2章 あやめながきね(2)
高松第に着くと、先触れで帰宅を知らされていた明子は着替えと食事を用意して待っていた。鮮やかな萩重の直衣は彼女が仕立てたものだ。薫物の具合に、秋の兆しを感じる。彼はそうした些細なところに、育ってきた環境の違いを発見して、余計に愛おしくなる。過去に妻ではないにしても、女との付き合いはあった。ほかの女とは異なる、何かが彼女にはある。
居間で妻を傍らにして寛ぎながら、どう切り出したものかと考えあぐねていると、明子は、嬉しそうに「お話があるのです」と微笑んだ。
「実は私もですよ」
彼は慌てて、口を挟む。この笑顔で話された後に、詮子の依頼を伝えたのでは気まずくてならない。
「先に言わせて欲しい……。実は、姉上に命じられて、左大臣殿の娘御に懸想文を送ることになったのです」
明子は表情を強張らせた。
「何も本心からの縁組ではなく……。政治的な
でも……、と不安げに彼女は彼を見上げた。胸が痛む。
「私も、そのようなことに関わるのはよしとはしないのですが、父上と姉上おふたりからというのでは、断ることも侭ならず……。どうせ左大臣殿はお怒りになるでしょうから、私にとっても誇れる話にはならないでしょうし、どうにも」
弱りきっている彼は、明子には真実を語っているように見えた。
「けれど、貴女がどうしても不愉快だというのなら、いいのです。姉上には、お断り申し上げます」
彼女は寂しく苦笑する。そんなこと、貴方にできるはずがないのに……。
―― 貴族、それも公卿に連なる男君と結婚するということは、政の綱引きと無縁ではいられないということです。愛寵があっても、子女に恵まれても、初めには思いもよらなかったさまざまに心を煩わされるもの。
婚儀の前、彼女を見舞った母は娘にそう言い聞かせた。だから、そんな懊悩からは遠ざけておきたかった、とも。
母上の案じていたことが、もう一端を見せているのかしら、と彼女は心配になる。彼女の曇った気配を見取って、彼は狼狽し、いや、いいんだ、姉上には言うから、と取り成した。
「いいえ」
彼女は首を振った。彼の心は、ここにある。何をためらうことがあるのだろう。
「貴方が必要と思われることに、否やは申し上げません。どうか、父君と姉君のご期待にお応えなさいますよう」
彼は、ほっと胸を撫で下ろす。口先ではどうであっても、あの姉に逆らえる気がしていなかったからだ。
「そうか。少しばかり嫌な思いをさせるかもしれないけれど……」
それで、君の話とは? と彼は面倒な話題を変えようと、努めて明るく彼女に尋ねた。
「いえ……、それはまたの機会に」
言うべきだったのだろうか、とのちに彼女は思い返した。伝えれば、さすがに彼も詮子の頼みを断ってしまったかもしれない。このとき、彼女には妊娠の兆候があったことを……。
承諾はしても本心では気の進まない道長は、文を送るのをずるずると延ばし、そのうちに秋も深まってくる。
神無月に入る直前、彼は近衛少将を止められた。背景には長兄・道隆による嫡子・伊周の引き立てがある。道隆は息子を少将にしたいのだが、現在は定員以上に任官者が多いとあって、多少の整理が必要になった。その結果、彼が少将を辞めることになったのである。それ自体は、内々に参議以上の任官を仄めかされていたので、不満はなかったのだが……。
とにかく、しばらくの間、彼の肩書きは左京大夫のみになった。正直、圧力を掛けて来たな、という感触は彼にもある。しぶしぶながら文を出したのは、神無月に入ってからだった。
この申し込みは、当然ながら雅信を激怒させた。
正式に結婚した妻がふたり以上いる公卿は珍しくない。同時期に複数という者もいる。道長の父である兼家もそうだし、彼らの結婚とはそういうものだ。しかし、相手が現役の左大臣息女となれば話は完全に別になる。
前の年、詮子の庇護の下で道長が明子女王と結婚したことを知らない者はいない。つまり、道長の文は、彼の娘と明子とを天秤にかけるという意味になる。兼家の威勢に押され気味とはいえ彼は現職の大臣であり、その娘を求めるなら最初から嫡妻を前提として申し込むのが常識であった。身分の高い女君で、このような失礼な申し込みを受けた例はない。
それに、すでに婚儀を済ませた妻が明子であることも気に掛かっていた。ひとつは、後見が
雅信は、芸術の才能に秀でた父・敦実親王の血を受けて育った。母方のイトコには鬼ですら魅惑されると評判の源博雅がおり、醍醐系とは異なる雰囲気ではあるが、宇多系の伸びやかで美しいものを愛する環境が周囲にあった。皇子のように気高く成長した彼は、臣下になってからも、ともすれば堅物と評されがちだ。それは彼には一貫して守ろうという行動規範があるためで、ゆえに信頼に足ると言う者も多かった。
そんな彼からすれば、薄倖な女王が手にした結婚を横取りして娘が嫡妻になっても、逆に元左大臣の娘に現左大臣の娘が負けるようなことになっても、どちらにしても嬉しい話ではない。
「つまらぬ謀略を仕掛けてきおって」
娘をこよなく愛する彼は、相当に猛った。
では断るのか、といえば、それはそれでややこしい事情があった。世間からすれば「摂政子息でも断るとは。その辺の男ではどうにもならぬ高嶺の花だ」となる。兼家の息子に匹敵し、かつ向こうを張り合おうなどという貴公子はそういるものではない。
せめて彼が参議以上であり独身であれば、彼も検討をしないでもない。しかし、道長はつい先日少将を辞めたばかりで、現状ただの左京大夫である。左京大夫といえば、名目のみの名誉職と言ってよかった。これほど条件の悪い男に妻訪いを許したとなれば、膝を屈して娘を差し出したようなものと見做される。
「つまるところ、真剣な縁組など考えてすらいないのだ」
あの青二才が、と彼は吐き捨てた。内裏でも、兼家らの増長は目に余るほどだ。道長は典型的な末っ子御曹司で兄たちほど悪い印象はなかったけれども、こうなると軽薄そうな笑顔も憎悪の対象になる。あんなお調子者に娘をくれてやる気など、微塵もなかった。
「まあ、そのようにお怒りにならないでくださいまし」
彼の妻も不快ではあったが、夫よりは冷静だった。
彼女の名は、穆子。雅信には三人めの妻になる。彼女の父は堤中納言と呼ばれた藤原朝忠で、祖父には右大臣にまで上った定方がいる。和歌をよくし、管絃にも秀でた一族であり、その点で雅信とは共通するものがあった。
彼女たち姉妹は、それぞれが雅信・重信と結婚したのだが、そう落ち着くまでに縁談ではかなりの苦労を重ねた。然るべき相手が見つからない場合の女たちの辛労は、経験済みだった。
「このお話、それほど悪いものでしょうか」
なにを、と雅信は眦を吊り上げて、問題点をあげつらう。はいはい、そうでしょうとも、と穆子もいちいち頷き、「それは否定致しませぬ」と答えた。
「なれど、あの子にかの方以上の男君が考えられるでしょうか? このまま無為に年を取らせ、尼にするほかないとなるよりは、余程将来があります」
「小野宮の
憮然とする夫に、彼女はさらに食い下がった。
「貴方も妻を失う悲しみはご存知のはず。一年でその憂いは晴れましょうや。そもそも、あちらの方はまだ亡室に未練をお残しとか。亡くなった方の影を感じての新婚生活は、あまりにつろうございます」
我が身に引き比べられると、彼も返す言葉がない。
「だからといって、左京大夫殿では……。身上もさりながら、大変な愛妻家というぞ。それでは同じことではないのか。顧られぬ妻になる姿など、見とうはない」
「さて……」
生きている人間相手ならば、やりようがあります、と彼女は密かに思ったが、それは夫には黙っていた。
「まずは、娘本人にも聞いてみてはいかがでしょう。どうなるにせよ、あの子の人生です」
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