2章 あやめながきね(3)
彼は唸ったが、妻にも一理ある。どの道であっても障害があるのなら、娘自身が知らされていなければあまりに惨すぎるだろう。
雅信の所有する邸第のひとつが、かつては朝忠のものであり、穆子が伝領した鷹司第である。土御門大路に北面しており、出仕をするにも都合のよい立地であった。両親は一条大路の邸宅が中心だが、婿取りを意識したころから長女はそこで暮らしている。
ここは私ひとりがよいでしょうと、穆子は鷹司第に出向き、寝殿母屋の北廂から娘の部屋に入った。母は淡々と娘に次第を話す。とはいっても乳母を通じて、大体のところは知らされていた。母と向かい合った長女は、おっとりとして穏やかな風情を崩さない。
「まあ、それは大変なお話ですこと」
聞かされたばかりの体を整え、彼女は答えた。
「私は父上と母上のお心のままに、と思っております」
「私としては、道長様を、と考えているのです」
夫に対したときとは打って変わって、毅然と穆子は言い切った。彼女は中納言の姫君として育ちはしたが、決してたおやかで大人しいのみの女ではない。若いころから物をよく観察する人間で、長く受領を務めた父について地方にも下り、地方豪族や中級・下級貴族の実態も見知っていた。
そもそも彼女の母は、武門の誉れ高い一族の出でもある。雅信の妻になるに当たり、彼女は家司や家人、女房、乳母なども注意深く選んだ。実力のある文官と縁のある受領は誰なのか。有力者の許に多く乳母として伺候する姉妹がいるのは誰なのか……。彼女は、上級貴族との
今や、彼女の住む一条の本邸は単なる住居というに留まらず、雅信と穆子たち家族にとって、職分と家政、双方の分野で運営の要であった。真面目一辺倒の雅信が、藤原氏北家に潰されることなく左大臣を続けていられるのにも、この妻の後援が果たした役割は大きい。
その彼女の許にもたらされた情報によれば、道長には何かしら兄弟たちとは異なる魅力があるようだった。なるほど実資は有能さでも、真面目な性分でも確実ではあるだろう。けれども、それで得られる幸福は“公卿の妻”以上のものではない。九条流の勢いを押し留め、巻き返すまでの力は持たないだろう。
穆子は、娘にもっと別な未来を予感していた。
この子が男子であったらと、どれほど考えたことだろう。母の洞察力を持ち、父の忍耐強さと高潔さを兼ね備えた長女が、もし男に生まれていたら、どんなに優れた公卿となることができただろうか、と。しかし、それは叶わぬこと。ならば、この子の力を最大限に発揮できる機会を作ってやりたい。
それには、夫として摂関の子息がもっとも相応しい。
「でしたら、それでよろしゅうございます」
貴女、と母はため息をつく。我が娘ながら、ときどき掴みきれない面が見える。
「ご自分のことですよ。人事のように」
「そうですわね」
彼女は艶やかな黒髪をさらりと流して、婉然と微笑む。
「かの御方の想い人は、お綺麗な方なのだとか。羨ましいこと……。そのような女人を妻になさるとは」
「倫子」
母は呆れて諭そうとしたけれども、適当な言葉が見当たらなくて、結局は口を噤んだ。
左大臣から妻訪いを許されたとき、兼家をはじめ、道長の親族で驚かない者は皆無だった。もっとも慌てふためいたのは道長である。彼は即座に姉の許に参上し、「話が違うではありませんか」と責め立てた。
「あなたの言い分はわかっています」
詮子も、よもや雅信が弟を受け入れるとは想像だにしなかった。調べさせたところによると、正妻が夫の反対を押しきってのことだとか。詮子にとっては宣戦布告をされたようなものだった。
皇太后たる彼女が後見していることを知りながら、敢えてぶつけてきた。いい度胸をしている。尾を踏まば頭まで、ということだろうか。それならば彼女にも考えがあった。
「あなた、鷹司第に通いなさい」
そんな、と彼は眉を顰める。
「これは研鑽を積むよい機会です。左大臣殿の見識と人脈を間近で見て学び、すっかりいただいてしまうのです。あちらはあなたを侮っているでしょうよ。公卿として身を立てたいのなら、強かになるべきです」
それは正論だ。彼は不満そうに口ごもった。
「それに、あなたは宮の方をただひとりの人と思い定めて選んだのでしょう? 妻が増えたくらい何です。心変わりが心配ですか。貴族の男して生まれたのだから、正妻のみを守るなんて自己満足に過ぎません」
姉の舌鋒は鋭い。確かに、彼もこのままでいいのだろうかと感じることはある。父にも、兄たちにも、姉にも可愛がられ、出世にも不安を覚えたことはない。けれども、近ごろの道隆は長男とはいえ、早くも弟らを排斥して自らの嫡流を唯一の後継と定めようとしているような、そんな意志が垣間見える。その後押しをしているのが、藤原氏ですらない高階であることも不穏さを増す一因だ。兄弟で激しく争いあった、父と伯父のような見苦しい羽目にはなりたくない、とは思うものの……。
彼にも彼だけの地盤が必要なのは事実だったし、どのみち、今さら喚いたとして変えられるものでもなかった。
この縁談で一番苦しんだのは、もちろん明子だった。自分の口で伝えねばなるまい、と思っても、彼はなかなか彼女にそうと言えなかった。明子にはすぐに伝わっている。女房や乳母たちの情報網は、ともすれば男たちのそれを上回るものである。噂の形で聞かされたとき、明子は倒れてしまい、半日は起き上がることもできないほどだった。
お互いに本題に触れることはできず、もやもやとした気持ちをわだかまらせたまま日は過ぎて、婚儀の夜が近づいた。笑わなくなった明子に申し訳ない気持ちで、ずっと視線さえ逸らしていた道長だったが、本来、快活でさっぱりした性格ゆえに、ついに黙って出かけることに耐えられなくなった。
「もう聞き及んでいると思うけれど、明日、私は左大臣の娘に通います。偽りで欺こうとしたことのしっぺ返しがこれです。けれども、左大臣殿の婿となることは、私にとって必ずや有利に働くでしょう。そのための結婚だと、わかってはいただけないでしょうか」
知ってはいても、彼から真実を告げられると、彼女は身を引き裂かれそうに思った。いっそ離縁してくれたら、と訴えたくなるほど。母の許に帰って、今はもういない優しい人たちの思い出に浸って暮らしたかった。最初から、そうしていれば。
けれども、彼女はひとりの身体ではない。言いそびれてしまっているけれども、この数日が終わったら、今度こそ伝えて……。私は強くならねば、と思い返した。彼女は、こくりと頷く。その頑是ない様子は、彼が初めて目にした春の女神そのままだった。
「摂政様の御曹司と結婚したのですもの。覚悟しております。どうぞ、お行きになって。そして、叶うならば私をお忘れにならないで……」
冷えた指先を掌で包み、彼は彼女を引き寄せる。これほどか弱い人を、捨て置くなどできるだろうか。彼女には、自分しかいないのに。
「すまない……。どうか許して欲しい」
許す? 彼女は自分に問いかける。誰かに
彼女は妻らしく彼の身支度を整え、心を切り刻まれながらも、その朝、夫を送り出した。
日が暮れた。婿を迎える鷹司第の設えは、高松第の婚儀に負けないほど素晴らしい。が、沓取りに出た左大臣は好意的とは言い難い。雅信は、まだ承服したわけではないのだ。それは、道長の気持ちをさらに萎えさせた。
正直なところ、彼は父と姉らによって「巻き込まれた」という被害者意識が強い。新婚一年で別の妻、というのも色好みの振る舞いのようで落ち着かないうえ、こう敵意を持たれてはたまったものではなかった。
大体、彼は過剰な出世などは望んでいない。可能性は皆無ではないけれど、活発な兄たちを見れば難しいことくらいわかる。長く大納言にいて、晩年頃に右大臣……、になれたら将来的には上々だ。
彼自身は大きな困難に遭ったことはないとはいえ、元服したのちも、近い親戚、遠い親戚が摂関の座に手を伸ばしては凋落していった。あんなものは、ほとんど時の運だ。そのためにあくせくと策謀を巡らせ、身内といがみ合って良い星回りを待ちながら、きりきりと暮らすのは真っ平ごめんだったのだ。第一健康に悪い。
と、帳台に横たわって女を待つ間にも、不平は絶えず、心は高松第に飛んでいる。あの人は、どんなに悲しんでいるだろう。必ず守ると約束したのに。一体、どうしてこんなことになってしまったのか……。
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