所領の運営と職務の雑事を行える鷹司第を活用し、そちらに専念しようと考えていた。彼女を大切に想っていることに変わりはない。そう確信があるからこそ自分自身は揺らがない。彼のあっさりとして現実的な性質は、何といっても兼家譲りだ。


 しかし、周囲はそうと見ない。よくよく言い含められた高雅とその関係者は高松第の面倒をよく看たけれども、元は詮子に付けられた家司や家人たちは参上を怠るようになっていた。半年ほど前は人に溢れて華やかだった邸宅は、火が消えたように静かだ。愛宮が詮子に送った恨み文にも返事はなかった。

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