2章 あやめながきね(1)
秋に入って道長は左京大夫に任じられた。近衛少将でもあり、備前の遥任国守でもあり……、と兼家の嫡流に身を置く彼の明るい将来は疑うべくもない。
詮子はそんな弟を呼び出す。結婚もしたことだし、次兄とふらふら遊んでいたころより落ち着いただろうと、よくよく観察した。ゆっくり会うのは久しぶりである。彼は通されてすぐだというのにそわそわしている。大方、さっさと帰りたいのだろう。彼女は、夫婦仲は睦まじそうだけれど、と軽くため息をついた。能天気な性格は、一朝一夕に変わるものでもない。
宣旨ひとりを残して人払いをし、気兼ねない空間を作ってから、彼女は近況を尋ねる。当初、仕事の状況を掻い摘んで報告していた彼は、家庭生活に水を向けると、滑らかにあれこれ喋りだした。要は惚気である。
「それは良いけれど、あなた、
多少苛つきながら、姉は弟を制する。きょうだいとはいえ、他人の恋愛事情などどうでもいい。何のために労力を払って、女王を娶わせたと思っているのか。
「それがまださっぱり。仲が良すぎるのでしょうか」
と、別段困った風でもなく答える。まあ、そのうちできるでしょう、と受け流す弟に呆れつつも、彼女は内心、少し話をしやすくなったわ、と思った。
「今日、呼んだのはあなたにちょっとした頼みごとがるからです」
それは姉上の仰せであれば、とごく気軽に返事をしたのだが、詮子の話はそんな簡単なものではなく、彼はみるみる表情を曇らせることになった。
現在の左大臣は、
円融帝の御代も花山帝の御代も、彼が娘を入内させるのではという噂がまことしやかに囁かれた。円融帝時代には噂の直後に今の一条帝が誕生し、花山時代にはその猶予がなかった。
詮子の評価では、堅物ゆえの臆病ともいえる慎重さで、好機を逃してきた男でもある。もっとも、彼がそうせざるを得なかったのは源兼明、源盛明の皇籍復帰、源高明の左遷を朝堂の一員として目の当たりにしたからでもあった。彼にはイトコにあたる一世源氏たちには皇族に戻るという道がある。が、二世源氏である雅信にはそれがない。もしものとき、待つのは高明と同じ運命だ。
とはいえ、彼の娘も二十歳を超えた。若い時分の結婚では女子を得られなかった彼は、不惑を過ぎてもうけた長女に大きな期待を寄せている。后がねと入内を願ってきたけれど、幼帝ではそれは叶わない。彼は諦めて現実的な相手を探そうと考えたらしい。娘を未婚のまま枯れさせるのは、さすがに忍びない親心である。
問題は、その相手が小野宮だったことだ。
小野宮流には独身で年頃の貴公子がふたりいる。ひとりは道兼の養女を許婚とする公任である。道長と同年の彼は今年二十二。相手はやっと十三である。当人はどこ吹く風といった様子だそうだが、身内には「これではいつ赤子が望めるやら」と気を揉む者も多いらしい。そこには道長の結婚も影響しているし、小野宮流親族内での鍔迫り合いもある。しかし、約束の反古にも繋がりかねないため、公任はよい顔をしないとのことだった。
「父上は兄上に働きかけて、早々に裳儀を済ませ、四条の中将との婚儀を進めるとおっしゃいました」
道長は、密かに情報の詳しさに舌を巻く。いくら皇太后とはいえ、どれだけの人材を掌握しているのだろう。
本命はもうひとりの貴公子、実資だ。彼は実頼の三男・斉敏の子だが、元服後ほどなく父を亡くしたことと、幼いころから抜きん出て学問に優れていたため、実頼に気に入られ、その養子となっている。実頼の期待は、小野宮流が所有する莫大な資産をほとんど彼が相続したことでも明らかだ。円融帝、花山帝、一条帝と三代の蔵人頭を務めている頭中将でもあり、歴代帝からの信任は厚い。その彼は、前年の初夏、十年ほど連れ添った妻を亡くした。幼い娘がいるだけで、彼はまだ三十一。後妻を必要とする将来有望な貴公子が独身に還ったのである。
姉に指摘されるまでもなく、実資と雅信の結びつきがどういう意味を持つのか、彼にも想像できる。同じ蔵人職として、日々彼の有能さを感じている道長なのである。
「ですが、雅信殿と実資殿にどのような仲立ちが……」
源大納言です、と悔しそうに詮子は雅信の弟・重信の名前を告げた。なるほど、と彼も納得する。
重信の正妻は、小野宮流・頼忠の娘だが、血縁上は姪に当たる。本来、彼女は源高明の長女として生まれた。つまり、明子にとってはかなり年長の異母姉になる。彼女が頼忠の養女となったのは、母が実頼の長女だったためであり、産褥で実母を失うと、娘は母の実家へ行き、息子は父親の手許に残ることに決まった。高明は抵抗したのだが、後妻に師輔の三女を選んだ娘婿を実頼は許さなかった。それに小野宮流には女子が少ないため、せっかくの孫娘を他氏に渡したくないという意地もあった。
彼女は叔父の養女として小野宮流で育ち、源重信と結婚した。重信も兄同様に真面目な性格で、女遊びなどはほとんどしない。しかし、頑固一辺倒の兄とは違って柔軟な面もあり、元皇族にしては細やかに目が行き届くというので、周囲の評判は良い。
雅信が弟に相談したところ、どうやらそう勧められたらしく、水面下での打診がされているという。ところが、実資はあまり乗り気ではない。
「亡き妻を忘れられないそうよ」
くだらない、と言わんばかりに姉は吐き捨てる。気難しい男ではあるが、愛妻家であり子煩悩であることは周知の事実だ。それは本音だろう、と道長は思った。
詮子からすれば、妻の面影を胸に、残された娘を男親のみで育てるなどは無意味な感傷に過ぎない。大切であるからこそ女親の後見は重要なのだ。召人では足りない。それは彼ら貴族全般の常識ではあるものの、実資の気持ちもわからないではない道長だった。
本心ではそう感じる者もいるからこそ口の端に上がり、詮子の耳まで届いたのだろう。ご寵愛深ければこそでしょう、と取り成す宣旨の言葉からもそれがわかる。
「そこでです。あなた、雅信の娘に懸想文をお出しなさい」
「は?」
彼は顎が落ちるかというほど驚いた。
「何をおっしゃるんです?」
本当に結婚しろなどと言っているのではないわよ、と彼女は彼の驚愕を笑い飛ばした。
気が進まないとはいっても、実資も然るべき継室のいない不利益はよく理解している。最終的には受け入れる方向になるだろう、と事情を知る者の見立てがあったし、詮子もそう考えている。この膠着は、彼自身が納得するための時間でしかない。
けれど、そこに横槍が入ったらどうだろう、と彼女は言う。もし、他の有力な貴公子からの申し入れがあるとすれば、もともと消極的なのだから、きっと気を変えてしまうに違いない。他人と争ってまで、新しい女を手に入れるほどの気力はないはずだ。それにはいい加減な貴族ではいけない。実資が本気でかからなければ奪えないと信じるほど、勢いがある貴公子……。
「そこで私ですか」
道長はあからさまに嫌な顔をした。それも姉は予想している。
「左大臣殿の性格をお考えなさい。すでに子を何人も為した
私だって然るべき妻がおります、と彼はむっとした。
「中の兄上がいらっしゃるではありませんか」
次兄である道綱は、まだきちんとした正妻がいないでいる。順番ならそちらだろうと彼は思うのだが、詮子は、冗談はおやめ、と問題にしなかった。
「あの左大臣殿が、摂政の息子で結婚して一年のあなたを婿とすると思いますか? 多少なり他者が怯めば、それでいいのよ」
しかし、となかなか承諾しない弟に彼女は、これは決まったことなの、と突きつける。
「これは、父上もご承知のことです。第一、あなたは、
それを指摘されると否やは言いにくい。
その年の春、道綱と葵祭を見物に行って、彼は叔父である右大臣・為光とひと悶着を起こした。これは礼儀知らずにも叔父の牛車目前を横切ったふたりが悪かったのだが、ちょっとした甘えで仕掛けた嫌がらせは予想以上の反撥になって戻り、彼らはすっかり面目を失ってしまったのだ。
為光の随行者たちに大量の
結局、兼家は、可愛がっている弟であっても、自家より下風であることをきっちりと示した。道長たちの溜飲は下がったが、同時に相当な小言ももらった。そのときのお返しをなさい、と姉は突きつける。道長は、到底拒絶し通すことができずに、姉の許を下がることになった。
断られることが前提の懸想文なんて、バツが悪いことこの上ない。人の話題にも上るだろうし、明子にどう伝えればいいのか、と思案しながら彼は高松第に向かった。黙っているという選択肢もあったのだけれども、彼は彼女に隔てを作るつもりはなかった。ともあれ、実際に通うわけではないのだし、と彼は持ち前の楽天さで気持ちをさっと切り替えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます